桜ヶ丘綺譚(現代ドラマ短編集)

はな

待宵草

 いつもの通学路。そのいつもの道をいつものように綺は歩く。

 夏の終わり、涼しい風と世界を飲み込むオレンジ。

 その中に拓哉が見えた。そして、綺に背を向ける位置で拓哉に向き合う女性も。

 何事か話しているらしい二人に声をかけるのははばかられた。


 違う道で帰ろうか。そう思った時、女性が突然拓哉の首に手をまわして背伸びをした。

 息が詰まる。その瞬間で時が止まってしまったかのように思考が停止する。


 どうしよう。


 オレンジの洪水が二人の上を流れる。

 まだ気づいてないかもしれない。やっとそう思い至り、じりじりと後ずさる。それは時間にして数秒であったはずなのに、何時間もそうしていたかのように綺の身体は固く重たく……。

 女性が拓哉から離れる。綺の身体がやっと動き、踵を返す。


 そのまま、走り出す。

 その背後で、拓哉が綺を呼ぶ声がしたのはきっと、気のせいだ。

 オレンジにまぎれて走る。洪水を起こした夕暮れの空に溶けるように。




 綺には兄が二人いる。しかし、どちらも実の兄ではない。綺が兄と慕う人物が二人いる、という表現が一番正しいだろう。

 一人は遠い親戚にあたる博。彼は、今現在の綺の保護者代わりだ。

 そしてもう一人は、博の経営する喫茶店で働く拓哉だ。


 拓哉との関係はやや複雑だ。拓哉は、綺の母の不倫相手の息子だ。


 初めて話をしたのが14歳の頃。

 両親の不仲をとっくに諦めていた彼は、綺の母親にも、綺自身にも寛容だった。すでに成人していたことも大きいだろう。

 そのまま、拓哉を兄と慕い、拓哉は綺を妹と可愛がる。

 そんな風に、この3年間を過ごして来た。


 そして、その年月で初めてだった。拓哉がおそらくは友達ではないだろう女性と居るところを見るのは。

 だから、普段の綺からすると考えられないほど驚いてしまったのは事実だ。

 見てはいけないものを見てしまったのではないか。そう思ってとっさに逃げ出してしまった。

 しかし、よく考えれば拓哉ももう二十代も後半に差し掛かる頃だ。なにも不思議なことなどない。むしろ自然なことだ。


(どんな顔して帰ろう……)


 綺に気がついただろうか? 気がついていたとしたら気まずい気がするし、気づいてなくても綺の側からはなんとなくぎこちなくなりそうでやっぱり居心地が悪そうである。


 綺は、博と拓哉が切り盛りする喫茶店の二階の居住スペースを貸してもらっている。帰るには、どうしても一階の喫茶店スペースを通らなくてはならない。

 街は夜でも明るいが、遅くなって心配をかけるのも本意ではない。ただ、居心地が悪いと感じる自分だけの問題で、拓哉はなにも悪くないのだ。


 先ほど、一度だけスマートフォンに入った拓哉からの着信は、なんとなく取りそびれたままだ。


 帰りたいのに、帰りたくないような。

 どうしてこうも矛盾した気持ちがわき起こるのかがわからない。

 ショウウィンドウに映る自分の姿が、妙に沈んでいる気がしてさらに戸惑う。


 14歳。ロックが好きだよと教えられ、それなら仲良くなれると思ったこと。

 自分の人生を歩き出す為に拓哉の父と消えた母親に代わって、綺を迎えにきてくれた事。

 たくさんの場所に遊びに連れて行ってくれたこと。

 拓哉は、本当に妹には甘い。おそらく、保護者代わりの博よりも。


 それに甘えていたことも事実。


 そんなことをとりとめもなく考えていたその時。制服のポケットに入れていたスマートフォンのバイブが震えた。

 拓哉からの短いメール。何時頃帰るの? プリン作ったんだけど、食べる?


