歌人 - 冬の旅行者 -

七紙野くに

歌人 - 冬の旅行者 -

 ある村に、どこといって変わったところもない老人がいました。名を知らない村人は「おじいさん」と呼んでいました。大きな村ではなかったので、それで充分でした。


 天気が良い冬の午後、おじいさんは隣町へ出かけました。その日は何年か前に亡くなった、おばあさんの誕生日。だから、いつも美味しいと言ってくれたシチューを供えて上げたかったのです。しかし冬に野菜を探すのは容易ではありません。見付けた頃にはもう、陽が落ちていました。


 帰り道。買い物袋を背負い村の入り口に差し掛かると、星空の下、美しい響きが届きました。音に惹かれ歩いていくと、そこは公園でした。小さな村の小さな公園です。おじいさんにとっては慣れ親しんだ自分の庭。おばあさんと巡り会った縁の地でもありました。


 そんな場所で音の主を前に、おじいさんは動けませんでした。心が洗われるようで、言葉をかけることさえ忘れていたのです。


「おや、五月蠅かったでしょうか」

 ギターを手にした若者が体を起こしました。

「いやいや、あまりに綺麗な調べだったので聞き惚れていたのです」

 二人は暫く、お互いを見つめていましたが、おじいさんの方から再び口を開きました。

「あまり見ないお顔ですが、旅の方ですか?」

「はい、私は一年中、冬を求めて旅をしています」

「何故、厳しい季節を追いかけるのですか?」

「このギターが冷たい空気を好むのです」

「失礼ですが、今夜、泊まる宛てはおありでしょうか?」

「いいえ、ここで一晩、明かすつもりです」

 おじいさんの心は決まっていました。

「それなら家へ来ませんか、年寄りの一人暮らしなので、気を使うこともありません」

 最初は拒んだ旅人でしたが、おじいさんが熱心に誘うので、お世話になることにしました。


「さあ、こちらへお掛け下さい」

 おじいさんはそう告げると暖炉に薪をくべ、簡単な台所へ向かいました。


 とんとんとん。包丁がリズミカルに野菜を刻みます。じゅう。鍋の底にひいたバターが食材を迎えます。丹念に灰汁を取ったら、くつくつと煮込みます。


 時間がかかるので暖炉の近くに立てておいた赤ワインをグラスに注ぎました。

「これは暖まります、ありがとう」

「ところでお名前をお聞きしていませんでしたね。私はセローといいます。あなたは?」

「名前はありません、でも」

 一瞬、口籠もった旅人は続けました。

「行く先々で歌人、うたびと、と呼ばれています」

 ワインが尽きるまで幾らか喋るとおじいさんは席を立ちました。


 テーブルに鍋敷きを置きます。ミトンで琺瑯の鍋を握り、その上へ運びます。食器は三人分。高価には見えませんが、縁に薄く銀の装飾が施された上品なお皿です。


「何故、三つあるのですか?」

 旅人が遠慮がちに尋ねました。

「あちらへ逝った妻がいましてね、そこは彼女の席です。丁度、誕生日で」

 旅人はそれ以上、踏み入ろうとはしませんでした。


 翌日も良く晴れました。朝食を終えると旅人は旅立ちます。

「その前に」

 旅人は玄関先の古ぼけた椅子に座りギターを取り出しました。

「お礼には足りないかも知れませんが」

 澄んだ空気に澄んだ音色。やがて村人が集まってきました。


 観客が出来たのを確認すると旅人は帽子を裏返しました。そして歌い始めました。声を載せたのです。「歌人」、その名に相応しい美声でした。


 人々は帽子にコインを投げ入れました。拍手も大きくなりました。次いで何曲目かを奏でようとしたとき、隣の主人が来て苛つきを伝えました。

「静かにしてくれないか、こっちは疲れているんだ」

 普段から怒鳴る人ではありません。たまたま虫の居所が悪かっただけです。

「済まなかったね」

 歌人は帽子のコインを手で受けると、おじいさんに渡し、微笑みと共に去っていきました。


 何回目かの冬がやって来ました。おじいさんは歳を重ね、その分、弱くなっていました。食欲もなく、日に日に衰えていくのが分かります。その内、家の中が世界の全てとなり、殆どベッドから離れられなくなりました。村人達はおじいさんに優しく接しましたが「もう長くない」ことを知っていました。


 そんなある日、扉を叩く音がしました。

「入って良いよ」

 そこには見覚えのある人影がありました。歌人が戻ってきたのです。右手にはギター、もう片方には野菜とワインを抱えていました。

「久しぶりですね」

 どちらからともなく、会話しました。

「キッチンをお借りしますよ」

 歌人はいつかの、おじいさんの如く、包丁を軽く打ち鳴らし、手際よく鍋に材料を放り込みます。煮込みに入って一段落した歌人が、腰を下ろし枕元に話しかけました。


「何か聞きたい歌はありませんか?」

 おじいさんには答える力が残っていませんでした。歌人は丁寧にギターを調律すると「鳥の歌」を静かに、囁くように紡ぎました。


 おじいさんはこれまでの人生を思い浮かべていました。優しかった両親のこと、夢中になって一緒に遊んだ悪戯っ子達、苦しかった開墾時代、おばあさんとの出会い、別れ。


「巣立ちの歌ですよ」

 おじいさんはもう頷きませんでした。心地よく眠っているのにも似た安らかな表情でした。


 歌人はテーブルに二組、配膳を行い、鍋を中央に据えます。ろうそくを灯し、二つの椅子を少し引くと、窓の外を眺めました。


 雪がしんしんと降っています。窓の横のカレンダーには赤い印がありました。「誕生日」そう細い字で書かれていました。


 歌人は優しく玄関の扉を閉じ、微かに覗いた地面を後にしました。

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