第2話
場がよどんだ体育館を後にし、何時ものルーティン通り、レッスン室に向かった。今日はいいピアノがとれなかった。レッスン室のピアノは当たり外れが激しい。いい状態のピアノは、早い者勝ちだ。今日は出遅れた。
高音のAの音をだす。ハンマーのフェルトがへたっているのか、甲高い金属音がする。音がキラキラしすぎて僕の好みではなかった。
今の課題曲「月光」はもうとっくに暗譜してある。楽譜をひろげず繰り返し練習した。しかし、ピアノの音色が気になって集中できない。
いや、それだけじゃない。見たはずもない絵の画像が、頭にこびりついてはなれない。
チラリと壁にかけられている時計を見た。レッスン室の小さな窓の外は、昼でもない夜でもない黄昏時。
もう彼女は帰っただろうか?
もし、本当にストーカー行為を受けているならまだ明るいうちに帰宅しないと。叶う事なら、僕が送ってあげたい。
ふと、鼻から自虐的な笑いがもれた。
僕はナイトじゃない。ナイトは三船さんだ。
もう練習する気などとっくに失せていた。芸大にはいるまで、何時間でも練習に集中できた。それがどうだ。ちょっとしたことで、ピアノへの情熱が逃げていく。なんのためにピアノを弾くのか……何を求めているのか……この先に何があるのか……そんなことを考え出すと指が凍り付く。
もう帰ろうと思い、ピアノに背を向けた。
すると、出入り口のドアにはめこまれている横長の物見窓に、誰かの横顔が見えた。僕は慌てて立ち上がった。期待を押し殺し、ドアをそっとあける。
「ごめんね、練習の邪魔して」
是光さんがそこに立っていた。大きな荷物と筒状のポスターケースを肩から下げ、ゆったりとした紺色のワンピースを着て。
僕は大胆にもレッスン室の中に入るよう促すと、彼女は躊躇う事なくするりと中に入ってきた。
心臓がプレストの速度で動きまわり、ろっ骨がきしむ。その痛みに耐えられず、すとんとピアノの前に座った。
座ってから気づく。彼女に椅子を進めるのが先だろ! と。
タイミングがおかしくてもとにかく椅子をすすめようと、ドアのすぐ側にある椅子を無言で指さした。この部屋には椅子が二脚しかない。
彼女は素直に座る。僕も自分の椅子を彼女の方に向け、座りなおした。狭いレッスン室なので、膝と膝がぶつかりそうだ。
「さっきありがとう。かばってくれて」
そう言って、艶やかな黒髪を白い指で耳にかけた。
「あの二人、前から私にからんでくるの。思わずうるさいってどなってやろうかと思ったら、奏水君が間に入ってくれて助かった。あそこでどなったら、もうあのクラブにいずらいもん」
こんなふうに、女性にお礼を言われた事なんてない。どう反応すればいいんだろう? 僕は眼鏡のつるをにぎり、うつむく。
「そんなつもりでいったんじゃないよ。僕もあの子たち前からウザイと思ってたし……」
僕なりに考えぬいたこのたどたどしい反応を、テレととったようだ。彼女はさっさと話題をかえてくれた。
「奏水くんのピアノ聞こえたんだけど、さすがだね。私も中学までピアノ習ってたの」
話題が僕のホームに変わったので、即座に反応し返答する事ができた。
「僕なんてたいした事ないよ。先生に怒られてばっかだし。それより中学の時はどんな曲弾いてた?」
そうだ彼女は僕の思い人ではなく、ピアノ好きな仲間と思えば自然に会話できる。
この無理やりな設定で、なんとか会話を盛り上げ少しでも長く彼女と話していたかった。今まで僕たちは二人きりになった事も、会話も、ろくにした事がない。
「コンクールではバッハのシンフォニアとか。発表会で、月光の三楽章を弾いたけど、全然だめ、一楽章はなんとかなったんだけど。さっきの奏水君の演奏すごいね」
話題がどんどん僕に近付いてくる。普段全然信じていない神さまに感謝した。
「楽譜ある。弾いてみてよ」
僕のむちゃぶりに、普段冷静沈着な彼女がおたおたする。その姿をかわいいと思ったが、落ち着け自分! といましめる。
