034 『小さくなっても変わらない』

 初めて違和感を覚えたのは、職員室で奈月特製愛妻弁当を食べている時だった。

 なんか、下の歯がガリっとなった。何か硬いものでも噛んじゃったのかなと思ったのだけれど、奈月はそういうのを全部取ってくれるので(本当にありがたい)、あり得ない。


 まあ、その日は特に気にすることなく昼食を終え、周囲の先生方に冷やかされながらお弁当箱を洗い(毎日愛妻弁当を作ってもらってる事と、お弁当箱を洗ってる事を)、午後の授業の準備をした。


 しばらくしたある日、六月の中旬に入りそうな頃。今朝のお天気お姉さんの話によれば、今日から梅雨入りらしい。

 まだ雨は降ってないけど。でも時期的には例年通りという感じで、今年も来たかって感じだ。


 先日、実は運動会があったのだけれど、雨が降らなくて本当に良かったと思う。

 毎年毎年、梅雨入りギリギリにやるもんだから、雨が降らないか心配になる。


 僕が新任だった頃は毎年ゴールデンウィーク明けにやっていたのだけれど、数年前に諸事情により日程が変更になった。

 なんでも、中間テストの勉強時間を確保するために、ゴールデンウィーク明けからテストが終わるまでの期間に運動会をするのはどうなんだ? となり、それ以降、毎年中間テストが終わってからとなった。

 おかげで、運動会の時期が六月までずれ込み、梅雨入りギリギリとなってしまったのだ。


 そんなんだったら、九月とか十月にやればいいじゃんと思うかもしれないが、受験があるのに、それはどうなんだ––––という声がどこからともなく上がり、これも却下された。

 でも、『それならやらなくても良くね?』とはならないのが、ちょっといいなって思う。


 まあ、それはさておき。


 うちの学校の運動会は、中等部と高等部が同じ日にやるのが、昔からの決まりだ。

 高校の方がグランドが広いので、中等部の子達が高校の方に来て一緒に行う。

 僕としては、翔奈と一緒に運動会が出来るのでとても嬉しい。翔奈は嫌な顔をするが、気にしない。


 八重垣家はみんな運動神経がいいので、運動会では大体ヒーローになるのが定番だ。

 もちろん翔奈も出場した競技で、全て一位になっており、僕も父親として鼻が高かった。


「あれ、うちの娘なんだぜ!」


 と言う度に、生徒達からは「はいはいっ」と言われたが、何回も言ってやったぜ。

 そうそう、湊も小学生が自由参加出来る五十メートル走に出場して、ちゃっかり優勝していた(商品のお菓子詰め合わせをしっかりとゲットして、蓮花にあげていた)。


 奈月と蓮花に至っては、それぞれ「翔奈ちゃんのお母さん超美人!」だとか、「八重垣先生の娘、超可愛い!」とチヤホヤされていた。

 僕の鼻は欧米かとツッコミを受けそうな程、高くなっていたことだろう。


 僕?

 僕はえっと……教職員対抗リレーで転けた。高くなった鼻は、物理的にも精神的にもへこんだ。

 ま、まあそんな話はいいんだ。


 話は大きく脱線してしまったが、この運動会の日から、なんか下の歯がグラグラする。

 もしかしたら、転んだ時に変な打ち方をしてしまったのかもしれない。

 なので、ここはとりあえず我が家の大黒柱、奈月さんに相談してみた。


「なんかさ、歯がおかしいんだよ」

「それは私ではなく、歯医者さんに聞くべきでは?」

「…………」


 僕の額からダラダラと汗が垂れ始めた。あ、いや、全然歯医者さんとか怖くないよ? 平気だよ? ていうか、僕は歯医者さんとか大好きだからね。もう定期的にドリルしてもらってる感じだからね。

 あの、歯から骨に響く振動が癖になるよね、マジで。

 待ち時間とかにあのギュイーンって音が聞こえるとさ、なんか震えてくるよね。ビビって––––あ、いや、違う……vividくるよね!


