猫との生活 ※

【ご注意】

読後に気分を害する可能性があります。

直接的な表現はありませんが、暴力・性描写を含むとお考えの上、苦手な方はご注意ください。

また、この話は、そのような暴力行為を良しとする意図を含むものではなく、法律・法令に反する行為を容認・推奨するものではありません。




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 猫との生活



 ドアに何かがぶつかった音で、俺は目を覚ました。


 それは、冬の夜のことだった。俺はソファで毛布をかぶり、テレビを見ていた。いや、テレビを見ていたというのは、正しくないかもしれない。ほどよく身体も温まり、音声だけ聴いて、うとうととしていたというのが正しい。


 とにかく、一番気持ちのいい時に起こされて、俺は不機嫌だった。しかし、音を確かめないわけにもいかない。寒かったが、俺は毛布から出て、ドアへと向かった。やはり、外で何か音がしている。


 扉を開けた瞬間に、俺の部屋に飛び込んで来たのが猫だった。物凄いスピードで飛び込んで来たかと思うと、部屋中を駆けずり回った。

 その上げ句、猫は寝室のベッドの下に逃げ込み、動かなくなってしまった。


 覗き込むと、猫はぶるぶる震えていた。よっぽど怖い目にあったのだろう。その瞳は可哀想に、酷く怯えていた。


 猫は、病的なほどに痩せている。満足に食べていないのだろう。薄茶の毛は、泥でぐちゃぐちゃに汚れていた。

 頬の辺りには、まだ新しい血の筋があった。ようやく固まりかけて来たその傷は、刃で切られたかのように鋭い。

 これだけで、一体何があったのか、大体の想像はつく。


 誰がこんなことをしたのかは知らないが、酷いことをするものだ。


 怯えた瞳で俺を威嚇する猫に、恐る恐る手を差し出してみる。すると、案の定引っかかれた。赤い三本の筋が、手の甲に滲む。

 しかし、出て来てくれないことには俺も困る。再び少し手を差し入れると、今度は中指に思いっ切り噛みつかれてしまった。

 あまりの痛みに驚き、思わず悲鳴を上げてしまう。その俺の声に驚いて、猫はすぐに指を放した。しかし、指にはまたも赤いものが滲んでいた。


 猫の傷の手当てをしたかった。しかし、彼女は酷く怯えていて、それを許してくれそうにもなかった。


 仕方なく俺は毛布を取り出し、ベッドの下へと押し込んだ。その毛布で、小さな猫の姿は半分以上隠れた。

 冬の夜は冷える。暖房を入れ、俺は部屋を出た。


 その夜は、猫を怖がらせないよう、俺はソファで一夜を過ごした。





 翌朝、猫はまだそこにいた。毛布にくるまり、ベッドの下からじっと俺を見上げている。


 腹が減っていやしないかと思い立ち、とりあえず竹輪を与えてみた。皿の上に一本乗せ、猫の方へと押しやる。

 彼女はぴくりと瞼を震わせ、しばらく俺を見上げていた。まるで、騙されるもんかと言っているかのようだ。


 やがて、恐る恐る竹輪の匂いを嗅いだ。そして、また俺を見上げる。

 それを数回繰り返し、やっと猫は竹輪を口へと運んだ。やはり、お腹が空いていたのだろう。


 牛乳も差し入れると、それも飲んだ。そして、俺を見上げて「にー」と妙な声を上げた。

 まだ欲しいのかと竹輪を差し出すと、また食べた。

 彼女はどんな扱いを受けていたのか。哀しい姿だ。


 猫は、「にー」とか「なー」とか妙な声を上げながら、俺が差し出した三本目の竹輪も食べた。

 猫に少し話しかけてみたが、彼女は俺の方を見もしなかった。ただ、黙々と竹輪を食べていた。


 猫は、気まぐれだ。

 とにかく、この日から俺と猫との生活は始まったのだ。





 猫がベッドの下から出てくるのに、丸1日かかった。

 嫌がる猫を無理矢理病院へ連れて行き、検査を頼んだ。まずは手当てをする事だ。


