約束を守って

浅葱いろ

いないいないばあ~!

 うちには子どもが二人、居るらしい。


 娘のすずが公園のブランコで遊んでいた時、ベンチに腰を掛けていた老婆が「仲の良い兄妹だねえ」と、微笑ましそうに言った。

 また、スーパーで夕飯の買い出しをしていた時は、レジ打ちのパートの店員が「お兄ちゃんとちゃんと手を繋いで偉いね」と、声を掛けてきた。

 他にも、昼食をファミレスで食べた時に、お冷が三つ運ばれてくる。ショッピングモールのイベントで、子ども用の風船を二つ貰う。


 そんなことが、しばしばあった。


 だが、亜弓あゆみが腹を痛めて産んだ子どもは鈴のただ一人だけで、母親である亜弓の目にも、鈴のただ一人だけしか映っていない。

 今年四歳になった鈴は、覚束なかった言葉も達者になってきて、舌ったらずながらも色々な話を聞かせてくれる。


「ママ、おともだちができたの」

「まーくんっていうんだよ」

「おとこのこ」

「えほんがすきなんだって」


 鈴は、亜弓以外の人間には内気で、一人遊びが好きな子どもだった。

 二年保育で通い始めた幼稚園でも「鈴ちゃんは一人で遊んでることが多いです」と、担当の先生から報告を受けている。だから最初の内、亜弓はやっと幼稚園で友達が出来たのかと思った。


「山口さん、鈴ちゃん、架空のお友達と話してるみたいです。おうちでもそうですか?」


 鈴の言う〝まーくん〟が実在しないことを知ったのは、お迎えの時間に先生がそう聞いてきたからだ。


 最近、鈴はよく喋るようになった。一人でお絵かきをしている最中、パズルを組み上げている時、お人形遊びに興じている時。ぶつぶつと何事かを話している。でもそれは独り言だと思っていたし、友達が出来たことによって色々な言葉を覚えてきているのだと、亜弓は思っていた。だが、違ったらしい。


「小さなお子さんにはよくあることなんですよ。インナーチャイルドと言って、架空のお友達と遊ぶこと。だから、そんなに心配しないでください。成長したら落ち着きますよ」


 サッと顔色を曇らせた亜弓に、先生は丁寧に説明をしてくれた。そういうこともあるのかと納得し、亜弓は胸を撫で下ろした。

 だけど、時間が経てば経つほど、本当に〝まーくん〟が鈴の作り上げた架空の友達であるのか、自信がなくなってきた。

 鈴の隣に〝もう一人〟が居るように、振る舞う人たちが出てきたからだ。

 全員がそうではない。先生のように見えない人も居たが、ベンチに居た老婆、レジのパート、ファミレスの店員、イベントのスタッフ——その人たちには〝誰か〟が見えてしまっているのだろう。



 *



 旦那の一彦が、早くに帰宅した夜のことだ。

 一人でお絵かきをしていた鈴に、一彦が話をかけた。


「パパと一緒に遊ぼう」


 一彦は仕事が忙しい。帰りが午前様になることも珍しくなく、土日祝も休日出勤だ接待だと言って、家を空けることが多い。顔を合わせる機会と時間が少ないため、鈴は一彦にあまり懐いてはいなかった。だが、一彦に鈴への愛情がないわけではない。触れ合いが乏しいことを気にしているようで、たまの親子の時間をとても大切にしていた。


「いま、まーくんとあそんでるから」


 そんな一彦の気持ちを知らず、鈴は素気無く言った。


「まーくん?」


 画用紙に目を落としたまま、鈴が小さく頷く。


「どれがまーくんかな? パパも一緒に遊んでいいか、聞いてみるよ」


 一彦が、鈴の周りに散らばっているぬいぐるみを見渡した。くま。うさぎ。かめ。誕生日プレゼントやクリスマスプレゼントで増えていくぬいぐるみたちが、床の上や棚に並んでいる。

