後輩少女の背中には、魔法陣が浮いている。

棗御月

後輩少女の背中には、魔法陣が浮いている。




 平日の朝七時四十分。

 それは往々にして通学の時間であり、また通勤の時間だろう。車道は車で溢れかえり、電車はぎゅうぎゅうのすし詰めならぬ肉詰め状態になっている頃だ。会社や学校といった場所に着く前からストレスとの勝負は始まっている。ましてや今は七月の後半。熱気という最大の敵が不快指数を爆上げしていた。


 話がそれた。

 つまり何が言いたいかというと、こうやってくだらないことを考えている俺もまたその一員であるということ。おっさんと鞄で牽制しあい、無言のバトルを繰り広げる普通の学生である、というわけだ。

 高校二年生、梶川雄介。それが俺の公的に語れるプロフィール。私立高校とはいえまあまあの偏差値で、しかも付属大学のある学校に進学できたのはよかったのだけど、神奈川県で東京の真横であることが災いして朝の仁義なき戦闘に巻き込まれているのである。とある理由で余分に人が一人入れるだけのスペースを占めているのもその要因だとは思うのだけど。


『次の駅は、湘南台~、湘南台~。忘れ物など、なさいませんようご注意ください~』


 学校の最寄り駅まであと二つという宣告。そして、件のとある理由が訪れる駅というお知らせだ。

 扉が開いて壮絶な人の入れ替えが行われる。湘南台が乗換駅ということもあって恐ろしいほどの人数が入れ替わる。人の荒波の中、何とかその一人分のエリアだけは確保し続けていた。

 そしてようやく、死守した場所の利用者が来てくれた。


「おはようございます、梶川先輩」

「おはよ、橘さん」


 橘深雪、高校一年生。綺麗な黒髪を肩甲骨のあたりまで伸ばしている、和風美人な感じの子だ。同じ天文部に所属していて、朝に同じ車両でよく会うから話すようになった。割といつも落ち着いていて静かめ。反応は薄いけどこっちの話はちゃんと聞いているし、向こうから話を振ってくることもある。そんな感じで普通に過ごしていた。

 だけど、その会話の中身だけは普通と違った。


「今日は朱色だね」

「どちらかというと、弁柄色に近いですね。赤焦げ茶色でも可、です」


 ある日からなぜか、橘さんの後ろにふわふわと浮いている魔法陣が見えるようになった。具体的には後頭部の左後ろ辺り。いわゆる丸っこいやつじゃなくて、幾何学模様とか称されるタイプの色々飛び出たやつだ。日によって色が変わるのが一番の特徴。

 そりゃあ最初見たときは驚いた。でも橘さんは魔法陣について質問しても反応が薄いし、他の人には見えていないし、ということでわりとあっさり慣れた。最近ではキラキラ光って綺麗だなーとさえ思う。

 ちなみに何色になるかは本人もわからないとのこと。


「朱色だと何ができるか……。んーと、朱肉がなくてもハンコが捺せる、とか?」

「ハズレです。未成熟の果物にさわるとすぐに成熟します」

「それはまた、役立つところがわからないピーキーな力だね……」


 なんでこういつも特徴的というか、みんなが思い浮かべる魔法とかと一歩ズレているんだろう。この前の黄緑の時は「新芽を動物が食べやすいくらいまで柔らかくする」という能力だった。もはや活用方法がさっぱりわからない。

 なんでそんなピーキーな内容がわかるかというと、別に判別方法があるわけではなく、何となくらしい。むしろ「感覚で」以外の説明はできないのだとか。


『次の駅は~六会日大前~六会日大前~。お降りの際はお荷物の忘れ物にご注意ください~』


 そうやっていつもの会話をしていると最寄り駅に着いた。ここもまあまあ人がたくさん下りる駅だが、湘南台に比べればまだだいぶましだ。橘さんと一緒に降りて改札口に向かう。

 人の塊の中をうねるように進んで、やっとこの思いで改札を出た。


「先輩、今日は部活のある日ですよね」

「そうだね。とはいってもいつもみたいな事話して終わりだと思うから、そんなに時間はとらないと思うよ」


 何を隠そう、天文部には最低人数の五人しか部員がいない。そしてそのうち一人は受験生でほとんど来ないし、二人は幽霊部員。残るは俺と橘さんのみだ。そんな状況でははっきり言ってほとんどやれることなどきまっている。すなわち今日出された宿題をするか、望遠鏡とかの整備をするか、申し訳程度に星座の知識を詰めるかといったところだ。