 喫茶店で主にデサート担当の拓哉の作るお菓子は本当に美味しく評判だ。そのお菓子で綺を釣ることも、これは日常茶飯事。

 だから、釣られた振りをして帰ることにする。どうせ、帰らなくてはならないのだから。


 すぐに帰る。綺も短いメールを返し、帰路を急ぐ。

 まるで、こうして声をかけてくれるのを待っていたようで少し自分が可笑しい。プリンに釣られる妹も悪くない。




 拓哉はなにも言わなかったので、綺もなにも言わなかった。

 気にならないといえば嘘だったが、綺が詮索するようなことでもないと思えた。だから訊かなかった。

 絶品のプリンを貰い、他愛ない話をして。

 ただほんの少し、気まずいような気がしたのは、綺の整理がついていないせいと思うことにした。




 それから、一週間ほど過ぎた頃、それは突然目の前に現れた。

 いつものように夕暮れの帰路を歩く綺の前に立ちふさがったのは、見知らぬ女性だった。長いストレートの髪。高い背。憎悪に近い怒りの表情で綺を見下ろす燃える瞳。


「あんたね。拓哉の妹ってやつは」


 顔は知らない。だが、それがあの時拓哉といた女性じゃないかという結論に達するのにさほど時間はかからなかった。

 なぜ綺を知っているのか。それは問うだけ無駄だ。だから訊かない。おおかた、数日喫茶店の前で張っていたのではないだろうか。そうすれば、毎日そこへ帰る綺の存在に嫌でも気がつくはず。


「血が繋がってないくせに、なにが妹なの? そんな甘えたこと言って拓哉に取り入ってなに狙ってるのかしら?」


 遥かな高みから綺を見下ろすように吐き出される高い声は、怒りのためなのかいっそ艶めいて聞こえるほど冷たい。

 身体が冷える。一切付け入ることを拒絶している声だ。おそらく、彼女に聞く耳はないだろう。


(取り入ってなんか……)


 違う。そう言いたくても口は動かない。

 拓哉は、兄のような人で。保護者代わりの博の親友で。


(駄目だ……)


 そう言ったところで通用しない。きっと、逆上させるだけだ。


「ちょっと調べてみたら、あんた、拓哉の父親の不倫相手の娘なんですって? それで妹気取りってどういう神経の持ち主なの?」


 そう言って、彼女は軽く鼻で嗤う。


「汚らしい、親子揃いも揃って、汚い売女なのね? あぁ、可哀想な拓哉! こんな売女に騙されてるとも思わずに優しくするなんて」


 聞くな。まともに聞いちゃ駄目だ。そう思うほどに綺の耳は彼女の鼓動に引き込まれていく。

 売女。その罵り文句は3年前にも聞いた。それは、拓哉の母親からの罵声だった。

 違う。わたしじゃない、わたしじゃないのにどうして責めるの。

 俯き、力を込めて目を閉じる。


「そろそろ、拓哉騙すのやめてくんない? あんたみたいな売女にお似合いの男ならごろごろ居るでしょ? それは拓哉じゃないわ」


 なにを言っているのだろう。なにを勘違いしているのだろう。なぜそんなことまで言われねばならないのだろう。

 いつもそうだ。綺の母にしても、拓哉にしても。自分の預かり知らないところで事は起きて、その矛先はこちらへ来るのだ。

 憎悪に満ちた拓哉の母親の顔が浮かぶ。あの時も。今も。


「ちょっと、なにか言いなさいよ!」


 一段と高くなった鋭い声が飛び、肩を押されよろめく。

 瞼にオレンジの洪水。


「あんたさえ居なきゃ、わたしたちは上手く行ったはずだわ!」


 ほとんど怒鳴るように叩き付けられたその言葉でやっとわかる。

 彼女は、拓哉が本当に好きなのだ。上手く行かなかった理由を綺になすりつけて攻撃せねばならないほどに好きで。好きで、好きで。

 綺を攻撃したところでもう取り返しがつかないことは彼女自身もわかっているはずだ。だから、これはただの八つ当たりだ。

 綺の存在のせいで上手く行かなかった。そう思えば小さなプライドを守れる。胸をえぐる傷が小さくて済む。綺はその為の、生け贄なのだ。


(本当に好きだったんだ……でも……)