 鈴は嫌々そうに指を差した。


「え?」


 小さな人差し指で示されたのは、目の前にある変哲のない壁だ。何もないし、誰も居ない。


「パパがね、いっしょにあそびたいんだって。ダメ?」


 だが、何もない空間にしっかりと焦点を合わせて、鈴が問い掛ける。その瞬間、一彦がギョッとしたことが、様子を見守っていた亜弓にも分かった。

 亜弓が見ていても異様だった。

 鈴の視線は虚空を向いている。返ってこないはずの問い掛けに「ふたりがいい? そっかあ、じゃあふたりであそぼ」と、まるで返答が聞こえているかのように受け答えをする。


「鈴がおかしい」


 一彦が顔面を蒼白にするのも致し方のないことだった。鈴が常に〝誰か〟と居ることに気付いた当初、亜弓も同じような反応をしたからだ。


 亜弓は幼稚園の先生に言われたまま、インナーチャイルドの説明をした。だが、それでも拭い去れない違和感と異様さに一彦は納得がいかないようで、消化不良を起こしたような表情をしていた。


 それからと言うもの、一彦の一件が切っ掛けだったのか、奇妙な出来事が増えた。

 亜弓が台所で食器を洗っている時、後ろから打つかられる衝撃がある。それは丁度腰辺りの位置で、小学校低学年くらいの子どもが突進してきたようだった。「ひっ」と悲鳴を上げても、そのままぎゅうと強く抱き締められる。振り返ってみると、誰も居ないのが常だった。


 リビングで洗濯物を畳んでいると、廊下を駆け抜ける小さな足音がする。足音は階段からトイレの方へ走り去っていく。鈴がトイレに行ったのかと思っていると、本人の鈴が階段から降りてくるのだ。

 ふとした時に、服の裾が引っ張られる。風もないのに、ドアが開く。お風呂から上がって曇っていた洗面台の鏡が、小さな手の跡で拭われている。そんなことが、続いた。


 だが相変わらず、亜弓の目には鈴の一人だけしか目には映らない。

 確かに居るのだろう〝誰か〟の姿は、影も見えることはなかった。



 鈴の〝独り言〟も変わらずに続き、一彦が強張った顔で「病院に連れて行こう」と言った翌日、亜弓はダイニングでノートパソコンを開いていた。

 インターネットの検索履歴には『インナーチャイルド 原因』『いつ終わる』『やめさせ方』などの単語が並ぶ。全て、一彦が調べていたものだ。亜弓には、それが意味のないことであると頭の奥底で分かっていた。だけど、どうやって説明をしたらいいのか、分からない。


「ママ、おねがいがあるの」


 リビングの入り口に立った鈴が、亜弓に声をかけた。長いことパソコン画面を見つめて凝った目元を解しながら振り返る。


「えほん、よんで」


 鈴の腕の中に、一冊の絵本が抱えられていた。


 半年ほど前、地元で開催された雑貨市に行った。

 ハンドメイド品を並べている店や古着を取り扱っている店、はたはゴミ混じりの食器が山積みになっている店など、多種多様の品物が売られている中で、鈴が見つけてきたのは中古の絵本だった。

 ずっと昔からある有名な絵本だ。本屋でも必ずと言っていいほど、絵本コーナーに揃えられている。何度か図書館でも借りてきたことがあった。亜弓は、それでも欲しがるほどなのかと目を瞬かせて、中を改めないままに絵本を買った。

