遺書

深見萩緒

もういいよ


 たった五文字が言えなかった。

 私はため息をついて、目頭から斜め下に刻まれた小じわを、指先でぐりぐりとほぐした。今年でもう三十九になる。アラフォーなんて軽率な単語で表現されるけれど、四十年という人生の重みはそんな横文字ではとうてい表現しきれない。



 私は可愛い少女だった。これはうぬぼれや身内の贔屓目などではなく、本当に可愛かった。白い肌にくりくりの大きな目、高い鼻、形の良い唇、長い手足。容姿に裏付けされた自信と社交性が、さらに私を魅力的な少女にした。


 ――私は幸せだ。幼いころからはっきりと自覚していた。私は幸せ。裕福な家に生まれ、恵まれた容姿を持ち、誰からも愛される。きっと素敵な男性と出会い恋をして、いずれは結婚して子供を持ち、幸せな女として一生を終える。

 その確信の通りに、私は二十一のときに年上の男性と結婚した。世間的に言う、いわゆるエリートサラリーマン。収入はもちろん、同世代の平均年収よりずっと上。

「私、すっごく幸せよ。生まれてきてほんとによかった」

 あのころ私は、その言葉を何度も繰り返していた。本当に幸せだったのだ。夫は、私のそういうところが好きだと言ってくれた。幸せを当たり前のものだと思わず、きちんと感謝する謙虚なところが好きだと。

 幸せが当たり前のものだなんて、そんなこと思うわけがなかった。お金、容姿、頭脳、運。そういったもののひとつでも欠けていたら、幸せなんてすぐに手のひらからこぼれ落ちていってしまうのだから。



 私、すっごく幸せよ。生まれてきてほんとによかった。そう言わなくなったのは、娘が生まれて少ししてからだろうか。確か、そうだ。

 奈津美はおとなしい子供だった。容姿は、そこそこ。まあこんなものだろうと妥協できる程度。決してブスではない。顔で勝負できないならば勉強、運動、芸術、なんでもいいからそういうものを伸ばせばいいだけだ。まだチャンスはある。私はどうしても奈津美を幸せにしてあげたかった。


 奈津美のおとなしさが歯がゆかった。現代社会においてコミュニケーション能力がどれほど重要なものか、なんとか奈津美にわからせたかった。

「お友達をつくるのが、どうしてそんなに難しいのよ!」

 ついに奈津美を怒鳴りつけたのは、彼女が幼稚園に上がって半年したころだ。人見知りが激しくて友達がいない。幼稚園の先生に聞かされて、私は奈津美の手の甲をピシャリと叩いた。ごめんなさい、と奈津美は呟いた。蚊の鳴くような小さな声。それにもまたイライラしてしまう。

「一緒に遊ぼうって言うだけでしょ、簡単でしょう!」

 叱りつけると、驚いたことに奈津美は「だって」と言い訳を始めた。

「だって、ごほんをよんでたほうが楽しいんだもん」

「楽しい、楽しくないじゃないの! お友達を作るのは大切なことなの! 分かる!?」

 金切り声をあげると、奈津美はビクリと身を縮こまらせた。その様子があまりに憐れで、私はつい奈津美を許してやりそうになる。だけど私は心を鬼にした。なんとしても奈津美を幸せにしなければ。これは親である私の使命であり、義務だ。

「奈津美のためなの。ママ、奈津美のためを思って言ってるのよ」

 奈津美を強く抱きしめる。私は間違ってなどいない。



「なあ、おい。まだか?」

 夫が私を呼ぶ。洗面所を占拠してしまって、もう一時間が経とうとしている。化粧は一向に進んでいない。

「ごめんなさい。あなた、先に済ませてしまって」

 洗面所を出ると、夫は驚いた顔で「お前、まだ化粧もしてなかったのか」と言う。彼の目の下にも、深くしわが刻まれている。

「ごめんなさい」

 私はまた謝った。夫は優しい。「いいよ、疲れているんだろう」と言って、私の肩を軽く叩いた。


 ごめんなさい。思えば、奈津美は私に謝ってばかりだった。お友達が作れなくてごめんなさい。テストで満点を取れなくてごめんなさい。走るのが遅くてごめんなさい。絵画コンクールで賞を取れなくてごめんなさい。