 初めての事だらけで、さすがに俺も猫もクタクタだった。

 長々とした聞き取りや手続きをして、辟易した頃にやっと解放される。


 迷子の届け出がないかと問い合わせたがなかった。


 部屋へと帰ると、猫はやっと落ち着いたようだ。

 しかし、外に出るのだけを極端に怖がっている。連れ出そうとすると、毎回酷く抵抗して俺の体力も削られた。


 しかし傷をきちんと手当てし、身体も洗ってやると、この猫が思った以上に綺麗であることがわかった。良く食べ太れば、人に自慢出来るようになるに違いない。


 最初、猫はなんとも気まぐれな奴だと思っていた。俺が呼んでも応えない。顔さえ向けない。

 そうかと思えば、自分の好きな時にだけ俺にじゃれついて来た。こちらの都合などお構いなしにだ。


 しかし、さすがに俺もすぐにおかしいと気づいた。なぜ、こんなに無反応なのか。


 いや、それだけじゃない。やはり猫は、「にー」とか「なー」とか、妙な声しか出さないのだ。それ以外の声を出すのが不可能かのように。


 もしやと思い、猫の耳元で突然手を叩いてみた。無反応だった。何度試してみても、結果は同じ。

 そして病院でも、同じ診断が下った。


 猫は、耳が聞こえなかったのだ。だから無反応だったし、妙な声しか出せない。

 不憫だった。





 二月に入る頃になると、突然寒さがいや増してきた。

 こんな時、猫は俺の布団の中に潜り込んで来る。俺としても、猫を抱いて寝ると温かいので歓迎だった。


 猫は、毛布の中で丸まって眠っている。その小さな身体を胸に抱くと、とても温かい。

 そのまま猫を撫でていると、彼女がたまらなく愛しく思えた。いつの間に、彼女をこんなにも愛するようになったのだろう。


 猫の頬には、一筋の傷跡が残っている。その傷跡さえも愛しい。もう、彼女は大切な俺の家族だった。


 こんなに小さな命でさえ、一生懸命に生きている。

 何も考えずに「猫」なんていう名前をつけてしまったことを、少し申し訳なく思った。もう少しくらい、考えてやればよかった。

 猫の話を友人にした時も、愛情の感じられないネーミングだと、散々笑われたものだ。


 耳の聞こえない猫には、あまり関係のないことだけれども。





 幼少時代からの親友・将人が訪ねて来たのは、偶然ではなかった。俺が呼んだのだ。


 猫は、外を怖がる。それをなんとかしようと思った。


 出会った時の状況を考えればわかる。猫はきっと、外ではなく、『人間のいる外』が怖いのだろう。

 当たり前だ。傷まで負わされていたのだ。相当恐ろしい目に遭ったに違いない。


 しかし、いつまで経っても外に出られないのでは、いざと言う時に困ることになる。


 猫を一目見て、将人は綺麗だなと一言言った。しかし、当の猫は、やはり怯えていた。小刻みに身体を震わしながら、俺の背に隠れる。


 猫ちゃんと呼びかけて手を差し出した将人は、案の定引っかかれた。


 しかし、彼はにこにこ笑ったままだった。俺がある程度の事情は説明していたとはいえ、出来た親友である。

 歩み寄る将人に、猫は今度は姿勢を低くして威嚇を始めた。そんな猫にも笑顔で、自らもしゃがみ込んでまた手を差し出す。


 にこにこ笑いながら。猫ちゃん猫ちゃんと柔らかく呼んで。


 お前いい奴だなと思わず俺がこぼすと、彼は大笑いした。当たり前だと。

 それにつられて俺も笑った。


 猫は、そんな俺と将人をじっと見上げていた。将人は、優しく猫の頭を撫でた。猫は抵抗しなかった。


 どうも、まだ将人のことを警戒はしているらしい。及び腰なのがそれを物語っている。

 しかし、少なくとも自分に危害は加えないだろうと判断したようだ。俺と将人が、馬鹿みたいに笑っていたからかもしれない。


