ひこうき雲
白く、空まで続いているかのような坂道。そこを、綺は毎日中学校へ通学する。今日も。
夏休みに入っているが、受験生の綺に休みはない。毎日、午前中は課外だ。
炎天下の坂道をゆらゆらと立ちのぼるかげろうは、空を目指している。その光景が、綺は嫌いではない。夏のむっとした陽気も、だから嫌いではなかった。
ゆっくりと、階段を登るように坂道を歩く。見上げると碧落が広がっている。実際にはないのに、坂の向こう側に海が広がっていそうなほど、青い。
その坂の途中。白い建物が道沿いに建っている。小さな病院だ。小さいとは言っても、腕はいいらしい。綺も小さい時はよく世話になった。特に小児科の名物ドクターは、手品をして子どもを喜ばせ、緊張を取り除いてくれたりしていた。手先が器用で、いろいろな手品を見せてもらった記憶がある。しかも、一度診察した患者の顔は忘れないらしい。綺は、今でも時々、元気にしてるかー、と声をかけられる。
建物は、4階建て。二階から四階は入院患者のための病室だ。そこに、綺の小さな友人はいる。正確に言うと、二階、向かって左から三番目の窓際のベッド。綺がこの坂道を通る時は、ほぼ毎回彼と話をしていく。
「あやちゃん!」
今日も。いい加減立て付けの悪くなった窓が、ガラガラと開いて、小さな頭が顔を出す。年齢は八歳。名前はクウ。一度だけ見た事のあるクウの母親に似て、可愛らしい顔立ちをしている。
「あやちゃん、おかえり!」
「ただいま、クウ。今日もいい天気だね。空がきれいだよ」
「うん! きょうもね、ずっと空をみてたの。ひこうきぐもができてて、すごくきれいだったんだ。ぼくも、空をとびたいなぁ」
クウの夢は空を飛ぶこと。毎日、毎日、空を飛びたいと言っている。それが、叶えばいいのにと、綺は思う。空を飛ばしてやりたい。
「ねぇ、あやちゃん。きょうはママがこないんだよ。うえにこない?」
クウは寂しがり屋だ。綺と知り合ったのも、母親が来ない日に寂しがって、窓の外を通っているあらゆる人たちにクウが声をかけていたからなのだ。皆怪訝な顔をして通り過ぎたけれど、綺はなぁに? とクウに返事をした。それが、最初。
「いいよ。外は暑いしね、少し涼しくなるまでいさせてくれると嬉しいけど?」
「うん、いいよ!」
ぱあっと輝くクウの顔。その笑顔を見られるなら、きっと綺はなんだってするだろう。クウの幸せを、誰よりも願っているから。
「じゃあ、ちょっと待っててね」
一度クウに頷いて見せて、病院の敷地内に回り込む。綺を見かけたなじみの看護師—名札には竹岡理恵とある—が、あらクウくんのお見舞い? とほほ笑んでくれた。
階段を登ってクウの病室を訪れる。顔いっぱいに笑みを浮かべたクウは、ベッドの上。そのベッドに綺が腰掛けるなり、クウの小さな身体が綺に抱きついた。
「ふふふ。やだなぁクウ。甘えんぼなんだから」
小さく笑って、綺もクウを抱きしめ返した。小さな身体。細い腕。軽い体重。それでも、クウは病気と闘っている。そんなクウが愛しい。
クウの病名は、小児白血病。そんな病名はクウは知らないけれど、それでも闘っているのだ。
「あやちゃんだー。あやちゃんだー」
元気な笑い声は、これでも病気なのかと疑いたくなるほど。
「クウだ。大好きなクウだ」
本当に、大好きな。
「あ、あやちゃん! みて! きょうつくったんだよ」
身体を離し、クウは枕もとに手を伸ばした。そこにあったのは、折り紙で作られた紙ひこうき。なんの工夫もない。さらに言えば、子どもらしく折り目がズレている。それでも、大空を真っ直ぐに飛ぶだろうと思わせる、力強い紙ひこうき。
「あら、クウが作ったの? へぇー、いいなぁ、それ。こんなひこうきに乗って空飛んだら、気持ちいいよね」
「うん! あ、でもね、でもこれはまだなんだ。もっとうまくつくれたら、そしたらそれ、あやちゃんにあげるから。そしたら、あやちゃんはそれで空とべるよ」
「ほんとに? すごい楽しみだよ。クウ、絶対だからね」
クウはなんて純粋な心を持っているのだろうか。その心が、綺には嬉しい。
「うん! そんでさ、ぼくといっしょに空、とぼう!」
「わかった。絶対だからね。指切りしよ」
小指と小指を差し出して、指切り。約束。絶対、絶対の約束。
「空をとぶんだー。あやちゃんととぶんだー」
はしゃぐクウの声に、綺は笑った。笑って、クウを抱きしめる。
「ぜーったいだよ、クウ」
ここ数日、クウが顔を出さなかった。だから、薄々予感はあった。けれど、それを事実として目の前に突きつけられた時、綺はパニックになってしまった。
綺ちゃん、あのね、クウくんのことなんだけどね。実は、三日前の夜、急に容態が急変して……。
皆まで聞かずに、綺は走り出していた。いつもクウのいた、あの部屋へと。しかし、窓際のそのベッドには、誰も寝ていなかった。あやちゃんだー、という無邪気な声は響かない。
「クウ……?」
呼んでも返事はない。涙は出て来なかった。まだ、事実を認めたくなかったからかもしれないし、認めた上で、そのショックによって出なかったのかもしれない。どちらにしても、綺は立ちすくむしかなかった。
「綺ちゃん……」
綺を追いかけてきてくれた竹岡看護師が、綺の肩に手を置く。
「綺ちゃん。クウくんは、綺ちゃんが大好き、って。そう言ってたよ。そう伝えてくれ、って。いつでも大好きだよ、って」
「クウが……?」
「うん」