 幽霊部員にはならないための顔出しがメインになっているというなんとも残念な部活である。


「了解です。ではまた、放課後に」


 橘さんは淡々とそう言い残して友達のところに向かっていった。

 何度見ても、橘さんの方を注視している人もいなければお友達も気が付いた様子はない。本当に、あの不思議な魔法陣が見えているのは俺と橘さんだけのようだ。魔法陣に触れるのも自分たち二人だけ。それ以外の人は皆すり抜けている。

 ほとほと不思議だけど本人いわく害はないらしいしまあいいか、と納得しておく。駅でぼーっとしているわけにもいかないので、教室に向かって歩き始めた。


◇ ◇ ◇


 六時間目が終わり、放課後。

 荷物をまとめて、机を前に運んでいく。その後はみんな三々五々に分かれていった。俺も流れに逆らわず天文部の部室に向かって歩き始める。

 天文部の部室は校舎の端で、わりと長い距離を歩かなくてはならない。おそらくこれがあんまり部員が入らない原因の一つなんだろうけど、何度か顧問に進言してみても変更することにはならなかった。

 今日は……課題をやろうかな。七月上旬の今はまだ梅雨の影響があるからか、あまり天気が安定していなくて天体観測には不向きだったりする。なにか目玉になる星座でもあればそのことを調べたりするのだけど、見られない時期では仕方ない。

 七月後半とかになれば話は変わるだろうけど。本格的に夏になれば注目したい星座も多いし、空も見やすくなるはず。


「こんにちはー」


 ようやくたどり着いた部室の扉を開けるも、まだ人は来ていなかった。

 いつもの席に座ってスマホを弄って、橘さんを待つ。


 そんな時間が数十分続いて。


「橘さん遅いな……。先生の話が長引いているにしては長すぎだよな」


 朝わざわざ確認したくらいだし、来ることは確実なはず。約束を破るような人じゃないだけに不安だ。それとも何か用を片してからこっちに来るのだろうか。

 とりあえずトークアプリを起動してメッセージが来ていないかを確認した。もしも来ていないならこっちから送ればいいだろう、という打算も込みだった。

 いざ開いた画面には、メッセージが一件。


『所用で遅れます。先輩に用事があるので先に帰らないでいただけるとありがたいです』


 時間は十分前。とりあえず急いで『わかった』と返信だけしておいた。

 ……しかし用事とは何だろう。わざわざ引き留めるくらいだし大事なことかもしれない。いつ返信が来るかわからないからアプリは起動したままにしてスマホを置く。

 しばらくして、『もうすぐ着きます』と連絡が来た。

 何か用があるということは部活関連かもしれないということで机の上を片づける。それが終わったところで、部室の扉が開いた。


「遅れました」


 いつも通りの平淡めな声と動き。だけどその手には、朝には持っていなかった丸められた紙があった。


「随分遅かったけど、先生の話でも延びた?」

「いえ、友達のバナナを完熟させてしまったんです。お詫びに飲み物を買っていたら話がはずんでしまいまして」


 わけがわからないので詳しく聞いたところ、事件は昼ご飯の時に起こったらしい。

 今日の魔法陣の効果が「未成熟の果物にさわるとすぐに成熟する」というものだったのを完全に失念したまま友達の持っていたバナナを持ってしまったらしい。握ったところが見る見るうちに完熟状態へ――即ち真っ黒に手形が付いてしまったんだとか。

 その場はじつは握力が強いという苦しい言い訳で何とか逃げ切ったものの、人の手形が付いたものは食べにくい。なので、そのバナナと交換で飲み物を買ってあげていた、ということらしい。