「とりあえず、予約が取れれば、明日にでも行ってきたらどうです?」

「え、いや、いいよ……」


 僕が遠慮気味に首を振りながら、後ずさると––––奈月はしゃがみ込み、僕の肩をがっちりのホールドしながら、目線を合わせてきた。


「あなた」

「は、はい……」

「行ってきてください」

「え、いや……」

「歯医者さんが嫌いなのは知っていますが、ちゃんと行かないとダメですよ」

「いや、大丈夫だって。あと怖くないし」

「ほら、私も一緒に行ってあげますから」

「別に大丈夫だって……」

「じゃあ、予約の電話しておきますね」

「い、いや……だから––––」


 奈月はにっこり笑い、スマホを取り出してから、電話をかけた。


「あ、もしもし、診察の予約をしたいのですが、あ、はい、八重垣やえがきです。あ、はいっ、いつもお世話になっております。あ、いえ、蓮花ではなく、主人がですね……はい、なんでも下の歯がグラグラとするらしくて––––」



 *



 後日、歯医者さんに連行された僕は、歯医者の先生にこう言われた。


「歯が入れ替わる時期ですね」

「は、はぁ……」


 歯医者さんの話を要約すると、今の僕の歯は乳歯にゅうしらしく、それが抜けて永久歯えいきゅうしに生え変わる時期らしい。

 なるほどなぁ、そりゃそうだよなぁ。

 すっかり忘れてたけど、子供の頃とか抜けた歯を、縁の下とか屋根の上に投げてたのを思い出した。

 そもそも、湊はまだ歯が全て永久歯にはなってないので、ちょっと前に抜けた歯を屋根の上に投げていた。


 歯医者さんに「何か気を付けることとかありますか?」といたら、「特には」と言われた。なんか拍子抜けだ。ビビって損したぜ!