最近ピアノに全然さわっていないから、無理だと言う彼女を説き伏せ、比較的簡単な一楽章を右手と左手のパートにわけ連弾する事になった。彼女も久しぶりにピアノを弾くのが懐かしいのか、楽しげな雰囲気が僕にも伝わりうれしくなった。
譜面台をあげ、楽譜をおく。椅子を並べ二人で鍵盤に向かう。彼女は右手のパートの第一主題だけを弾くようにした。有名なターンタターンの旋律部分だ。
この曲は右手だけで三連符と旋律を同時に弾き、なおかつ旋律を歌わなければならない。それはとても難しい。なので、僕が左手の和音と右手の三連符を弾く事にした。
深く息を吸い込み、吐く息と共にそっと冒頭部分の序奏を弾き始めた。イラつくキラキラした音もまったく気にならない。むしろ今の僕の気分にぴったりだと思えてくる。
もちろん一楽章も暗譜している。だけど、楽譜を注視した。そうしないと、ピアノなんか弾いてられない。
水がたゆたうような三連符の波に、彼女の旋律が重なる。数年ぶりに弾くという音はたどたどしい。僕の音と微妙にずれる。そのずれを縮めようと、彼女の奏でる音に寄り添う。
寄り添おうとすると、音は逃げていく。あきらめず、追いかける。その音を見失わないように。
中間部にさしかかった。旋律は消え、三連符が二オクターブの音域をのぼったり、おりたりする。そして、再び旋律が繰り返される。しかし、彼女はもうピアノから手を降ろしていた。
「気持ちいい、音が重なるって。でも、もう私限界。奏水君の演奏聞かせて」
そういって、椅子を元の位置にもどし座った。
僕の演奏をもっと聞きたいって事だよな? これはチャンスなんじゃないか? どうまちがったって、これから彼女に告るという芸当は僕にはできない。じゃあ演奏にその思いをたくしてしまえば?
この月光ソナタは、ベートーベンの思い人伯爵令嬢ジュリエッタに献呈された曲だ。僕もこの曲を彼女に捧げよう!
そんな事を考えていたら、突然肉厚のかしわ手の音が頭の中で響いた。
「世界の中心で俺様ってさけんでんの」
ふくよかな女教師のセリフまでリピートされた。
僕の葛藤をよそに、彼女は瞳を輝かせ、待っている。
心の中を整理しきれずにいる僕は、とり合えず、ピアノに向かった。
先ほどのように、楽譜を注視し音に集中する事だけを考え弾き始めた。
ピアノから流れる音は僕が弾いているのに、どこかよそよそしい。もっと気持ちをこめて弾かなければと思うが、楽譜がそれをゆるさない。
僕がp(ピアノ)で弾きたい音を、ベートーベンはf(フォルテ)とかいている。僕が和音に溶け込むように弾きたい音は、スフォルツァンドで強調されている。
今まで弾いていた一楽章とは全く別物だ。でも、こういう弾き方もあるのか……
僕の胸に、何物にもしばられない無限の広がりを持つ音の波がおしよせ、満たしていく。その感動にひきずられ、指がうわずりそうになる。でも、感情をうちに閉じ込め、必死にうつくしい音をおいもとめる。音に厚みがましていく。
僕が月光を弾くのではなく、ベートーベンが僕にこの曲を奏でさせている。僕はただピアノの付属品にすぎない。そう思うと、音がとてもクリアにぼくの耳に届く。
消え入るようなピアニッシモの最後の和音を弾き、踏みこんでいたペダルと共に鍵盤から指をあげた。
「ずるいよ、そんなふうに弾くなんて」
脱力した背中に、後ろからそのセリフがつきささる。僕はその真意をしるべく振り返った。
小さな不協和音が鳴る。僕が後ろ手に鍵盤に手をついたから。目の前の光景から逃げ出したかった。
彼女は目を閉じ泣いていた。しかし、見られている事に気付き、すばやく涙をぬぐい、ゆっくりとまばたきをして言った。
「私のまわりには、なんでこんなに才能ある人がいるんだろ。嫌になる……私本当はピアニストになりたかったの。でも逃げた。自分に限界感じて」
何時もの彼女の声より一オクターブ低い声が耳をゆさぶる。レッスン室の空調が切れたのか、よどんだ空気が不快になりつばをのみこんだ。
「奏水くん、私の事好きでしょ? なんでそういうふうに弾かないの? 凡人みたいに弾いてよ。そんな何もかも見透かしたように弾かないで!」
僕の目の前に座っている人はだれだろう?