「朝に効果聞いたときは絶対発動することないって思ってたけど、そういうこともあるんだね」

「私も驚きました。完全に気を抜いていたもので……。不覚です」


 心底ため息をついている。魔法陣なんてものがいつからあるのか知らないけど、普段から細心の注意を払っているはず。今回のミスは本人的にはとても痛いのだろう。

 これ以上この話を引っ張っても仕方ないから話題を転換することにした。さしずめ、さっきから気になっている筒状に丸められた紙について。


「そういえば、用事って何? もしかしてその手にある紙に関係してる?」

「はい。先輩への用事というのはこれです」


 机の上に広げられた紙は一枚のポスターだった。夜空と星、そしてそれを見上げる人々が描かれている。

 見出しの内容は『山の奥でペルセウス座流星群を見よう!』だ。


「実はこれ、遠方の知り合いからいただいたものでして。山奥の都会の光とかが少ないところで一泊二日で流星群を見よう、というものなのですが……田舎の山奥ということもあってか人が全然集まらないんだそうです」


 よくよくポスターを読むと、ロッジなどの施設があるわけではないようだ。よく空が見えるキャンプ場主催で、道具は一通り貸し出しがあるが食事は自炊。インフラがよいわけでもなく、ただ場所が解放されるだけのようだ。

 キャンプブームというのが昔はあったようだけど、その波すらない昨今ではこの催しは厳しいだろう。


「景色はとてもいいらしいんです。しかもほぼ貸し切り」

「でもこの条件じゃ人は集まりにくいだろうね。閑古鳥が鳴いていそう」

「なので先輩、一緒に行きませんか」


 ……。


「一緒に、というのは顧問とか他の部員も含めて?」

「いえ、二人でですが」


 それはなんかこう……ダメだろう。明確に言葉で言えないけど、なんかダメな気がしてしょうがない。主に倫理的・社会的にまずい気がする。


「その、さすがに橘さんの親御さんが許さないと思うんだけど」

「許可はとりました。その辺の根回しはすでにしてあります」

「ちゃんと男の先輩と二人で行くって言って許可もらった?」

「もちろんです。なのであとは先輩の予定次第です」


 ポスターに記載された日付は八月の十三・十四日。この日がペルセウス座流星群のピークなのは知っているし、当然夏休みの最中で予定はない。俺の親も変な勘繰りはしつつも許可はするだろう。そして、この天文部の顧問は文字通り形式上いるだけだ。つまり、許可をとったりする必要はない。

 橘さんの様子はいつも通りの淡泊なものだ。つまり事の決定権は俺にあり、変に意識しているのも俺だけなのだろう。


「……わかった。たぶん予定はないはず。一応今夜カレンダー確認して連絡するから少し待ってくれない?」


 時間をください。主に、形だけでも平静を作るために。

 ほぼ確実に行くだろうと思いつつ、ポスターの写真を撮らせてもらってこの日は解散になった。


◇ ◇ ◇


 八月十三日、月曜日。

 夏休みも本番、出校日に向けて課題の目途がなんとかつき始めたころ。俺は山の急勾配の坂をバスに揺られながら登っていた。普段いる都会から離れたこの場所では一時間に一度のマイクロバスしかなかったのだ。

 隣の窓側の席には橘さんがいる。普段見ている制服と違って私服なので正直見慣れないというか、印象が変わっていていつもの反応ができないでいた。

 白いふわふわとした感じのシャツにショートパンツとなかなか機動性のある服装。首からは小さいネックレスまで下げていた。いつもは優等生然とした雰囲気なのに、今日は活発さと清楚さの入り混じった不思議な感じだ。

 それでも、朝ということで話題は普段と変わらない。


「今日は……深紫色?」

「群青色、というらしいです。効果は……そうですね、今日は秘密にしておきます」


 珍しく今日は秘密らしい。とはいえ、この二人でなにか話題を出そうとする場合ほぼ確実に触れることになる話だ。いつかわかるだろう、と思ってその場でそれ以上の追及はやめておいた。

 そうなれば自然と意識や話は今見える風景やキャンプ地についてのことになる。


「あのポスターは知り合いからもらったって言ってたし、この辺には何度か来たことあるの?」

「知り合いの家はこの山の麓の方なので、ここまでこの山を登ったのは初めてですね。キャンプとかも初めてです」


 機動性の高そうな服にしていたから経験もあるかもと思っていたけどそんなことはなかったようだ。俺もキャンプは初めてだし、ましてや後輩の女子と二人で来ることになるとは思っても見なかった。

