5 ヒアリング




 もう、死ぬしかない――と。


 ……そう思っていた。


 頭が痛い。気持ち悪くて吐きそうだった。

 まるで初めてお酒を飲んだ日の夜のよう。あれよりも百倍ひどい。全身の血管がどくどくと激しく脈打って、その地鳴りのような響きが頭蓋の内を暴れまわり、胸を締め付け呼吸を苦しくさせた。


 震源地は、心臓――


 このまま、死んでしまうんじゃないかと思った。

 いや、

 だから恐かった。だから、死にたくないと――


 ずきずきと、何かが身体の外側から襲ってくる。

 突っつくように。引っかくように。はじめは些細な疼痛だった。まるで肌に合わない服を着たような、あるいは夏の日射しに焼かれるような。

 それが次第に激しく強くなっていって、肌を刺し、身を裂くような痛みへと変わっていく――


 たとえるなら、それは静電気だ。

 ばちりと指先を襲う痛み。それが全身に広がっていって、ばちばちと体中に突き刺さる。

 真冬の空気のように――まるで世界そのものが自分に牙を剥いているかのように。


 この世界のすべてが敵になったかのように。


 ドクドクと、何かが体の内側で暴れている。

 周囲の音が、人の声が、全てが頭に響いた。反響し、殴られたかのような鈍痛に変わった。頭蓋の中を叩かれている。胸骨を突き破るような衝撃が連続する。

 痛いというよりは。それは言葉にならない感覚。うまく表現できない――「苦しい」としか言えない――周囲から来る何かが、自分の中の何かと反応する苦しみ。


 そんな強烈な〝痛み〟が、〝苦しみ〟が――『自分』をおかしくさせた。


 痛くて、苦しくて、それらから逃れたくて――飛び降りたい、と。

 楽になりたいと、気持ちを逸らせた。


 死にたくないと願っていたはずなのに、気付けば感情が逆転していたのだ。

 そしてその事実に気付かないまま、「そう考えること」になんの違和感も覚えないままに――まるでそれこそが〝正しい〟と、本気で思っていた。


 ……こうして振り返ってみると、あの時の自分がいかにおかしかったか、普通じゃなかったかがよく分かる。

 たぶん〝それ〟は、〝その時〟の自分にしか分からない衝動だ。

 今はもう、自分がどうして屋上へ逃げたのか……どういう思考を経てそうなったのか、まったく理解できない。


 はっきりと思い出せるのは――ただひたすらに、恐かったこと。


 そして――「死にたいんですか」と。


 そのなんにも感じられない声に――ともすれば無感情に自分を〝向こう〟へ追いやりそうなその声に――少しだけ、心が軽くなったこと。




                   ■




「まったくもう、どうしてキミはこう無茶ばかりするのかな」


 ペチペチと、頬を叩く音が静かな診察室に響く。


「そうですね」


 紗冬さとう大付属病院、特別病棟2F――事件後、詩稲しいな次凪つなぐは診察を受けている。


 担当するのは次凪の〝主治医〟である不上ふかみ伊鶴いづる

 小柄な体躯に白衣をまとっているが、医者というよりは高校の科学部、大学の研究者といった風貌で、クセのある赤毛やクマのある目元等やや清潔感に欠けている。赤いフレームの眼鏡が印象的で、部屋全体を見ても異彩を放っているのだが、次凪の視線はレンズ越しの彼女の目をぼんやりと見つめていた。


「まったくもう……」


 繰り返し、再びペチペチと次凪の頬を叩くのだが、彼は特に反応を示さなかった。


「まあ、ね? 一応ね? 無茶といっても、轢かれたのはたまたま運の悪かった事故だとして……今回の件もキミが自発的に行動したというなら良しとしなくもないんだけどね? 結果的にはなんにもなかったというか、むしろコトが丸く収まったからいいんだけどね? けどねえ……」