 その時の絵本を、鈴は抱えていた。


「ダメ?」


 実は、鈴にこの本を読んでとせがまれるのは、初めてのことじゃない。

 買って帰ってきた日も、亜弓は鈴に読んでとお願いをされた。だが、絵本を開いて、すぐに閉じ、適当に言い訳をして、亜弓は読んであげなかったのである。


「……いいよ」


 迷った末に、亜弓は鈴に手招きをした。


「よかったね、ママ、よんでくれるって」

「鈴が読んでほしいんじゃないの?」

「ちがうよ。まーくんが、どうしてもよんでほしいんだって。でもね、すずはまだ、あんまりじがよめないから、よんであげられないんだ」


 リビングのソファーの上に移動をすると、亜弓の右隣に鈴が座った。絵本を手渡されて、膝の上に乗せる。すると、左隣のクッションが軋み、僅かに沈んだ。


 〝誰か〟が座ったのだと、亜弓は感覚で悟る。

 息遣いは聞こえない、温もりも感じなかったが、確かに〝誰か〟が亜弓の左側に居て、絵本を覗き込んでいた。

 亜弓は震える指先で、絵本の表紙を開く。

 絵本は酷く汚れていた。

 泥水に落としてしまったような、コーヒーをこぼしてしまったような、そんな茶色い染みがこびりついていて、絵本の厚い紙が波打っている。お陰でくっついてしまっているページもあるため、音読をする前に捲っていく。全ページに渡って状態が悪かった。ほぼ絵は潰れており、読めなくなっている文字も所々にある。表紙だけは綺麗だったのは、カバーが外されていたからだろう。


 裏表紙の裏に辿り着くと、マッキーペンで名前が書かれてあった。子どもの字だ。平仮名の上に、染みが広がっている。それを見てしまって、亜弓は前回絵本を読まなかったのである。


〝いがわまさゆき〟


 最初のページに戻ると、亜弓は潰れている文字を拾って、ゆっくりと絵本を読み上げていった。


 それを境に、家の中からは〝誰か〟の気配がなくなった。


 *


 亜弓の実家は、車で一時間の距離にあった。

 雑貨市が開かれた市民公園までは、徒歩十五分の距離だ。

 家は、亜弓が産まれた当時に切り拓かれた新興住宅地に建っている。家と家の間が狭く、庭は猫の額ほどだ。そこに、定年退職をして年金暮らしとなった父が、一人で細々と暮らしている。


 突然の里帰りにも嫌な顔一つせず、父は亜弓と鈴を迎え入れてくれた。

 居間の隣にある仏間で仏壇に手を合わせてから、ごちゃごちゃと物にあふれる部屋を見回す。

 高校を卒業したと同時に家を出てから、亜弓が実家に帰ってきたのは数える程度にしかない。結婚の報告をした時と、父がぎっくり腰になってしまった時、そして半年前だ。

 自らの生家であるはずなのに、嫌に落ち着かない心地だった。だが、目に映る品々には見覚えがあり、此処が確かに自分の家だったことを亜弓に教えてくれる。


 鈴に数冊の絵本を渡し、居間のテーブルに着く。父が熱い茶を淹れてくれた。

 一言、二言、ぎこちなく互いの近況を報告し合ってから、亜弓はトートバッグの中を弄った。鈴に渡した絵本とは別に、もう一冊の絵本が入っている。それを手に取ると、おもむろにテーブルの上へと置いた。


 絵本の表紙を眺めて、はてと父が小首を傾げる。老眼で見え難くなった目を、干し梅のように窄めた。

 父に絵本を向けたまま、表紙をめくっていく。茶色く汚れている中身を見て、父の眉が顰められた。そのまま何も言わずに一ページ、一ページづつ丁寧に開いた。最後の裏表紙を認めて、はっと息を飲む音が聞こえた。


「どこでこれを?」


 父の皺だらけで、乾燥でひび割れた指が、マッキーペンで描かれた名前をなぞる。


「雑貨市で売られてたの」

「そうか。供物からなくなったことには気付いていたが……どこかの不届き者が盗んで、売ったんだろうな。しかし、それが巡り巡って、お前のところに行き着くとはなあ」


 感極まったように言葉を詰まらせると、仏間の方に目を向けた。絵本を読む鈴が居て、その向こうに仏壇が見える。仏壇の上に飾られた遺影は二つ。亜弓の母と、弟だ。


 実家に掲げられた表札は〝井川〟

 〝いがわまさゆき〟は、亜弓の弟の名前だった。


 真之まさゆきは小学校一年生の時に、歩道に突っ込んできた車に跳ねられて死んだ。即死だったと言う。母と買い物に出かけている最中のことで、一命を取り留めた母は、それから気が触れてしまった。血に塗れる弟の姿を間近に見て、生きている自分を憎み、精神が病んでしまったのだろう。