 夏休みの間にキャンプについては色々調べておいた。道具一式は用意してもらえるという話だったけど、どこまで潤沢に物があるかわからないから不安は残る。基礎知識と自分たちで用意するもの、あると便利なものは詰められるだけ鞄に詰めてきた。

 ちなみに望遠鏡は置いてきた。今回はメインがペルセウス座流星群だし、なによりここまで荷物を詰めた上にさらに持っていける気がしなかったからだ。


「そろそろ着きますよ」


 車内アナウンスが流れる。

 たとえ参加者がこの二人しかいないとしても、企画として開催されている以上引率者はいる。諸々の手伝いと注意、説明をしたらキャンプエリアから少し離れた場所に行ってしまうらしいけど。

 橘さんに虫除けを貸したりしているうちにバスが止まった。荷物をもって下車する。

 そこには広大な森が待っていた。視界一面を埋め尽くす様々な緑の景色。都会に暮らす自分たちが見なくなって久しい光景がそこには広がっていた。


「先輩、とりあえずキャンプ場の注意点を聞きに行きましょう」

「了解。そのあとに周辺を一周探索しようか」


 バスの荷台からテントを取り出すのを手伝って、引率の人に連れられて会場に向かう。

 そう駐車場から離れない位置にキャンプ場はあった。川が近くに流れていて見晴らしがよく、山を感じるには最適そうな場所だった。テントを張るところは均されていたけどそのほかの場所は自然そのままで、川は底が見えそうなくらい透き通っている。

 清涼感のあるとても良いところだった。


「すごい綺麗ですね」


 とにかくこの一言に集約されるだろう、というほどには綺麗だった。

 引率の人がニコニコしながらこっちを見ていたので急いで追いつく。完全に逆お上りさんになっていてほほえましく思われてしまったようだ。

 説明や注意事項の話は思っていたより早く終わった。川の中でも上流のここはダムの放流もないし、毒蛇も数年に一度見かける程度のようだ。森の奥に入りすぎると崖がある、ということを気を付けたら大丈夫らしい。

 引率の人が帰っていくのを見送ってさっそくテントを立てる。キャンプが初めてなので当然テントの設置もやったことはない。二人して四苦八苦しながらなんとか形を作っていく。特に屋根になるところのポールを組み立てるのが大変だった。

 結局テントの組み立てだけで三十分近くかかってしまった。この後に薪集めや周辺探索があると思うと心が疲れてくるけど、これもキャンプの醍醐味だと割り切ってこれからの行動計画を立てていく。


「料理にも暖をとるのにも使うから薪集めを先にしようかなって思うけど、どう?」

「了解です。方向を分けて探索も兼ねてやりましょうか。そうしたら後でお互い案内し合うだけでよくなるので」


 それで問題はないと思う。


「実はものすごい方向音痴だったりしないよね?」

「馬鹿にしないでください。先輩じゃないんですから」


 いや、べつに俺も方向音痴じゃない……と思う。でも橘さんは普段冗談を言わない人だし一応気を付けておこう。

 キャンプ道具の中にチャッカマンも着火剤も入っているのは本当にありがたい。薪の組み上げ方は調べてきているし、本当にあとは薪を集めてくるだけだ。一時間後にテントに集合する約束をして二手に分かれて森に入った。

 借りた籠に次々と手ごろな大きさの乾いた枝を放り込んでいく。もとの木から落ちてすぐの枝は水分を持っていることが多いから拾わないようにして、乾いた良質な枝だけを選ぶ。

 乾いているかわからないときは折ってみるといいらしい。乾いた音を立てて簡単に折れたら乾いているといっていいはず。

 そんな感じで森の中に分け入ってみると、思ったより背の低い木が多いとわかった。観光客が年に数えるほどしか来ないこの辺りでは山の整備はほとんどされていないようだ。

 そこまで考えてようやく橘さんの今日の服装を思い出した。白いシャツはいいとしても、下はショートパンツだったはず。そんな恰好で藪のある森の中は厳しいものがあるだろう。

