後篇

 見るも無残な贅肉を晒しながら、研究者の男は弱々しい咳払いをして続けた。


「こうなってしまった原因は、ふたつあります」


 座ったままでは失礼だと思ったのだろうか、男は立ち上がる。

 一瞬だけよろめきそうになるが、なんとか体勢を立て直した。


「まず第一に、その増進作用が、ヒトの脂肪に対して絶大な効果を発揮するという点。これは、事前実験では判明しなかったのが、とても盲点でしたね」


 冷静に振り返っているが、どうしても話が頭に入ってこない。


「二つ目。これが最大の原因ですが」


 頭が小さく横に振られた。

 きっと首を振ったのだろうが、首が埋まっているので仕方ない。



「…………美味いのです。とにかく」



 また、会場が静まった。


 呆気にとられた時の音。


「そんなに、ですか」


「そんなに、です。止まりません。今まで通りに作ったものであっても、格段にうまさが違います」


「そんな理由ですか」


「大切な理由です」


 どこかから、生唾を飲む音が聞こえた。


「しかし、ただ美味なだけであれば良かったですが……。これが問題なのは、このような症状が出るまでの潜伏期間が最短でも2ヶ月程度ということです」


 言いながら、男は自分の腹部や顎周りを指で示した。

 脂肪の増幅作用を指しているらしい。


「そして。……これは、非常に不徳の致すところでございますが、このあまりの美味さに囚われてしまった私たちは、いち早くこれを流通に載せようとしたがために、試作品の制作をありとあらゆるメーカー様に依頼しました」


 淡々と言葉をつないでいく。


「ありがたいことに、ほぼすべての企業様にお受けしていただきました。そして、その際に、……ほぼすべての工場で、全員で試食をいたしました」


 試食という単語に全員がぴくりと反応した。


「おいしかったです」


「聞いてないです」


「失礼」


 体面を保つために訊かなかっただけだ。

 それを訊きたかったのは、事実だったが。


「試作品を制作するにあたり工場の施設を使わせていただいたため、その同一空間にある施設はすべて使用不可能となっています。これは、問題の成分が施設内の各所に飛散している可能性を否定できないための措置となります」