 真之は鈴と同じように、家族以外の人間には内気な子どもで、一人遊びが好きだった。

 積み木、パズル、塗り絵、絵本。その中でも本を読むことが大好きで、誕生日プレゼントやクリスマスプレゼントなど、何かがある度に絵本を買ってもらっていた。小学校から貰い始めた小遣いもお年玉も、全ては絵本へと消えていたらしい。コレクター気質があったようで、裏表紙に名前を書いては本棚に収まる背表紙を満足げに見つめている姿を、亜弓は覚えている。


 事故の当日も、お気に入りになるはずだった本を持ち歩いていた。

 前日に買ったもので、まだ読み終わっていない本だ。漢字混じりの絵本を読むようになってきた真之は、読めない漢字が出てきてしまうと分かる人に聞かないといけない。


 亜弓はその日〝学校から帰ってきたら絵本を読んであげる〟約束をしていた。

 だけど亜弓が学校から帰ってくると、真之は居なくなってしまっていた。


 約束は果たされないまま、絵本は父の手によって事故現場に供えられたのだ。沢山の献花と、好きだった菓子とジュースと共に、血の跡が残る歩道の上に絵本は飾られた。

 ある日、花を取り替えに父が訪れると、絵本だけが忽然と無くなっていたと言う。

 父が言うように、誰か不届き者が盗んでいってしまったのだろう。絵本はカバーが外されて表紙だけは綺麗だ。


 それが売られ、人の手を渡り、何処かで保管され、また移動し、雑貨市の古本屋で日の目を見ることになったのである。そして、亜弓の娘である鈴が手に取った。


 中は随分と汚れている絵本だ。何処かの時点で処分されていてもおかしくがないのに、十何年も残っていたことが奇跡的だった。

 涙ぐむ父ほどではないが、亜弓も思うところがある。


 仏壇に目を向けてみると、あの頃のまま時を止めて笑っている真之の隣で、健康であった時の母が微笑んでいる。

 事故をきっかけに病んでしまった母は、最後まで治ることがなかった。

 逃げるように酒を飲み「私の方が死ねば良かった」「なんであの子が」「真之を何処にやったの、返して」「あの子は帰ってくるわ」と喚いて、亜弓を見ることもなくなっていた。


 亜弓が家を出て父と母の二人だけになると、ついに匙を投げ出した父は、母を病院に入院させた。長い入院生活の末に母が亡くなったのは、半年ほど前のことだ。

 母の葬式帰りに、亜弓は鈴を連れて雑貨市に立ち寄ったのである。まるで、示し合わされていたようだった。


 父と一緒に絵本を仏壇に供えると、亜弓は鈴の手を引いて実家を後にした。

 絵本を読んでから〝誰か〟の気配を感じなくなってしまったが、アレが真之だったとするならば、成仏は出来たのだろうか。


「ねえ、鈴。まーくんは何処に行ったのかな」


 車の中でチャイルドシートに座った鈴に聞く。

 亜弓の幼少期は、真之が死んでしまってから幸せなものではなかった。

 母は狂い、父は母にかかりっきりで、誰も幼い亜弓を気にかけてはくれなかった。まるで放置子にでもなったようなあの日々は、暗い影を落として、亜弓の心の中に凝りを作っている。


 高校を卒業し家を出てから、亜弓は過去と決別した。忘れようと必死に努めたのだ。

 仕事に精を出し、いい人と出会い結婚をして、苗字を変え、子を成し、新しく幸せな〝家族〟を手に入れた。

 だから、守らなくてはならない。新しい生活と家族を。良い妻であり良い母であり続ける為に。


 なのに、暗い過去を引きずって来訪してきた真之の影に、亜弓はゾッとした。憎らしく、煩わしくて、許せなかった。まるで忘れないでと言われているようで、恐ろしくもあったのだ。


 暫しの沈黙のあと、最初から何も無かったかのように「だあれ、それ?」と鈴からは返ってきた。

 ほっと息を吐く。肩が軽くなったように思えた。

 これで、一彦も安心するだろう。

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