 すぐにスマホを取り出して電話をかける。枝を拾うのに夢中で気が付かないかもと一瞬思ったけど、すぐに通話状態になった。


『どうしました? まさか本当に迷いましたか?』

「いや、そうじゃなくて。その格好だとこの森を歩くの大変じゃない?」

『……そういえばそうですね。足がチクチクします』


 気が付いていなかったのかよ、と心の中でため息をつく。今の今まで気が付いていなかったのは俺も同じだから口には出さない。


「必要分は俺だけでも拾えると思うから、テントに戻ってていいよ」

『わかりました。その分今日の夕ご飯は私が作りますね』


 それは個人的にも嬉しいのですぐに了承した。

 働いた後の楽しみもできたことだし、頑張りますか。



 時間が過ぎて、今は夕方六時半。

 東の空が赤紫に彩られ、西の空が美しい夕日に照らされる頃、キャンプ場のテント前では夕ご飯の準備が進められていた。約束通り橘さんが持ってきた食材を使って作ってくれている。

 大きめの鮭にシメジとバター、ニンジンに玉ねぎとししとうを加えてホイル焼きにしている。そしてその横ではそろそろ出来上がるだろう飯盒がいい匂いを辺りに発していた。ザ・キャンプ飯といった感じだけど、期待値が半端じゃない。


「先輩、飯盒はもう火から離してください。十分ほどそのまま置いておきますよ」

「了解。んー、シメジの匂いがすごくいいね」


 飯盒の持ち手に太い木を通して持ち上げて、少し離れた地面に置く。米は蒸らしが大切だ。どれだけ気になっても開けてはいけない。赤子泣いても蓋とるな、である。

 鮭のホイル焼きが出来上がるのも約十分後だから、それまではじっと待機だ。とはいってもやることがないので、キャンプらしい写真でも撮って時間をつぶすことにした。

 沈みかけている夕日はまだしも、ようやく見え始めた一等星はスマホで撮影するのは難しい。なので、空を撮りたいのならそういう設定のできるカメラを用意するべきなんだけど、こちらは生憎ただの高校生。校則でバイトは許されていないし、天文部の部費は微々たるものだ。

 なので、そういう時はインスタントカメラを使っている。フィルムであれば夕日の微妙な変化や見え始めの一等星も撮れるのだ。

「んー、いい感じ」


 夕日というのは目に見てわかるくらいのスピードで沈んでいく。だから、長時間露光を使って写真を撮ると普通とは一風変わったものが撮れるのだ。

 テント周辺で何度か位置を変えて撮影する。でも、似たような所ではさすがに構図のレパートリーに限界がある。


「橘さん、探索は短い時間だったけど写真を撮るのによさそうなところとか見つけたりした?」

「ありましたよ。食後に案内しましょうか?」

「お願いするよ。やっと鮭のいい匂いがしてきたね」

「もう盛り付けるだけなんで、そろそろこっち来てください」


 呼ばれたのでそっちに行ってみれば、すでに皿に盛り付けられた料理たちが待っていた。あとは鮭の銀紙焼き一品だけだったようだ。

 銀紙をはがして現れた鮭はなんとも言えない良い風味と食感で、鍋は全身に沁みるような感覚さえした。米はおこげも含めて普段より美味しかったし、何より最後に締めで卵と合わせておじやにしたら、満足感で心が溢れかえった。焚火や夜空も相まってよりいっそう心の充足感がすごい。

 満足感に流されて半分うわの空で片付けを手伝う。そのまま寝袋にもぐりこんで寝たいほどだったけど、本来の目的を忘れてはいけない。


「橘さん、機材とかは俺が持っていくから撮影ポイントへの案内をお願いしてもいい?」

「わかりました。すこし藪が深いですけど、すぐ着きますので」


 橘さんの先導に従って歩いていく。獣道すらないから大変だけど、時には藪を三脚をつかってかき分けて進んでいく。どうやら撮影ポイントは山の上の方にあるらしく、道は基本的に上り坂だ。低木も増えてくるからうっとうしい事この上ない。

 橘さんの足元は一応持ってきていた寒かった時用の服を貸してあげて何とかした。予備を持ってきていてよかった。

 歩くこと数分、ようやく橘さんが立ち止まる。木々のすき間、切り立った崖の上。そこからは麓までの山全域が見渡せた。


「――――」


 絶景だった。

 たくさんの木々や小さく見える麓の街の明かり。都会では見ることのできなくなった、暗い夜空で輝く数多の星。地平線の果てまで広がる大きな天の川が空を幻想的に染め上げている。