 最後に、子供だけ貰えるガムを何故か一つもらい、僕たちは歯医者さんを後にした。


「なんで先生僕のこと子供扱いするんだろう、小さくなる前から通ってるのにさ」

「それは、まあ……歯医者での行動が子供そのものだったからじゃないですか?」

「いや、僕は大人しかったと思う」

音沙汰無おとさたなしだったと、先生は言ってましたよ。以前治療を途中で放棄して、来なくなったと」

「いや、あの先生ちょっと苦手で……」

「美人な先生じゃないですか」


 そうあの先生、ブリュネットの髪にグレーの瞳が綺麗な、ハーフさんなんだよな。

 奈月の話では、子供の頃は海外に住んでいたらしく、英語がとても堪能らしい。

 最近の歯科医は英語も出来た方がいいとかなんとか。


「とにかく、歯医者さんにはちゃんと行かないとダメですよ」

「いや、今回は別に問題無かったじゃん」

「ダメですよ、あなたは虫歯になりやすいタイプなのですから、ちゃんと歯磨きしてくださいね」

「してるよ」

「先生に教わった方法でしてください」

「いや、時間かかるし……」

「なら、虫歯になって歯医者さんに行くのとどっちがいいですか?」


 なんか、子供が歯磨きしない時にするような説得方法だ。

 全く、僕は子供じゃないんだぞ。


「でもさ、ちゃんと成長するんだな」

「そうですね、身長は相変わらずですが」

「おい」


 奈月はにっこりと微笑んでから、手を差し出してきた。僕は無言でその手を取る。

 側から見たら、どう見えるんだろうか。やっぱりお母さんと息子なのかな。


「でも……ちょっとだけ不安です」


 奈月は小さな声で、呟くように言う。


「あなたが大人になった時、私はおばさんになってます」

「……そんなこと––––」

「あるんです」


 僕の否定を遮り、奈月はピシャリと言う。

 今の僕は、推定五歳だ。身体が大人になるのは––––二十歳。それは、十五年後だ。

 その分、奈月も歳を取る。

 だけど。

 だけど、それがなんだってんだ。

 僕は奈月の手をくいくいっと二回引く。奈月は不思議そうに僕を見下ろし、小首を傾げた。


「どうしました?」

「僕は奈月がおばあちゃんになっても、膝枕と耳かきをねだるよ」

「……それは––––長生きしないといけませんねっ」


 奈月は軽く笑ってから、嬉しそうに繋いだ手をブンブンと振り始めた。


「あと、僕がおっきくなったら、またお姫様抱っこしてやるよ」

「……ふふっ、じゃあ、ダイエットしなきゃですねっ」

「だから、そんなことを気にする必要はないし、もしも不安だって言うなら、僕は何回でも好きって言ってやる」


 奈月は僕から顔を背けた。


「……もう、本当にあなたは……なんでそんなに素敵なんですか……?」

「惚れ直したか?」

たちまちに」

「上手いな」

「先生の一番弟子ですから」


 そもそも、これは奈月が最初にしてくれたことだ。年齢差があっても、気にしなかったのは奈月の方だ。

 それに、年齢差とは別の問題もあった。


「本当はな、僕も不安だったんだ。小さな僕のことを奈月は好きでいてくれるかなって」

「それは心配ないですよ、私はあなたの事を好きになったのですから」


 ちょっとキュンってした。好きの感情が溢れてくる。

 若い頃は分からなかったけど、好きってのはこういう事なんだと、奈月に会ってから僕は知った。


「でも、あなたのことを落とすにはかなり苦労しましたけどねっ」

「落ちてきたのは奈月だろ」

「あ、そうでしたね」


 僕たちは見つめ合ってから、互いに笑みを浮かべた。


「……でも、ちょっと得もしたかなって思うんです」

「それは、どういうことだ?」

「ほら、小さな頃のあなたを、一から、しかも一番近くでその成長を見れるのですから」

「お母さんだな」

「お母さんですよ? 三人も産んで、育てて、もうでぇベテランですよ」

「大ベテランな」


 なんでそこで、悟空訛りが出るんだよ。まさか、僕が小さくなったからそこにかけてるのか?


「でもある意味続いてるんですよね」


 そんなことを––––奈月は言う。


「小さなあなたなんですけど、あなたはやっぱりあなたで、いつも私に優しくしてくれて、娘達のことを大事に思ってて」

「そんなの当たり前だろ」

「ピーマンは相変わらず嫌いですし、歯医者も苦手で」

「それはいいだろ」


 ピーマンも歯医者も、今はいいだろ。

 この中に注射も入れたら、子供の嫌いなもの御三家爆誕だ。

 注射? もちろん嫌いだよ!


「まあ––––言いたいことは、何となく分かるよ」

「本当ですか?」

「当たり前だろ、夫婦なんだから」


 今更、そんな事を口に出したりはしない。言わなきゃ分からないこともあるけど、言わなくても分かるものもある。


「身体は小さくなっちゃったけどさ、中身は少し成長したかなって思う。小さくなったからこそ、子供の視点でモノを見ることも出来るし」

「それは物理的にですか? 精神的にですか?」

「両方だ」


 だから迷子になる。もう迷子はゴリゴリだ。


「あ、この後スーパーに寄ってもいいですか?」

「構わないよ、荷物持ちとしては相変わらず役立たずだけどな」


 僕の自虐ネタを聞いて、奈月はクスクスと笑う。


「今晩はですねー、唐揚げですよ」

「やりぃ」

「あ、でもあなたは歯が抜けそうなので、別メニューにします?」

「なんでだよ⁉︎」

「冗談ですよっ」


 小さくなってから、色々なことがあった。

 良かったこともあれば、悪かったこともある。

 変わるものもあれば、変わらないものもある。

 でもそんなのは、生きていれば当たり前のようにあることで、僕だけが特別というわけじゃない。

 歳を取って時代が変われば、変化するのは当然だ。


 ただ、これだけは言える。

 小さくなっても、僕が夫で、お父さんであることは変わらない。

 嫁と娘達が笑っていれば、それだけで僕は幸せなんだ。



 ……帰ったら久々にポエム書くか。

 小さな僕から、大事な家族への感謝を込めて。


(おわり)

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僕がショタ化したのはどう考えても嫁と娘達のせいだ! 赤眼鏡の小説家先生 @ero_shosetukasensei

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