 そうだ、人間は皆が皆、悪い奴ではない。それを、猫はわかってくれるだろうか。


 試しに外に出そうとすると、やはり嫌がる。それでも、将人のことは怖がらなくなってくれたようだ。

 この調子で、いつか『人間のいる外』を怖がらなくなってくれるといい。


 別れ際に将人は猫を呼んだが、猫はそっぽを向いていた。当たり前だ。


 そういえば、大切なことを言い忘れていた。

 無視されたと嘆く将人に、一応俺は弁解した。猫の名誉のためだ。


 こいつ、耳が聞こえないんだ。





 猫の様子がおかしくなったのは、寒さもやわらぎ始めた頃。

 感情の起伏が激しくなり、体調も良くないようだった。急に怒り出し、俺を引っかいたこともあった。かと思えば、また急に機嫌良く擦り寄って来もした。


 食事も、異様に食べたかと思えば吐き戻したり、全然食べなかったりもした。


 それが一週間も続き、さすがの俺も心配になった。相変わらず猫は外に出るのを怖がったが、今回ばかりは許さなかった。嫌がる彼女を胸に抱き、近くの病院まで連れて行く。車を持っていないと、こういう時に不便だ。


 病院に向かう途中で、猫は観念したのか暴れるのを止めた。そのかわり、ずっと小刻みに震えていた。

 俺は、猫の小さな頭を撫でてやるしかなかった。


 そうして、いくつかの検査をした結果、猫は病気ではないことが判明した。しかし、診断結果は衝撃的だった。


 猫は、妊娠していたのだ。


 俺は困り果てた。猫は、数ヶ月後には出産するという。

 猫がここに来てからは、ずっと家の中にいる。ここでの可能性は限りなくゼロだ。おそらく、俺のところに迷い込んで来る前に、種をもらっていたのだろう。

 しかし、問題はそこではない。


 俺は、出産のことなど何一つ知らないのだ。

 勉強しなければ。


 目の錯覚か、猫は少しすまなさそうに見えた。

 別に気にしなくていい。そう言って猫の頭をしばらく撫でた。すると、俺の言葉が聞こえているかのように、彼女は真っ直ぐに俺を見上げてきた。


 気になどしなくていいんだ。だから無事、元気な子を産んでくれ。





 出産の時は、病院へと助けを求めた。いくら外が怖いと言っても、俺一人ではどうしてもやれない。

 そのかわり、猫の目にいつも俺が映るよう、ずっと側にいた。出産のその時も、あんまり心配で側についていた。


 苦しそうだった。今にも死んでしまうのではないかと思ったほどだ。猫は、いつもの「にー」や「なー」ではなく、この夜の終わりかと思うような、凄まじい声を上げた。


 俺には何も出来なかった。ただ、猫の耳には届かないと知りつつ、「がんばれ」と何度も声をかけた。そうして、ずっと彼女の頭を撫でていた。

 見ていて胸が痛くなったが、産まれた時は感動した。猫の額にキスして、不覚にも涙ぐんでしまった。


 おめでとうございます、元気な女の子ですよ。誰かがそう言った。


 産まれたばかりの赤子を、一番に猫の胸に抱かせた。猫は、さっきまでの苦しみが嘘のように、穏やかな瞳をしていた。

 赤子は、母の胸で、なきながら乳を探していた。動物というのは、強いものだ。





 家族がまた一人増えた。最初は一人だったのが、随分賑やかになったものだ。

 猫が俺のところに迷い込んで来てから、約十ヶ月。猫が出産してから、約十日。


 明日、猫と子どもと三人で、婚姻届と出生届を出しに行こうと思う。



Fin.




関連作品 「OMATSURI」

https://kakuyomu.jp/works/1177354054892579699/episodes/1177354054892579770



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