本と少女

森 侘介

本と少女

目を閉じると

墓標が見える

てらてら光る

黒曜石が

芝生のうえに並んでいる

その石のおもてに

蒼白の空を映している

まるで空の墓標のようだ

どこまでも

どこまでも続く墓の列


わたしはそこに

さみしく立ち

過ぎし日の

わたしの過去の亡霊たちが

ひとつひとつの黒曜石から

浮かんではゆれ

けむりのように消えていき

また浮かんでき

それをだらだら

繰り返しているのを見た

それらはどうやら

わたしの過去の映像なのだが

触れることはかなわないし

輪郭は翳み色は褪せ

消えいりそうで消えいらず

蜃気楼のように頼りなく

風に揺られているばかりで

わたしをひどく不安にさせ

またひどく苛立たせる


思い出という

亡霊たちを見るうちに

わたしはすっかり錯乱する

はたしてそれらの思い出は

ほんとうに

わたしのものなのか

(そんな証はどこにもないのだ)

この無数に並んだ黒曜石から

浮遊している亡霊どもが

ほんとうにわたしの過去なのか

(確かめるすべはどこにもないのだ)

ただ「そうあった」という曖昧な

願いにも似た感覚が

わたしの手に残り香をなす

だからわたしはしかたなく

呆けた獣のような眼で

あったかもしれないし

なかったかもしれない

それらの思い出を眺めている

どこまでも続く墓の列


その苛立たしい光景を見るうちに

わたしは耐えがたい眩暈に屈し

亡霊どもから顔をそむける

そこでわたしは

掌中の

一冊の本に気がついた

ひどく古びた誰かの詩集

しみだらけで手垢に塗れ

美しかったであろう装丁は

無残なほどにくたびれて

開いてみればインクはにじみ

紙は黴のようなにおい

・・・

本をもつ手がはじめに気づき

次に耳に

その時計のような音を聞いた

それはまるで本の心臓

鼓動し脈搏しているかのよう

音をおって見返しを開く

少女の画がはられてある

可憐な少女は

頬杖をつき思案顔

一冊の本に眼をおとしている

わたしはその美しい顔を

確かにいつか見たことがある

けれど記憶のすみからすみを

たずねさがしまわってみても

少女の面影は見つからない

いつかどこかの記憶にはない

記憶から切りとられてここにある

古い煤けた本のなかに

老いることのない少女が棲む

わたしはその本を撫でている

しきりに無心に撫でている

少女の頬を撫でている

どこまでも続く墓の列


衰え疲れ萎えてしまった

その本の表紙のように

いや、あるいはそれ以上に

わたしは老いた

時がわたしを腐らせてゆく

時がわたしを盗んでゆく

でも

本の鼓動は古くならない

インクがにじみ紙が焼けても

そこに刻みこまれた詩想は

いまだ瑞々しく脈をうち

少女の美しいしろい頬は

いまも凛々しくひかっている

あらがえぬ時の腐蝕のなかで

若いままの少女と詩を

本のなかに置き去りにし

わたしだけが老いていく


ひろい墓場に風が巻き

老いたわたしを轟々ゆさぶる

記憶の亡霊どもはそのたびに

悲鳴もあげずに消えかかる

ときにぷつりと消えもするが

知らぬ顔でまたよみがえる

その容貌が

以前と変わっていたとしても

わたしには気づくすべもない

風はいよいよ荒々しく

亡霊どもを

まぜてこねて吹き散らす

どこまでも続く墓の列に

悲鳴のように風が吹く


わたしの少女は

風のあたらぬ本の中

いまこのときも夢をみている

(本はみな夢をみるのだ)

若さごと感傷ごと

切りとった

瞬間を

永遠に

変えるために

少女はそこで

ずっと夢みる

わたしがとうに失った

とおいとおいあの一瞬を

わたしの青い心臓と

それを潰したあの感傷を

少女がいまも

抱きしめている


記憶という亡霊は

瞼のうらの幻想でしかなく

わたしはいまここでしか

わたしでない

過去などない

記憶は嘘を吐きすぎる

だからいまこの一瞬だって

わたしは忘れる

君にむけて

ここに語り

そしてもう忘れてゆく

そのためにピリオドを撃つ

わたしはゆく

本のみる夢のなかへ

わたし自身を綴じるために


(若さをうしない

感傷が死んで腐ったそのあとも

あの瞬間の儚い美だけは

決して死ぬことのないようにと

わたしが君を

この本の中に綴じこめたのだ

一枚の可憐な少女の画に

あの瞬間の

君を封じ込めたかったのだ)

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本と少女 森 侘介 @wabisukemori

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