蜘蛛姫

 

 蜘蛛姫

 

 雨は止まなかった。

 いや、それどころか激しさは増すばかりだった。

 私はとある山中を車で走っていた。田舎の両親の元へ帰省しようと荷物や土産を積んで買ったばかりの新車を走らせた。昼は快晴だった空が、山道へ入る頃にはすっかりと分厚い雲に覆われ、程なくしてぽつりぽつりと雨が降り出した。そして雨は少しずつ激しくなっていった。

 

 異変は突如起こった。

 山道に入って三〇分程経った頃。ナビが全く動かなくなった。携帯電話も圏外で連絡できない。引き返そうにも道幅が狭くてかなわない。仕方がなく車を走らせる。山道に入ったのは夕方前のことだった。

 

 暗くなるにつれて視界はどんどん悪くなった。始めのうちはアスファルトの敷かれたちゃんとした道だったのが、進むにつれて砂利道になり、ガードレールや標識も朽ち果て、道幅は車が通るのがやっとな位狭くなった。

 

 幸い燃料はまだ沢山残っていた。

 車のヘッドライトが照らす道は、雨のせいかただただ陰鬱で、先が見えない。

 最初は走っていればいつか大通りに出るだろうと楽観視していたが、次第に不安になってきた。このままで本当に大丈夫だろうか? 気分も少しずつ塞ぎ込んできた。ついには苛々してきて、何度も溜息を吐いた。忌々しい雨だと悪態を吐くが、雨は一向に止まない。

 

 時刻が一九時を過ぎた頃、開けた場所に出た。

 これで引き返すことができる。そう思ってハンドルを切ろうとした時、木々の間から灯りが見えた。

 私は車を停めて、灯りを凝視した。どうやらそれは窓からの灯りらしかった。さらに近くから見ると大きな洋館の一室から灯りが点いていることがわかった。

 大きな洋館はまるで映画に出てきそうなルネサンス調の煉瓦造りで、暗くてはっきりとは見えないが、赤い屋根のようだった。

 

 もしかすると誰か住んでいるのかもしれない。こんな山奥で誰かに会えるとは思ってもみなかった私は、とりあえず今自分がどの辺にいるのか教えてもらおうと、話を訊いてみることにした。車を邪魔にならないように道の端に停め、洋館へ繋がる小道を駆け上がった。

 

 少しばかり濡れてしまったが、何とか玄関までたどり着けた。玄関の扉もまた荘重なデザインで、すぐ横の植木鉢には雨露を滴らせている色とりどりの花が植えてあった。インターホンらしきものがなかったので、扉を数回ノックした。

 程なくして中から一人の女性が姿を見せた。

 まだ若い綺麗で上品な感じの女性だった。透き通るような白い肌と長く垂れた黒い髪。ワンピースを着たその人は、成る程この洋館によく似合った”お嬢様”という印象を私に与えた。

 「すみません。こんな時間に。道に迷ってしまって……。ここがどこか教えて頂けないでしょうか?」

 女性は無表情で、私の言葉を聞いていた。私が言い終わると、

 「この先は土砂崩れでこれ以上進めませんよ。こんな山奥まで大変だったでしょう。中へどうぞ」

 と言って、私を招き入れた。

 言われるままに中に入る。

 「よくここまで来ましたね。少し休んでいって下さい。私はこの館に住んでおります薫と申します」

 洋館の中は玄関ホールだけでもかなり広く、女性は私を応接間のようなところへ通してくれた。促されるままソファーに腰掛けた。

 「お茶を入れて参ります」

 薫さんはそう言って、部屋を出て行った。

 部屋には私一人。携帯はやはり圏外のままだ。洋館の中でも通じないことに不審に感じつつ、どうしようもないので、薫さんが戻ってくるのを待った。

 五分もしないうちに薫さんはティーセットを持って入ってきた。目の前のテーブルにカップを置いて、紅茶を注ぐ。その一連の動作の上品さは、まるで映画で見る西洋貴族のようだった。

 「お砂糖とミルクはご自由に」

 「ありがとうございます」

 せっかく入れてもらったのに、飲まないのは失礼だと思い、とりあえず一口飲んでみた。美味しい。口の中で紅茶特有の苦みが広がり、喉を過ぎていった。熱すぎる訳でもなく、かと言ってぬるい訳でもない。本当に美味しい紅茶だった。