 今度はぐにゅうっと次凪の頬を両手でつねりながら、


「キミの検査の結果も特に異状は見られなかったし、警備の人とか病院の機材とかもなんともなくて済んだのはいいんだ。ぱっと見、被害ゼロ。オッケーオッケー」


「良かったです」


「うん、そうなんだけどねえ……。――はあ……なんと言えばいいのやら。まあシンプルに言えばね? キミはもっと自分の身を大事にすべきってこと。今回はなんともなかったから良かったけど、場合によってはどうなってたか分からないんだから。キミも、周りの人たちも」


「はい」


「……あー……。じゃあ損得の話をしよう。ただえさえ怪我して入院してるんだからね、これ以上なんか重傷――重症になったら、入院費やら治療費やらかかる訳だ。そうするとどうなる? キミを預かってる詩稲さんちが困る」


「そうですね」


「…………」


 はあ――深々とため息をこぼす。


「気を付けます」


「うんうん、気を付けて。キミのその『気を付ける』が私の『気を付けて』とどれくらい乖離してるかはさておくとして――」


 次凪の頬をつねっていた手を自分の膝に置いて、伊鶴は次凪に向き直る。


 次凪の頬には爪の痕が残っているものの、彼は表情一つ変えていない。ごく自然体に、猫背がかった姿勢で回転椅子に腰かけている。ギプスを巻いた右腕も右脚も、特に気にした様子がない。部屋にやってきたときは杖を使っていて、今も横に置いてあるが、負傷に関してはそれくらいで、痛みや不便さについて何を言うでもない。


 相変わらず、代わり映えしない――


「話は変わるけどね――屋上で、何があった? まあキミから聞くよりは後でやってくる刑事さんに聞いた方が早いと思うけど……キミの〝所感〟はどうだった?」


「所感」


「まあ、どういう具合だったかとか……とりあえず、何があったか、キミが見たものを順序良く教えて」


「人が倒れてました」


 少し考えるような素振りを見せた後、これといって動じた様子もなく次凪は言った。


「警備員だね。こちらも、少なくとも表面上は問題なかったみたいだ。いくら日ごろから訓練を積んだプロフェッショナルといっても、いざ災害やなんやに見舞われたとき、訓練通りに行動できるとは限らない……。まさしくそんな体たらくだったらしい」


「そうですね」


「うん、そこは反応しなくていい。むっとされるからね。ただまあ、今回に限っては予想外というか、病院側の不手際もあったみたいだから。減給はされるだろうね。過去の病歴から患者がどう思うか推測できなかったか、そんな余裕がないくらい緊張していたか……医者に〝そこまで〟を要求するかどうかは議論の余地があるね」


 BSB現象が起こるトリガーとして有名な『余命宣告』……今回はそれがなかった。

 宣告したのは、過去に治ったと思われていた病気の再発。

 ただ、問題の患者にとってそれは余命宣告に等しいものだったのだろう。あるいはその病気で過去に余命を宣告されていて、それがきっかけになったのか。


 なんにせよ、担当した医師にとってはまったくの予想外だった。患者の気持ちを考えたり、BSB発症のリスクまで考慮に入れるのは医師の仕事に含まれるかどうか、今回の件はそうした議論における一つの実例になるだろう。


「とりあえず、担当したのが私でなくて良かった感はある。しかし明日は我が身かもね、今後は私も診ることになるし。――えっと、それで? 警備員が倒れていた。それを見てキミはどうした?」


「刑事さんに挨拶しました」


「うん、ぶっとんでんなぁ。まあキミらしい。……で?」


「発症者の女性のところに行きました。途中、銃を拾いました」


「おっと、聞き捨てならないな。実銃ではないんだろうけど……キミは何をする気だったのかな?」


「飛び降りる前に、必要なら撃とうと」


「…………。ん……これはまあ、ほんと、ほんっと、何事もなくて良かったとしか言えないな」


「そうですね」


「他人事のように……。まあ銃もスタンガンのたぐいだったはずだし――それで、キミは発症者の女性を無力化した、と?」


「いえ――」


 次凪は思い出す。


 あの時――女性が、叫んだ。

 その直後、あるいはほとんど同時に、次凪は見たのだ。


 病衣姿の女性の後ろに――屋上の縁の、フェンスのそのまた向こうに――



「幽霊を、見ました」



「……は?」



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キミを撃ち抜く、弾丸になりたい。 人生 @hitoiki

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