「ひとつ、いいでしょうか?」


「どうぞ」


 嫌な予感がしたのだろう。

 ある記者が質問によるワンクッションを求めた。

 研究者の男は先を促す。


「禁止というのは、つまり、それまでに工場の施設を通ったと思われる製品を使ったカレー製品が、禁止になるということなのでしょうか?」


「非常に申し上げにくいですが、その通りです」


 場内が、安堵なのか落胆なのか、よくわからないため息で包まれた。


「みなさんがお分かりのとおり、すべてのカレー粉、もしくはその原材料となるモノすべてを一度検品し、その成分が含まれているか否かを確認する必要があります」


「すべてですか」


「すべてです。粉の粒子ひとつであってもです」


 むちゃくちゃなことを言う、と誰もが思っていたが、男の目は真剣だった。


「ですからそれまでの間、禁止措置を取らせていただくということなってしまったということをご報告するというのが、今回お集まりいただいた理由になります」


「いつまでなんですか!」


 突如として響いた記者の怒声。

 さきほどの第一声に対しても同じような反応としていたところを見ると、カレー愛好家なのかもしれない。

 突然好物を取り上げられたのである。

 怒りが湧くのも当然だった。


「すべてのカレー製品の検品が完了し、新たな工場ラインが確立された後ということになります。もちろんそれらに関しては私たちが責任を持って補償いたします」


「ですから、それはいつになるか、と訊いているんです」


「新たな工場ラインが確立された後です。具体的な日時等をお知らせすることはできません」


「いや、だから」


 と、そこからさらに言葉がつながることはなかった。

 隣に座っていた記者が質問をしていた記者の右手を軽く叩いて制した。

 答え方次第ではさらに食らいつこうとしていたようだが、他の記者からの視線を感じて眉間にシワを深く刻みながらも溜飲を下げるしかなかった。




 が。



 今度は廊下の方から怒声が響き渡って来た。

 ほぼ同時に、その声を振り切るような大きな足音も聞こえてきた。


 何を言っているかは具体的には聞き取れないが、まもなく勢いよく扉が開けられて、顔を出……すというよりは、先に腹が出て来た。


 姿を見せたのは白衣に身を包んだ男。

 いや、包んだと言えるだろうか。

 明らかに包みきれていない。

 餃子の皮から中身が漏れ出ているような雰囲気だ。

 手には何やら持っているようだが、その肉襦袢のせいで遠目からはよくわからない。


 その後ろからは先ほど一瞬だけ外で連絡を取るといって出て行った記者が数名居た。


 おそらく先ほどの大声の主は彼らだったのだ。

 記者ひとりの後ろには研究所の職員と思われる人間がふたりずつ。


 そこまでは何もおかしなところはなかった。


 部屋の前側にいたマスコミは思わず息を飲んだ。

 一斉に、だった。綺麗に揃った呼吸音。


 入って来た記者それぞれの手元を見れば、縄のようなもので括られていた。


「お待たせしました」


 巨体を動かして来たというのに、息が上がった様子はない。

 というか、完全に棒読みのような言い方だった。

 感情のかけらもないような落ち着き払った様子で、男は入り口の鍵をかけた。


「おつかれさま」


 壇上にいた男は、つい数秒前に部屋の外であったと思われる悶着を意にも介さず、入って来た男をねぎらった。


 明らかに妙な空気。

 これにはさすがに、鈍いマスコミたちも気付き始めた。


「さて。ここからが本題であります」


 そう言いながら壇上から降りる。


 わざとらしさすら感じる重たい足取りとよく似たような笑みを浮かべると、徐に扉の近くにあった紐を引いた。

 敷き居がわりだった透明なカーテンは、それに合わせて床へと落ちた。


「ご安心ください。悪いようにはいたしません」


 咳払いをひとつ挟むと、先ほど部屋に入って来た男が持っていたものを受け取った。


 当然、記者たちはそれどころではなかった。

『悪いようにしない』なんてセリフを真に受ける人間など、現代社会ではほぼ絶滅している。

 透明カーテンの前に陣取っていた記者などはもはやそこには居ない。

 森の中で熊に出くわしたときのように、男から視線を外さずにゆっくりと後ずさりをする。


「おい、開けろ」


「どうぞ?」


 後ろ側のドア近くにいた職員に対して凄む記者。

 その横柄な態度を気にすることもなく、職員はその場から少し離れる。



 が。

 それを跳ね返すような笑みを浮かべる。



「……開けられるものならね」


「何?」


 記者は勢いよく扉を引こうとするが、ビクともしない。

 押せども同じ。

 ドアノブについていたサムターンのようなものを回しても、空回りする感覚だけが手にへばりついた。


「指紋認証が必要なんですよ、その鍵」


 ガチャガチャとやかましい音がピタリと止まるが、すぐさまドアへと体当たりする音へと変わった。




「いい顔ですね、みなさん。会議室と言えども、研究施設の扉が破れるわけがないじゃないですか」



 なんだ、今の言い回しは。


 さすがにおかしい。


 部屋に静寂が訪れる。


 ドア側に集中していた視線が一瞬ステージ側へと向けられた。


「さきほど言い忘れていましたけど、原因に関してはもうひとつあったんですよ」


 その視線をしっかりと受け止めながら、男は笑った。


「その成分の中に、ちょっと厄介なモノが含まれていたのですが、成分培養の過程で少しその面倒ごとも増幅させてしまいました」


 部屋の空気は完全に凍りついた。




「まぁ、我々を見ていただければわかりますよね」




 その目は、もはやヒトのモノとは形容できなかった。


 さきほど受け取ったモノを高く掲げる。

 記者たちに見せつけるようにして、高らかと。


 それは、蓋つきの小さなガラスビンだった。

 中身は見えない。

 そもそも濃い色のガラスになっていて中など見えるわけもなかったが、それ以上に半ばパニック状態に陥りそうな記者たちが冷静に中身を見る余裕はない。



「単純な話です。成分というか、生物だったのです。そして……っ」



 その瞬間、男が白目をむいた。

 ガクリと首を落とす。







 再び静まり返ること10秒ほど。

 男は、口を開いた。








『ヒトの脳細胞に寄生するのです』








 懲りずに何とかして外へと出ようとしていた記者も、思わずその動きを止めた。

 息をするのも忘れるほどに。


 当然だった。


 今までに聞いたことのない、少なくとも男の声とは全く違う声が、広い会議室に響き渡った。




「そうでなければ、わざわざこんなところに足労いただくわけがないでしょう」




 そう言って、男は記者たちが集まっている場所を目掛けて、手に持っていたビンを投げつけた。


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かれいなるさんげき 御子柴 流歌 @ruka_mikoshiba

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