 「酷い雨ですね」

 薫さんは静かに言った。

 私はカップを置いた。

 「ええ。昼は晴れていたのに。ついてないです」

 「雨が止むまでどうぞゆっくりしていって下さいね」

 「ありがとうございます」

 「どちらからお越しに?」

 「N県からです」

 「まあ、随分遠い所から来たんですね」

 「ええ。これから実家に帰ろうと思いまして……。ナビも動かなくなるし、携帯も繋がらないんです」

 「それは災難でしたね。山奥ですから電話が繋がりにくいんですよ」

 「薫さんはここに一人で住んでいるんですか?」

 薫さんは一口紅茶を飲むと、少し間を空けてから答えた。

 「ええ。この屋敷は亡くなった父のものなんです。受け継いだのはいいんですが、一人で住むには広すぎて……。親類は誰もいませんので……」

 「大変ですね。やっぱり不便でしょ? 山奥で暮らすのは」

 薫さんは何も言わず、窓の外に目を向けた。

 何かまずいことでも言ったのだろうか?

 「雨、止みませんね」

 窓から雨粒の当たる音がした。

 「土砂崩れ進めないなら、明るくなってからの方が良いと思いますよ」

 「そうですね」

 私はそう返事をしたものの、できるなら今すぐにでも引き返したいという思いに駆られていた。

 この洋館を見つけて、薫さんと出会った訳だが、余りにも不審なことが多すぎる。山奥にある巨大な洋館、そこに一人で住む女性。まるで童話に出てきそうな世界だ。だが自分にはどこかこの女性に対して、妙な違和感というか、不気味なものを感じ取った。本能が早くここから出るように告げていた。

 何か口実が欲しかったが、それも見つけられず、どうしたものかと考えていると、

 「今日はお泊まりになられてはいかがです?」

 「いえ、そんな……ご迷惑でしょ?」

 「部屋は沢山空いてますから大丈夫です」

 「……でも」

 「大丈夫ですから」

 結局押し切られる形となり、私は洋館に泊めてもらうことになった。

 正直早くこの洋館から逃げたいと思っていたので、私は困惑した。

 

 薫さんは二階にある洋室を貸してくれた。手入れの行き届いた部屋で、ベッドも清潔。机や家具類には全く埃がなかった。まるで前もって準備されていたような……。

 「何かあったら呼んで下さいね」

 薫さんはそれだけ言うと部屋を出て行った。

 部屋を照らす暖色の電灯をぼんやりと眺め、ベッドの上で大の字になる。時刻は二十一時を回っていた。携帯を見るとやはり圏外で、やることもないからそのまま目を瞑った。

 

 気が付くと深夜一時を五分ほど過ぎていた。窓を見ると相変わらず雨は降り続いていた。だが、この洋館に入った頃よりは弱まっていた。

 何だか落ち着かない気がして、身体を起こした。立ち上がって、ドアの方までよろよろ歩く。ノブを回して少しばかり扉を開けて、外を覗き込んだ。もうすっかり廊下の灯りは消え、しんと静まり返っていた。薫さんは自分の部屋にでもいるのだろうか。

 それにしてもこの広い洋館を一人で切り盛りしていることがやはり不審に思われた。他に人の気配はないから本当に一人なのだろう。不思議で仕方がなかった。

 ドアを閉めようとした時、左手に何か違和感を感じて、見てみると一匹の米粒ほどの大きさの蜘蛛が壁を伝って私の手の甲を這っていた。振り払うと蜘蛛は床に落ちて、そのままどこかへと逃げていった。

 

 もう一度寝ようかと思い、ベッドの上に横になるが、さっきのようにすぐに眠れない。

 何か他に時間を潰せるものはないかと思い、部屋の中を物色した。すると、本棚の中に一冊の冊子のようなものを見つけた。

 焦茶色の表紙を見る限り、かなり年季が入っているようだ。ぱらぱらとページをめくる。変色した白紙のページが続き、ただの自由帳かと思って、閉じようとした時。一匹の蜘蛛のイラストが描かれたページを見つけた。とてもリアルで、本物当然。先ほど手を這っていた蜘蛛と同じ色。さらにもう一ページめくると蜘蛛が二匹になり、さらにページをめくると蜘蛛が一匹ずつ増えていった。最後のページには大量の蜘蛛で一面が埋め尽くされていた。もう耐えられなくてなって、冊子を元あった所に戻した。

 私は深い溜息を吐くと、ベッドに座って少し考え込んだ。

 やはりこの洋館はただの屋敷ではない。さっきの異様な冊子にしてもそうだ。ここは危険だ。今からでも遅くはない。危険に晒される前にここから逃げよう。あの女はきっと何かを知っている、いや、彼女こそが黒幕という悪の根源なのではないか? 私はだんだんそんな気がしてきて、この洋館から抜け出すことにした。来た道を引き返せば、大通りに出る。今度は山道など使わずに実家へ帰ろう。