 もう、要らない。誰かの生け贄にされるのなんてもう嫌だ。

 自分の知らないところで起きた事を押し付けないで。勝手にわたしを傷つけるだけ傷つけてすっきりしないで。わたしは掃き溜めじゃない。

 ゆっくりと顔を上げる。まっすぐに彼女を見た。


「それは、わたしに言う事じゃないわ」


 喉の奥から絞り出すように発した声はかすれている。

 言ってしまえば、彼女も、そして自分自身も傷つく言葉だった。しかし、他人に土足で踏み荒らされるくらいなら、自分の言葉で傷つく方がずっといい。


「それは、拓哉に直接言って。あの売女に騙されているって。直接そう言って」


 声が震える。


(今泣いちゃ駄目だ……)


 ぐっと奥歯を噛み締める。あと少し、我慢して。あと少し。


「拓哉が可哀想と思うなら、直接言ってよ! わたし、拓哉を騙してるなんて、そんなこと彼に言わないわ! あなたが拓哉を助けてあげればいいじゃない!」


 目の前の顔は凍り付いていた。それはとどめだった。

 彼女のプライドは壊れただろう。彼女が直接拓哉にそれを言わないのは、綺が原因でないことを知っているからだ。それを拓哉に言えないことを知っているからだ。


 ただ、彼女は拓哉が好きで好きで好きで。ただそれだけだった。その心を綺は壊したのだ。


 彼女は表情のない顔で綺を見下ろし、手を振り上げた。ぶたれる、そうわかっていて避けなかった。乾いた音がして、頬に痛みが走る。

 それと同時に、彼女の瞳から涙があふれた。そのまま綺の横をすり抜けオレンジの中へととけ込むように消えた。


 頬が痛い。それ以上に……。




 夕暮れが過ぎ、空が紫に変わりかけた頃、拓哉はやって来た。

 あの後、不思議と涙はこぼれず、しかしまっすぐ帰ることも出来ず、帰路の途中の公園のベンチで休みそのまま動けなくなってしまった。

 あんな風に人を傷つけたのは初めてだった。その事に自分自身予想以上に傷ついていた。


 迎えに来て。短いメールを拓哉に送った。一人で帰れそうになかった。


「綺。どうしたんだ、気分が悪いのか?」


 綺の様子が違うことはすぐにわかったようだ。すぐに駆けつけてくる。


「どうした? 立てるか?」


 そう言って隣に座り綺の顔を覗き込んだ拓哉の顔が微かに歪む。頬が腫れているのに気がついたのだろう。


「綺、なにがあった?」


 そう訊く声は強ばっている。その声に首を微かに横に振る。

 もう十分、先ほどの彼女を貶めた。これ以上はもう出来ない。彼女はただ拓哉が好きだっただけなのだから。


 拓哉の顔を見上げる。綺を心配する顔。


 息が詰まった。先ほどは吐き出せなかったたくさんのものが、一気に喉元を駆け上がり目頭が熱くなる。視界が歪んだ。

 押しつぶされたような音が喉からもれ、涙があふれる。


「我慢するな」


 拓哉の腕が綺を包み込む。そのまま、綺の顔を肩へと導く。


「なにがあったか知らないけど、我慢するな。泣きたいときは泣いたらいい」


 耳元で聞こえるその優しさに、一気になにもかもが壊れた。子どものように、声を上げて拓哉の肩にすがりつく。

 拓哉は何も悪くない。しかし、拓哉が蒔いた種が綺に飛んで来たのは事実だ。だから、ここでこうして甘えるくらい許して欲しい。

 これも、都合のいい、自分のプライドを守るための言い訳かもしれなかったが。それでも。拓哉はそれを許してくれるだろうから。

 綺も、綺を傷つけた女も、同じだ。同じだからお互いに傷ついた。

 拓哉の手が綺の頭をなでる。優しく。


「よく頑張ったな」


 それは、普段の綺を知る拓哉だからこその言葉。

 普段はちょっとのことで泣いたりなどしない綺が泣く時は、我慢に我慢を重ねた後のこと。もうどうしようもなくなって、心が折れそうな時。拓哉はそれを知っている。


 声が出せず、小さく頷くと、ぽんぽんと背中をあやすように叩かれた。

 優しく、ただ優しく。

 それは、夕暮れのような優しさに綺には思われた。




 もう少し、甘えていてもいいだろうか。許されるだろうか。

 せめて、大人になるまでは。


 それまでは、どうか……。




 End.





 関連作品 「ひこうき雲」

 https://kakuyomu.jp/works/1177354054892579699/episodes/1177354054893537697

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