彼女は大きく頷いた。綺を元気付けるために嘘を言っているわけではなさそうだった。それは、彼女の瞳からわかった。クウは、本当に、本当にそう言ってくれたのだ。
「クウに会いに行きたい……。クウの家、教えてもらえますか?」
綺は、クウの家の場所は知らない。クウの母親には一度だけ会ったっきりだし、クウが自分の住所を言えるわけもない。
ただ、知っているのは、枕もとの名札に書かれた、「あきばくう」という名前だけ。それも、漢字でどう書くのかまでは知らない。
それらは、綺には必要のないものだったから、知ろうとも思わなかった。綺の愛したのは、病気と闘う純粋な少年だ。彼の住所でも名前でもない。
「ええ……。クウくんのお母さんも、綺ちゃんに、ぜひ線香を上げに来て欲しいって」
もし、今日綺ちゃんがここに来なかったら、こっちから電話するつもりだったのよ。彼女はそう言って、弱く笑った。
「クウ……」
空を飛びたい。彼のその夢を、叶えてやりたかったのに。
「クウ……」
家には帰らずに、綺はその足でクウの家へと向かった。よほどふらふらしていたのか、一度親切なおばさんに大丈夫? と尋ねられてしまった。
それでも、なんとか教えられた住所にたどり着いて。かすかに線香の臭いのする玄関先で、またしても立ちすくんでしまった。クウの母親に気がついてもらえなかったら、きっと綺は一晩中でもそこに立ちすくんでいたに違いない。
綺の名を聞くと、クウの母親は、涙で濡れた目を拭いながら、綺を家の中へと招き入れてくれた。
仏壇。クウの笑顔。永遠に変わらない笑顔。まだ、こんなに小さかったのに。
震える手で、それでも機械的に線香を上げて。クウの笑顔になんにも言えないまま、綺はその場を離れた。離れるしかなかった。
なにも出てこない。言いたいことは、たくさんあるはずなのに。
クウがもう、どこにもいないなんて信じられない!
「綺さん」
そんな綺を呼び止めたのは、クウの母親だった。彼女は香穂と名乗った。
「あなたには、クウがいろいろお世話になっていたみたいで、ありがとう。いつもね、言っていたの。朝と昼と、綺ちゃんが来てくれるんだよって」
うっすらと涙を浮かべながら、香穂はそれでもにこやかに笑った。
「だから毎日楽しいの、って。本当にありがとう」
「いいえ……」
小さく唸るように声を出し、うつむく。お礼が言われたかったわけではない。綺はただ、クウの笑顔を見ていたかったのだ。クウのことが大好きだっただけだ。
それに、綺だってクウに助けられていたのだ。毎日、綺にのしかかる全てのストレスから。クウの笑顔を見るだけで、それらはきれいに癒されていた。
ありがとうと、お礼を言いたいのは綺の方だ。それなのに、クウは一方的に、逝ってしまった。綺がありがとうと言う暇さえ与えずに。
「それでね、綺ちゃんに、渡したいものがあるの。いいかしら」
「え……?」
驚いて顔を上げた綺の前に差し出されていたものは。
「これ……」
水色の折り紙でつくられた、力強い紙ひこうき。なんの工夫もないところは一緒だが、折り目はきっちり、上手に折られている。
そして、その翼の部分。そこに、鉛筆で文字が書いてあった。
『あやちゃん。ぼくは、ひこうきぐもになって空をとびます。そんで、あやちゃんはこのかみひこうきで空をとんで。そうしたら、いっしょに空がとべるよ。 空』
そこで、綺は初めてクウが、『空』だと知った。
「これ……これは……?」
「空が綺さんにって。もらってくれるかな?」
そっと差し出された紙ひこうき。それを受け取り、もう一度、綺は空の文字を読み直した。一緒に空を飛ぼう。その約束を、空は守ってくれたのだ。
綺は、きっとこの紙ひこうきさえあれば、いつでも空を飛ぶことができる。そして、その後ろに伸びるひこうき雲は空だ。
「そっか……そうなんだ……」
空はひこうき雲になったのだ。空を自由に翔ける、ひこうき雲に。
空に憧れて、そして空を翔ける。それは、空の願い。夢。
「空……」
やっと、綺の瞳からぼたぼたと涙が溢れ出した。小さな、けれど大空を翔ける紙ひこうき、それをしっかりと胸に抱いて。
空を見上げて、ひこうき雲を見つけるたびに、綺は空を思い出すだろう。空と一緒に空を翔けるだろう。
空は、きっと幸せだ。
「きっと、あの子、今頃はしゃいでいるんだわ……」
そうつぶやいた香穂に、綺は頷いた。そう、空の夢は叶ったのだから……。
空の家を出て、まだ明るい午後の日差しの中を綺は歩き出した。その腕には、空のくれた紙ひこうきをしっかりと抱いて。
見上げた碧落には、ひとすじのひこうき雲。
「……空」
いっしょに空をとぼう、あやちゃん。そんな空の声が聞こえてくる。
「いいよ。約束だもんね」
頷いて、綺は静かにほほ笑んだ。綺は、空のくれた紙ひこうきに乗って空を飛ぶ。その後に、ひこうき雲。
青い空。どこまでもどこまでも青い空。その中を、綺と空は進む。翔けていく。
空に憧れて、そして空を翔ける。真っ直ぐに。
どこまでも高い、夏の空を。
END
関連作品 「待宵草」
https://kakuyomu.jp/works/1177354054893536029/episodes/1177354054893536460
幻想歌集 はな @rei-syaoron
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