膝に乗せた手をブルブルとふるわせ、唇をかみしめている人は……
混乱した頭に、コチコチと機械的な時計の音が、刻まれていく。
「アマデウスって映画見た事ある?」
すこし落ち着きを取り戻した声で彼女はいった。僕は、緊張していた筋肉がゆるみ、こくんとうなずいた。
アマデウス……天才モーツァルトに嫉妬するサリエリの話。サリエリは凡人だが、モーツアルトの圧倒的な才能を理解し、理解できてしまう自分に絶望する。
「私あれをみて、サリエリはモーツァルトを愛していたんだって思ったの。彼のすべてがほしくなって殺しちゃう程」
彼女はたしかに僕を見ているのに、その目に僕はうつっていない。そして唐突にポスターケースをひきよせ、中から丸められた紙を取り出し、差し出した。
大きさがA3程のその紙は油っぽい臭いがし、ふちがギザギザにやぶられていた。ゆっくりゆっくりと指先に力を入れ、丸まった絵をひらいてく。
そこには、たまご色の服を着た女が座っていた。ただ座っていた。内面からほとばしる激情を押し殺し、全力で座っていた。
板氷を飲みくだしたように、体の中心がピシピシと凍りついていく。絵の女と同じ顔をまっすぐに見据える。
「私が、絵を切り取った犯人なの」
目の前の女は、あっけらかんと言い放った。乾ききった口から、なぜ? と一言絞り出そうとしたが、音は出ず唇だけが震える。
「ほんと、天才ってずるい。私が隠してる感情ごと描いちゃうんだもん。モデルなんてやっぱり断ればよかった。そうやって絵に閉じ込められる前に……」
そう言って、彼女は椅子の背もたれに深く沈みこんだ。僕の口はようやく動き出す。
「つらいなら、三船さんからはなれればいい」
「そんな単純じゃない。ピアノの音色といっしょで」
彼女の唇に笑みが浮かび、僕を上目遣いに見上げる。その視線をまともに受ける事ができず、目をそらした。
「さっきの一楽章鳥肌がたった。奏水君は天才だよ。私と違って」
彼女の冴えた声が頭上からふってくる。顔をあげると、彼女はもう立っていて、ドアの向こうに音もなくすっと消えていった。室内が急に暗くなったような気がした。
*
レッスン室の戸締りをして外にでると、もうあたりはすっかり暗くなっていた。夏の夜のだらしない空気とは違い、きりっとした空気がほてった体を冷ましてくれる。
どこからともなく、虫の声が聞こえてくる。それとともに、甘い空気がただよってきた。一本の金木犀が夜を忘れたように咲いていた。
香りに酔ったのか、ふらふらと歩きだす。不意に辺りが少し明るくなり、足元に影がおちた。
見上げると、雲間から丸い月がぽっかり浮かんでいた。すんだ秋の空気のおかげか、月の模様がくっきりと見える。そういえば月の模様は、日本ではもちをつくうさぎだけど、女性の横顔に見える国があったな……
月は、同じ面を向けて地球の周りを回っている。地球から月の裏側を見る事は永久に叶わない。
でも、月自身の揺れによってほんの少しだけ、見えない部分を見せる事がある。
横顔の月を、僕はいつまでも見ていた。
*
一週間後、レッスンの時間。
僕はピアノを弾き終え、ずりおちた眼鏡の隙間から、隣を窺った。
「奏水くんどうしちゃったの? 先週と全然ちがうじゃない」
先週の仏頂面とは違い、はじけるような笑顔で先生はいった。おまけに、ふくよかな体を前後にゆらすので、その振動に僕は酔いそうになった。
「男の子って突然スイッチがはいるのね~もうどこに隠しもってたのよ!」
先生は、僕の髪の毛をわしゃわしゃとかき回す……やめてくれ。
「自分の音がとってもよく聞こえてる。曲の解釈も深くなってるし。これなら次のコンクールに間に合うかもしれないわ」
二、三の注意点を受けその日のレッスンは終わった。すると、先生がチューブを取り出し、布にクリームを出し蓋裏面のロゴをさっと一ふきした。
布でぬぐわれたロゴは、魔法にでもかかったように輝きをとりもどしていた。
「先生それ、なんですか?」
僕は目を見開き、さっさとチューブを直し帰ろうとする先生をひきとめた。
「これ? 艶出しクリームだけど、楽器店にも売ってるわよ。先週奏水くんロゴをしげしげ見てたから、変色が気になるのかなと思って」
なんだそれ……そんなに簡単な事だったのか。ずり落ちた眼鏡をもとにもどす。
僕はゆらりと立ち上がり、先生に向かって深々とお辞儀をし、レッスン室のドアをあけた。湿り気のない十月のさわやかな空気を胸に吸い込み、一歩足を踏み出した。
了
横顔の月 澄田こころ(伊勢村朱音) @tyumei
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