 

 思い立った私は、部屋を出た。真っ暗で静まり返った廊下は、不気味な雰囲気を醸していた。幼子が闇路を恐れるような、そんな恐怖に襲われたが、ここに長居するよりはいいと思い、闇の中へ歩みを進めた。彼女に気づかれないように、音を立てず、ゆっくりと歩く。階段を下りて、一階に着くと、真っ直ぐ玄関に向かった。あと一歩で玄関の扉を開けようとしたその時。

 身体が全く動かなくなった。まるで何かに縛られているかのように、強い力で押さえつけられた。

 「逃がしませんよ」

 耳元で、あの女の声がした。

 どうしてそんな近くにいるのに、気配に気づけなかったのか? 真っ暗な中で、恐怖が膨れ上がる。

 「酷いじゃないですか。朝まで待たないと。あなたは眠っている間に死ねたのに」

 「一体どういうことです」

 絞り出すように声を出すと、彼女は笑い出した。

 「フフフ、だってあなたは獲物ですから。この巣に引っかかった。人間がかかったのは本当に久しぶり!」

 後ろから抱きつかれた。だが、それは人間の手ではなかった。蜘蛛特有の長く尖った足。

 化け物だ。

 人間ほどの大きさの蜘蛛なんて。

 

 獲物が逃げないように強く締め付ける。

 吐息が首筋に当たる。

 背筋な嫌な感じが走る。まるで無数の虫が背中を蠢いているような嫌な感じだ。

 「化け物め!」

 せめてもの抵抗と恨めしく声を出した。

 「そうよ。私は化け物。生まれた時から化け物よ。私はずっとこの屋敷で育てられてきた。母は化け物の私を産んですぐに死んだ。なぜ人間の両親から私が生まれたのかはわからない。父は蜘蛛を私をずっと愛して育ててくれた。あなたのような道に迷った人を殺しては、その肉を食べさせてくれた。でも父も死んでしまったの。最後に食べたのは父の肉。父の肉で最後にしようと思った。私は今日自殺するつもりだった。そこにあなたが現れたの。格好の餌が!」

 耳元で歯と歯が擦れ合う乾いた音がした。

 

 嫌だ。死にたくない。

 

 私は渾身の力を振り絞って、最後の抵抗を試みた。自分でも信じられないほどの力が出た。この抵抗をしくじれば命はない。無我夢中だった。私はまとわりつく蜘蛛の腕を振り払うと、玄関を飛び出した。後ろを振り返る余裕などなかった。

 私は車に乗り込むと、入らないように鍵を閉め、エンジンをかけようとした。

 化け物はその間にもドアを開けろと言わんばかりに、何度も何度も車体に体当たりしてきた。

 その衝撃で、車のキーを落としそうになったが、何とかエンジンをかけた。アクセルを踏み込んで前進する。

 ボンネットに巨大な蜘蛛が飛びついた。もう人間の面影などなく、完全なる蜘蛛の姿。

 ボンネットに張り付いたこの化け物を振り払おうとするが、粘り強くなかなか落ちない。

 「くそ!」

 思わずそう叫んだ。

 複数ある目玉が一斉に私を睨みつけた。

 私は言葉にならぬ叫びを上げ、思い切りアクセルを踏み込んだ。

 突然加速したことで、化け物はついにボンネットから滑り落ちた。

 その直後、バリバリという何かを砕くような音が響き、化け物を轢いたことを直覚した。

 車を一旦停めて、バックミラーを覗き込む。長い足はひしゃげ、潰れた身体はぴくりとも動かなかった。

 

 私は逃げるようにその場から走り去った。追っては来ないだろうかという不安に何度も襲われ、その度にバックミラーを見るが、後ろには深い闇が続いているだけで、何もなかった。

 

 その後、私は大通りに出て、電話が繋がるようになったところで警察や家族に事の経緯を話したが、誰も信じてくれなかった。

 

 それでも私は納得いかず、別の日に今度は友人数人を引き連れて、同じ場所を訪れた。

 しかし、そこにはボロボロに朽ち果てた洋館しかなく、それもかなり前に廃屋となったようで、とてもじゃないが、人が最近まで住んでいたような跡はなかった。

 

 私はあの日以来、蜘蛛が怖くて仕方がない。あの姿を見るだけで震えが止まらなくなってしまうのである。

 今もどこかで、あの不気味な目で私を見ているのではないかと怖くてたまらない。

 

 終

 

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短編集「彼岸」 武市真広 @MiyazawaMahiro

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