林檎

東雲

林檎

 私は小説がわからなくなるとここを訪れます。

 もっとも小説家が泣き言を並べれば、私という人間は太宰のように今日に至るまで情熱的な信者を残した立派(あくまで作家として)なものではなく、虚栄心きょえいしん誘発ゆうはつした自己満足の物書きに過ぎないことも承知しています。

 けれども反面ではそれも存外ぞんがいいいものであると自ら負けを認めています。

 というのも人間の心象や行動の逐一ちくいちを文字に書き起こすのは最も面倒な作業であり、その上あくまでフィクションであるから彼らは私が右と言えば右を向くし、歌えと言えば讃美歌さんびかからアイヌの伝統歌まで大声で完璧な音程でやりきるでしょう。もはや全人類・全宇宙を消すのだって容易よういです。(勿論小説の中に限った話ではありますが)

 ただ、私はそういう力にどうも物悲しさを感じるときがあるのです。

 あらかじめ断っておきますが、私は良くできすぎた幸せな人間でございます。

 毎朝同じ時間に起床し朝食を取り、市場の開始のラッパが歌えばアルマーニ※のジャケットに身を包み鼻高々と生きた町の雑踏に揉まれに行き、(時々チャーチ※なんてのも先端に飾っているくらいです。)

 昼になれば吹き抜けの西洋料理店でフランス語のメニューを読み(他にも英語とドイツ語ができました)作法に習って食べます。

 夜には喧騒を抜けた一角にただずんでいる小洒落たバアに行って一人で酒を飲みます。

 たまに旧友を数人を連れて出ます。

 そんなときだって彼らと一緒になって女をあれこれと物色したり密かに点数をつけることはありません。(私は正直者であることだけは誇りを持っていますので全てありのままです)

 ご覧の通り私は不幸せとは常に対極であるべき人間です。

只どうしたことか訳もわからず、たまにどうも泣いて喚きたくなるときがあるのです。

確かにそうなのです。

 かく、そんな日は決まってここが丁度良かったのです。

 

 はやる気持ちがガラス戸を押し開ける力を一層に強め、ついに足を踏み入れると店内をぐるりと見渡す作業を終えそそくさと二階に上がった。

 長机は窓側から数えて三つ目の席に簡単な荷物を置き、その足で寸分すんぶんも違わぬように一階の注文口へ向かう。

 そこでやっと己の動揺が一切にさとられぬことを恐れて極めて冷静に、頭上斜め四十五度程度に鮮やかに描かれたMENUに目を通してみせた。

 如何いかにもわざとらしいその目線を疑いもせずじっとこちらを見つめる女は、彼の視界に自分が入ったことをようやく確認すると途端に口元に微笑をたずさえた。

 女は初めて見る風であったが、長い黒色の髪を一つ束にしており、わずかな動作でもルクリア※の香りを漂わせるであろうそれは日本人の真黒まくろな瞳と相まって、彼女の唇に走りがきされた真赤まっかな紅を色濃く映していた。

 「ティ。ホット」

 つとめて紳士的に発したつもりであった震えくぐもった無愛想な声を隠すよう咳払いを一つくれると、女はホットティの金額を要求してから、少ししたら席まで運ぶと口元には微笑を絶やさず伝えた。

 途中何度か女の大きな真黒な瞳に自分の姿を探そうと試みたがいよいよ失敗であった。

 この刹那のやり取りは先刻ガラス戸を開けたときとはまるで違った胸の高鳴りを激しく脈を打って全身を駆け上がり細胞の一つ一つにまで丁寧に警笛を鳴らし、ついに鼓膜までをも直に震わせた。

 

『何と美しいのだ』 

 そのとき私は冷静になり先ほどの光景をもう一度自身の中で再現してみました。

 女の美しさには静かな内に威厳と貫禄がありそれを前にしては誰もが塵のようにさえ感じたのです。

 己の知り得る言葉を全て用いたとしても到底敵わない彼女の美しさを前にして私は小説家としての未来をとうとう終えました。

私は席に戻ってからも、ティが来るまでの時間が永遠のように思えたくらいです。

 幼い頃に仕事に出た母の帰宅を待ちわびる感覚です。

 テレビを見ても玩具おもちゃを弄りまわしても埋まることのなかった寂しさは唯一母によって取り除かれたです。

 その遥か昔に置いていかれたすべての私が、今のこの瞬間の私を形成しています。 

 なんということでしょう。

 そしてとても恐ろしくなりました。

 もし女がティを運び終えてしまったら。

 私はこの夢の永遠を願い、女が二度私の前に現れることを渇望かつぼうしました。

 ですが私は絶えず道を求める人間でありました。

 これまで欲と己とを一切に切り離して生きてきた私でありましたから、そうして築き上げたこの城があの女たった一人によって壊されかけていることに酷く屈辱感を得たのです。

 私が己の道と欲の鎖で縛られとらわれている間にアイツはとうとうは耳元へやってきて

 『いけない。あの女はいけないよ。お前は道を選んだ。今更何を恐れているんだ。』

 今日も絶えず言い続けます。

 私はアイツが去るのをじっと待ちました。

 それでもアイツは、いけない。いけない。と繰り返します。

 私がこの店来ることはもう二度とないでしょう。

 

 そうして私は只、泣いて喚きたいだけであります。

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林檎 東雲 @myonleyyt

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