 私はそのたびに奈津美の努力不足を責め、もっと頑張るようにと要求した。

「奈津美のためなのよ。ママは奈津美に幸せになってほしいの。奈津美を愛しているからよ。分かってくれるわよね?」

 奈津美を抱きしめながら言うと、奈津美は「うん」と頷いた。

「ママ、ありがとう。ごめんなさい」

「いいのよ奈津美。愛してるわ」

 私は奈津美を愛している。奈津美もその愛に応えようとしてくれている。それがせめてもの救いだった。愛している。愛していた。私は間違ってなどいない。


 「やりすぎなんじゃないか」という夫の言葉に激昂したこともあった。あなたは奈津美が不幸になってもいいの。可愛いひとり娘を、幸せにしてやりたいとは思わないの。夫はまだなにか言いたそうにしていたが、反論することはなかった。当然だ。だって私は間違ったことは言っていない。夫だって勉強ができたからいい大学に行けて、いい会社に就職できて、今の幸せを勝ち得ているのだから。なにか突出したものがあるからこそ、人は幸せになれる。残酷だが揺るぎようのない事実であり、真実だ。

 私は奈津美を愛している。奈津美を幸せにしてやりたい。



「奈津美……」

 彼女の部屋に足を踏み入れる。タンス、ハンガーラック、本棚、勉強机、ベッド。すべてきちんと整頓されている。趣味のたぐいのものはない。だって奈津美は趣味なんて持ってなかった。そんな暇があったら勉強に打ち込むように強く言っていたし、奈津美は素直にその言いつけをきいた。親に反抗なんてしない、聞き分けの良い子だった。こんな良い子が幸せになれないはずがない。だからなんとかして、奈津美の「幸せになれる要素」を探そうとした。文字通り、必死だった。

 ……けれど。


 結局のところ、奈津美は何にもできない子供だった。私に似たならば可愛らしい女の子だっただろうにそれもなく、夫に似たならば頭脳明晰、運動神経も良いはずなのにそれもなく。社交性もない、芸術の才能もない。ない、ない、なにもない。奈津美にはなにもない。


 奈津美が高校に上がったころには、彼女の「なんにもない」は決定的なものになりつつあった。修学旅行の集合写真を見たとき、私の疑念――奈津美は「幸せ」にはなれないのではないか――は、確信に変わった。

 女子の最後列の端っこで、笑っているつもりなのかわずかに口元を歪めて写っている奈津美――私の娘。ほかの子たちは仲良し同士で顔を寄せて、くしゃくしゃの笑顔で写っているというのに……。


 あまりのショックに、私はその写真を二度と見ることができなかった。私が奈津美と同じ歳だったころ、私は「主人公」だった。可愛くて明るくて人気者。奈津美のクラスの集合写真にも、そういう子が何人か写っている。この子たちは主人公。そして主人公のまわりには「メインキャラクター」がいて、その外側に「脇役」がいる。奈津美は明らかに……脇役だった。

 信じたくなかった。私の娘が脇役。いてもいなくても問題ない存在。背景とおんなじ。


「どうして? 奈津美、どうしてママの人生をめちゃくちゃにするの?」

 写真を破り捨てながら、私は三十九年ぶんの人生を台無しにされた怒りを娘にぶつけた。今日という日まで生きてきて、私はとても幸せだった。痛く苦しい思いをして子供を産んで、十七になるまで何不自由なく育てて、それなのにどうして、その子供にこんな思いをさせられなければならないのか。あまりにも不条理だ。

「奈津美が幸せならママも幸せなの。奈津美が幸せにならないと、ママも幸せになれないの。どうして奈津美は、ママを不幸にしようとするのよ?」

「ごめんなさい」

 いつものように、奈津美は謝罪する。その言葉に何の意味もない。何度も聞いてきた儀式めいた謝罪。

「何に謝ってるの? ママがどうして怒ってるのか、分かってるの?」

 なおも責め立てると、奈津美はふと顔を上げた。その目が真っ直ぐに私を見ていて、その眼光が見たことないほど昏くて、私は思わず怯んでしまう。

「分かってるよ、ママ。ごめんなさい」

 奈津美は泣いてはいなかった。怒ってもいなかったし、私を恨んでいるような表情でもなかった。ただ能面のような無表情を貼り付けて、能面の向こうから私を見ていた。

「生まれてきて、ごめんなさい」


 ――私、すっごく幸せよ。生まれてきてほんとによかった。

 まだ若かったころ、よく口に出していたこの言葉。十七年生きた奈津美は、同じことを一度でも感じたことがあっただろうか。



 しっかりと化粧をしても、目の下のしわもクマも消せなかった。これは人生の軌跡なのだ。ちょっとやそっとの誤魔化しで、見えなくできるわけがない。だとしたら、私はどこで間違ったのだろう。私は奈津美を愛していたし、奈津美を幸せにしてあげたかった。でも、私は本当に奈津美を愛していたのだろうか。私は本当に、奈津美を幸せにしたいと思っていたのだろうか。


