第22話 病禍の宅飲み
明美はモニターに向かってグラスを持ち上げて見せた。
スピーカーから、さくらの、
『カンパーイ!』
という明るい声が聞こえてくる。
明美も同じ言葉を返したが、空元気が隠しきれていなかった。
「乾杯」
明美も同じ言葉を返すが、やはり声は沈んでいた。
新種のウイルスが蔓延し、外出を控えろ、とお上からお達しが出ている今、外に飲みに行くというのも憚られる。店も自主的に営業を自粛しているところが多くなり、リスクを負ってでも行く、という選択肢さえ消滅していた。
もっとも、フリーのクリエイターは身体が資本なので、そう簡単に感染のリスクを負うわけにもいかないのだが。
目の前に並ぶのは、コンビニで買ってきた焼き明太子とたこわさ、近所のスーパーで見切り品になっていた刺身の盛り合わせ。モニター越しのさくらのつまみも似たようなもので、そこにお惣菜の唐揚げが追加されていたりする程度だ。
酒だけはそこそこ良いものを通販で取り寄せたが、やはり少し寂しいと思ってしまった。
『最近はコンビニのおつまみも美味しいですよねえ』
「そうね」
さくらの言葉に、明美は心から賛同した。
実際、美味しい。この値段でこんなに美味しいのか、とびっくりすることも多い。もちろん、好みの居酒屋の味には及ぶべくもないが、その分安くて二四時間いつでも買えるという気軽さはあまりに魅力的だ。
「確かに美味しいし、安いし、その点に不満はないんだけど、やっぱり物足りなさがあるんだよね」
うんうん、とさくらがうなずく。
『明美さん、居酒屋さんが好きですもんねえ。食事って、やっぱり味や香りだけじゃなくて、それ以外の雰囲気とかも全部ひっくるめてのものなんですよね』
「ホント、それを実感するわ」
たまに流れてくる煙草の煙にムッとしたり、大声で下ネタを話す親父どもに辟易したり、ヘタをすれば空気を読まずに口説いてくるおバカさんまで湧いたりするが、それでも、明美は居酒屋の活気や賑やかさも含めた空間そのものが好きなのだ。
だから、どんなに用意した酒や肴が美味しくても、こうしてネットを介して会話ができても、満たされなさを感じてしまう。
それは、コンビニのおつまみではなく、各地の一流の名産品などをお取り寄せしたとしても同じことだろう。
「まあ、それでもわたしたちは家で仕事できるから、マシな部類よね。ママさん、今は店を開けただけ赤字が出るって嘆いてたわ」
『飲食店とか、個人規模の店舗はどこも厳しいって聞きますよね……』
「長引きそうだし、これは潰れるお店も結構出るよね……」
いつものお店は人気店なので、多少なり体力もあるだろう。しかし、一旦仕入れと売り上げのサイクルが崩れたら立て直せないような店も少なくはないだろう。
「とはいえ、わたしたちもかなり影響が出てはいるけどね」
『ですね。直接会っての打ち合わせとかできなくなってますし、編集部や書店さんの動きも鈍ってますし』
「それもあるけど、例えば現代を舞台の話を書くにあたって、マスクや感染症対策をどこまで反映させるか、って問題もあるのよね」
『あ、それ、わたくしたちの方でも結構話に出ますよ。街の風景とかを描くとき、マスクを描くべきかどうか、って』
「そうなのよね。これが一過性の異常事態なのか、それとも長い期間当たり前のモノとして続いていくのか、それによって現代をテーマにした創作物の在り方も変わってしまうのよね」
『わたくしはまだ直接影響はないですけど、現代物のマンガを現在進行形で連載してる知り合いなんかは頭を抱えてますね』
「難しいよね。フィクションの世界ではそんな病気がない世界だ、とは言っても、現実を見回せばみんながマスクをしてるのが当たり前になってしまった以上、リアリティの欠如につながってしまうから」
『とはいえ、マスク前提の世界にしちゃって、何ヶ月後にあっさり収束してしまったら、そこからの軌道修正も難しいわけで』
「ホントにね。世界観、変わっちゃうもんね……」
作品は、残るのだ。
現代ではコンテンツ消費の流れも早く、完結した作品はどんどん過去に押しやられていく。新しい作品に埋もれ、忘れられていく。パッとしなかった作品や打ち切られた作品は言うに及ばず、ヒットした作品もその運命からは逃れられない。
しかし、それでも。
例えば図書館の棚の隅に、例えば古本屋の片隅に、例えば数は少なくとも読者の記憶の中に。
間違いなく、どんなに少なくとも、うっすらとでも、作品は残る。完全になかったことにはならない。
誰かがそれを読み返したとき、どう映るのか。
五年後に読み返されたとき。一〇年後に読み返されたとき。
その瞬間に、おかしなことになっていないだろうか……。
それを考えないクリエイターはいないだろう。
だから、この状況をどう描くべきなのか、誰もが悩んでいる。
「誰もどうするべきかなんて、判断できっこないわ……」
そう言いながら、明美は明太子を口に運んだ。
ピリッとした辛みと、魚卵の旨味が舌に広がる。
明太子一つとっても、そのまま食べるか、炙って食べるか、大根おろしと合わせるか、お茶漬けにするか、選択肢は幾通りもある。
今、どれが好みかという話ならともかく、明日になって腹を壊して火を通せば良かった、と思うかどうかなど、現時点ではわかるはずもないのだ。
「でも、物語の中の風景として、現状を写実的に切り取っておくべきなんじゃないか、って思いはあるかな」
『そういえば、明美さんって大学で民俗学だか社会文化学だかをやってたんですよね』
「うん。物語の中にある何気ない描写が、後世に貴重な記録として意味を持つ、ってことはよくあることだから」
『そういうことなら、動画でもいいんじゃないですか?』
「そうねー。動画のための取材に行けるなら、それが一番いいのかもしれないけど」
『早く一緒に飲みに行けるようになるといいですね』
「ホントにそう願うわ」
心から、明美は同意した。
「パンデミックも、それを避けて息を潜める日々も、B級ゾンビパニックの中だけで充分だもの」
『そうですよねえ』
早く終われと思い続けても、終息の兆しはまだまだ見えない。
これは酒でも飲まなきゃやってられないわ、と手元のぐい呑みに視線を落として、明美は自嘲するのだった。
居酒屋ほろのみ実況録 おかざき登 @noboru-okazaki
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