 しかも、ちょうど今日は新月で月明かりがない。そのことがさらに星々を際立たせていた。


「──先輩、今日の私の魔法陣の力はですね」


 空を一条の光が流れる。

 ペルセウス座流星群。新月の今日、ピークを迎えた星の雨が次々と空から降り注ぐ。


「星が綺麗に見える魔法、です。楽しんでいただけました?」


 群青の魔法陣を背後に背負い、流れる星々とともに振り返って微笑む彼女は一段と綺麗に見えた。長い黒髪が風に流れて婉然と揺れる。夢のような景色に佇む彼女はまるで、この世ではないどこか浮世の存在にさえ思えた。

 きっと、彼女に見惚れていたのだろう。その問いに何と答えたのか、その後どうやって写真を撮ったのか、どうやってテントまで戻ったのかすらまるで思い出せないほどに。

 それだけの破壊力が、あの一瞬に込められていた。


◇ ◇ ◇


 八月十七日。

 橘さんとキャンプに行った日から三日後の今日、朝七時四十分。俺は電車でサラリーマンやお爺さんたちとの無言の熾烈なバトルを繰り広げていた。なんで普段乗らない人の方が大きい顔をして不満げにしているのか、という疑問を抱えながら今日も一人分の場所を確保している。


『次の駅は、湘南台~、湘南台~。忘れ物など、なさいませんようご注意

ください~』


 激しい人の入れ替わりを耐える。わざとらしいほどに肩をぶつけていくのは何とかならないもんかな、と思考を巡らせているといつものように橘さんが来た。


「おはようございます、先輩」

「お、おう。おはよう橘さん」


 橘さんの顔を見るだけで、網膜に焼き付いたあの日の笑顔が浮かんでくる。そのせいで若干挙動不審になりながらもなんとか挨拶を返した。幸いにも少し不審げに眉を顰めただけで特にツッコミは入らない。そのまま自然といつものところに位置をとった。

 電車が動き始める。そうなれば自然と彼女の背後に視線が向かう。


「今日は……綺麗な紅だね」

「ワインレッドです。透き通るような感じで好きです」


 今日も変わらず、魔法陣は橘さんの背後に浮かんでいた。癖で周りの人を確認したけど、やはり誰にも見えている様子はない。

 学年が違うから課題の話題を振っても続かないだろう、と思ったから気になっていたことを話題として質問してみることにした。


「旅行のこと、親御さんはなんか言ってたりした?」

「大丈夫です。旅行に行く許可もすぐにもらえたぐらいですし、帰ってからも感想以外は聞かれませんでしたよ」

「……許可ってそんな簡単にもらえるものなのかな。相手の人のことをよく知って

ないとすぐに許可を出したりしないと思うんだけど……」


 橘さんは大丈夫と言っていたけれど、やっぱり気になってしまう。だって可愛い一人娘のはずで、いくら部活の先輩とはいえ男と二人きりの旅行をそんなすんなり許可したりするものかな、って。

 そういう思いが口からこぼれると、それを聞いた橘さんが不満そうな顔でそっぽを向いてしまった。口元をとがらせてさえいる。

 え、俺何かした?


「……先輩のにぶちん。そこまでわかっているならあと少し考えるだけでどういうことかわかるじゃないですか。ほんと鈍感すぎて困ります」


 どうにもやるせないとでも言いたげな、責めるような視線。そのうえ諦めたようなため息までついた。どういうことかさっぱりわからない俺は、ただただ焦るしかない。もしかして気がつかない間に何かやらかしてしまったのだろうか。


「なんでもないです。それで、今日の魔法陣の効果はですね」


 一呼吸おいて、こっちを見上げた。

 いたずらなその表情に不意にドキッとしながら次の言葉を待つ。



「気になっている人と一緒に帰ると運勢がよくなる魔法です。というわけで先輩、今日も部活しますよ」



 橘さんはそう言って微笑んだ。


 ──きっと、こんな日がこれからも続いていく。わけのわからない魔法をスパイスに、何気ない日常がこれからもずっと。

 刺激は少なくていい。魔法は、少し不思議なくらいでちょうどいい。


 そんな風に笑いながら、きっと。


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後輩少女の背中には、魔法陣が浮いている。 棗御月 @kogure_mituki

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