「幸せって、なんだと思う?」

 隣に立つ夫に訊いてみる。真っ黒な喪服は、灰色めいた冬の午後に深く溶け込んでいる。夫は少し考えて、私の肩を抱き寄せた。

「分からない。でも、」

 どろりと重く垂れ下がった雲から、白い埃のようなものが舞い降りる。雪というには少し心もとない、柔らかな氷のもつれが空を舞う。

「……幸せっていうのは、生きるのが嬉しいということかもしれない」

 頬がやけに寒い。涙のあとに沿って、北風に体温が奪われていく。

「美人じゃなくても? 勉強ができなくて、運動もできなくて、何の才能もなくても?」

「うん」

 夫は迷いなく頷いた。

「なにもなくても、ただ生きるのが嬉しければ、それは幸せなんじゃないかな」


 私たちはふたりとも、そうじゃなかった。私は容姿。夫は頭脳と、それに基づく社会的地位。それを持っているからこそ幸せなのだと、きっと私たちは錯覚していた。もしかしたら、それがなくても私たちは幸せだったかもしれない。仮定の話にすぎないけれど、もしかしたら。



「……ごめんなさい」

 奈津美がよく口にした言葉。何に謝ってるの、と私は責めたけれど、今の私こそ何に謝りたいのかよく分からなかった。何を言っても今さらだ。奈津美は戻ってこないし、きっと私は一生幸せにはなれない。

 私はどこで間違ったのだろう。どこからやりなおせば、間違いは正せるのだろう。それとも――間違ってしまってからでも、きちんと奈津美に謝れば、奈津美は自ら命を絶つことなどなかっただろうか。


 ……たぶん、違う。私が奈津美に言うべきだった言葉は「ごめんなさい」なんかじゃない。奈津美をがんじがらめに縛り付けた、「愛してる」という呪いの言葉なんかでもない。


「もういいよ……」

 奈津美に必要だった言葉は、きっとこれだった。もういいよ。もう頑張らなくていいよ。もう、好きに生きていいよ。美人じゃなくたって、勉強ができなくたって、運動が得意じゃなくたって、なんの取り柄もなくたって。

 生きていて嬉しいと思えることがあれば。ご飯が美味しいとか、テレビが面白いとか、漫画の続きが気になるとか。


 奈津美を解放しなければならなかった。幸せという幻想から。愛という呪いから。私という――母という監獄から。そして解放は死ではなく、言葉によってなされるべきだった。

 気付くのが遅すぎた。もう奈津美には届かない言葉――ついぞ言えなかったほんの五文字を、私は何度も繰り返す。もういいよ、奈津美。ごめんね……もういいよ。

 美人じゃなくたって、勉強ができなくたって、運動が得意じゃなくたって、なんの取り柄もなくたって――そんなこと、もうどうだっていいよ。もういいから、奈津美。


「帰ってきて、奈津美……」


 頼りなげだった白はやがてまとまった雪となり、地面に突っ伏した私の黒い背に降り積もる。あまり冷えないようにと服の下にカイロを忍ばせたはずなのに、身体は芯まで冷えきっていた。もっと積もってほしい。そしてなにもかも、なかったことにしてほしかった。



 青いインクの万年筆。いつだったかの結婚記念日に、夫とふたり贈りあったものだ。少し漏れていたインクを軟布で拭き取って、私は書き出しを考えた。

 あまり煩雑な文章にしたくない。けれど、私の犯した罪はきちんと書き記しておかなければならない。贖罪のつもりなど毛頭ない。奈津美がいなくなった今となっては、何をしても私の罪は拭えないのだから。

 この決断を非難するものもあるだろう。けれど、もう私にはこれ以外考えられなかった。


 思考を整理して、私は万年筆の先を便箋に走らせる。


『三十九年の生涯に渡り、幸福という不確かなものに固執するあまり、大切なものをなくしました』

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