露天風呂
「さて、そろそろ解散にするか。」
あの後、部隊や仕事についての説明を受けた桜は疲労していた。体力には自信がある彼女であるが、初対面の相手の長々とした説明に参ってしまったらしく、会議を終了するという石上の言葉を内心喜んだ。
隊員の面々も石上の言葉を聞き、続々と会議室を後にする。先ほどは「組織」の一員としての承認に歓喜した桜であったが、彼らの顔を見ているとそれと同時に「個人的な友人」と離れ離れになってしまったことを痛感する。彼女の数名の友人たちは皆、違う部隊に配属されたのだ。
虚しさを片手に、桜は廊下にでる。仄暗く、長い廊下には自室へと足を向ける先輩達のため息だけがあった。疲労が支配するその場所を、桜も少し遅れて歩みだす。
廊下を数分行くと女子棟へと続く階段が姿をあらわす。第三霊刀士隊が駐在している霊魎院本部は都の中央に位置する大きな洋風の建物なのだが、其処には寮も併設されており、桜を含む多くの隊員は此処で衣食住をともにしている。
階段を登ると小洒落た談話室があり、それから放射状に廊下が連なる。数人の女性隊員の姿もあったが、特に誰とも話すことなく桜は自室に戻り、鍵を閉めた。
・・部屋での彼女にはニヒルと言う言葉が相応しかった。服も着替えず、布団に座り込みため息をつく。さながら、仕事疲れした女工の様であった。「明日早起きすればいい。」そう自分に言い聞かせた桜は大好きな風呂に入る事すらせず、部屋の灯りを消した。先ほど自分にあれほどの感慨をもたらした「組織」の存在、それが感動と同時にこの異常なまでの疲労感を彼女に与えたのだ。彼女にとってこれほど大規模な人間関係は三年ぶり、無理もないだろう。
このように、ぐったりと眠りに落ちようとしていた桜であったが、一つ、頭から離れないことがあった。それはあの副隊長、篠風陽炎の事だ。仄かに赤みががった、あの髪の色がどうしても桜には忘れられない。このまま寝てしまおうと思っても彼の顔が、髪色が、疲労すら圧倒し睡魔を打ち負かす。特に、彼へ特別な感情がある訳ではない。少なくとも自分ではそう思っている。しかし、それすら照れ隠しの嘘だと思うほど、彼の印象は桜の中で妙に強く、美しかった。
・・気がつくと朝だった。いつの間にか寝てしまったらしい。結局、彼が睡魔を踏みつけていたのは一時間足らずであった。そして、時計を見ると午前五時二十分。彼女の思惑通り早起きは成功した。幸い、朝は強い。起きてから間も無く、彼女は女子棟に隣接してある浴場を目指し、歩みを始めた。
まだ薄暗い廊下には誰の姿もなかった。実は桜は此れも狙っていたのだ、石上や伊田、そして篠風のように彼女と言葉を交わした人物は例外なく全員が男性であり、数名の女性霊刀士とは未だ顔を合わせただけで、会話には至っていない。そのため、彼女にとっては「風呂で二人きり」などという状態には正直、陥って欲しくなかったのである。
静かに歩んで行くと、浴場についた。更衣室には無論、誰も居なかった。安堵した桜は昨日から着っぱなしの隊服を丁寧に脱ぎ始める。
ふと、自分の腕に目が行く、数ヶ月前には骨と皮だけしか無かった細腕に僅かばかりではあるが、筋肉がつき始めている。身体もそうだ。前まではしなやかさのかけらも無かった角ばった体躯も女性らしく、丸みを帯びて来ている。
脱衣を完了した桜は足早に湯船に向かう。まだ上がってから間もない日の光が、露天風呂の石に反射し水面を照らしていた。彼女はそれを割るように、泉に足を運ぶ。少しずつ濡れてゆく足が、艶かしく輝くようにすら感じた。やがて、胸まで浸かると、ため息交じりの吐息が零れる。少し熱すぎる湯が寝起きの彼女の体にはよく染みた。
・・ふと、最後に家族と行った銭湯を思い出す。思えばあの時も露天風呂だったような気がする、早朝だったかもしれない。桜は薄っすらと思い出した。
気づくと、頬を涙が染めていた。
幽咲の桜火 ~近衛伝~ 東風 @Jeei
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