裏切り者

 

 裏切り者

 

 裏切り者。一度だけそう呼ばれたことがある。あれは高校二年生の時だ。併願先の公立高校を落ちた私は、県内でもそれなりに名の通った私立の高校に入った。この高校は文武両道を掲げる進学校で、入学早々一年生の大半が部活に入った。私も陸上部に入部したのだが、進学校という肩書きをぶら下げているだけのことはあって、授業に付いていくのもやっとで、宿題も多い。徐々に部活との両立が難しくなってきた。定期試験の結果が芳しくなかったので、両親から部活を辞めて塾に行くことを何度も進められた。私自身これ以上部活を続けていく自信がなく、両親の強い後押しもあって、部活を辞める決意を固めた。

 部活の仲間に相談もせずに、顧問である教師と話をつけて、高校二年の四月に部を辞めた。

 県大会に共に行こうと約束していた仲間たちにどう打ち明ければいいのかわからず、切り出せないまま数日が過ぎたある日。部活仲間だった前田が私の教室にやってきた。前田とは違うクラスだったが、入部当初からずっと親しい仲だった。部の誰よりも仲がよかった親友だ。私はせめて前田だけにでも打ち明けたいと思っていた。しかし親友だから尚更話せなかった。それが心苦しくて、彼の顔を見るのも辛く感じた。私は臆病者だった。

 朝早い教室には私と前田以外誰もいない。私がいつもこれぐらいの早さで登校することを彼は知っていた。

 前田の表情は怒っているとも呆れているとも言えないただ冷めた顔をしていた。お前など友達ではないという明らかに私への失望が滲み出ていた。

「ごめん、俺……」

「裏切り者」

 謝ろうとした私の言葉を遮って放った前田のこの言葉は、私の心に真っ直ぐに突き刺さった。私は次の言葉をなくして、ただ呆然とした。

 前田は一言だけそう言い放つと、私の前から去っていった。

 私は釈明できず、ただ離れていく彼の背中を眺めることしかできなかった。

 以後校内で互いを見かけても、口を利いたりすることはなかった。俗に言われる青春は呆気なく終わった。

 確かに前田の言うとおり私は裏切り者だ。互いに県大会に行くという約束を破り、一人部を辞めてしまったのだから。

 高校三年間前田を忘れたことは一度もなかった。ついに彼と和解することなく、私は高校を卒業した。心残りがあるかと問われれば、私は彼と分かり合えないまま卒業してしまったことだと答えるだろう。

 

 卒業後、地方の国立大学に入った俺は昔のことなど最早忘れかけて大学生活を楽しんでいた。

 高校でできなかった青春を大学で謳歌していた。

 恋人もできた。晶子という。私と同じ法学部だ。色白の肌と澄んだ瞳で私は一瞬にして恋に落ちた。一目惚れだった。晶子はあまりに綺麗だった。それは容姿以上に内面の心のことである。彼女の心を色で喩えるなら純白だった。汚れなど見当たらない白。そんな彼女の心に、闇などなかった。

 実に素直で、決して嘘を吐いたり、人を騙したりするような人間ではなく、ましてや私のような裏切り者であるはずもない。

 私は彼女にどうして法学部に入ったのか訊ねた。

 晶子は恥ずかしそうに赤面して「人を助けたいと思ったから。親身になって、寄り添っていけるような人になりたくて」と答えた。

 彼女の純白の心は、私のような裏切り者とは正反対の輝きを持っていた。

 私は彼女に自分の心の闇をさらけ出す勇気など持てなかった。自分の闇のせいで、彼女が汚れることをただただ恐れた。どうか彼女だけでも純真なままでいてほしかった。

 彼女と親しくなるうちに恋愛関係に発展した。いや、恋愛という言葉はあるいは適切ではないかもしれない。恋愛などという世俗的な言葉で彼女との関係を結びつけたくなかったのだ。俗世間的な恋愛というものは、私の感性から言うと実に汚らわしく邪なものだった。

 私と彼女の関係を傍から見れば、プラトニックだと言う者もいるだろう。だが、私と彼女の関係はそれ以上に美しいものだった。肉欲を私は一切持ち込まなかった。ただ彼女を眺めていたかった。彼女が私との関係をどう感じていたのかはわからなかったが、少なくとも他の誰よりも親密であったことだけは確かだ。現に私と彼女は多くの時間を共に過ごした。互いに特別な存在だった。私は彼女を決して性的な目で見ることはなかった。ただただ深い愛情を注いだ。束縛などしなかった。互いに自由な時間はあった。

 

 私は幸せだった。自分の中の闇も彼女とつき合ううちに光によって少しずつ消えていった。

 

 大学三年目の夏。彼女との関係が始まって三年近く経った。

 その頃には私の心の中にあった闇は完全にその姿を消していた。裏切り者の誹りも忘れていた。

 その日は特に暑い日だった。

 いつもより早めに講義を終えることができたので、待ち合わせの時間より早めに着くようにと彼女の家に向かった。彼女の家は電車で二〇分行ったところにの郊外にある。閑静な住宅地に彼女とその家族が暮らしていた。私は彼女の家族とすっかり懇ろになっていた。今では私が家に行くと、奥さんは嬉しそうに迎えてくれる。客人以上に私を息子のように接してくれていた。親元を離れていた私にはすっかり本当に親のようになっていた。

 彼女の家のチャイムを鳴らすと、程なくして品の良さそうな奥さんの声が返ってきた。

 いつものように晶子に会いに来ましたと話すと、母親は快く家に上げてくれた。そして玄関で靴を脱ぐ時、見知らぬ男物の靴が並べられていることに気づいた。ご主人の靴ではない。私は直感的にそう思った。

「もしかして、今誰か来てます?」

「ええ」

「誰です?」

 私はいつもより強い口調で問うた。奥さんは面食らった様子で、

「大学の友達だそうで……」

 と弱々しく答えた。

 胸騒ぎがした。平常心がかき乱される気がした。未だかつて晶子から他の男のことなど聞いたこともないし、見たこともない。いや、私が知らなかっただけで晶子が密かに関係を持っていたのかも。しかし私にはそれが受け入れられなかった。あの晶子がそんなことをするなんて私には信じられなかった。信じたくなかった。胸騒ぎは形ある不安へと変質し、地に足がついている感覚すら喪失しそうになった。

 純白な彼女が、実は裏切っている。

 この疑念を晴らすためにも、私は今すぐに彼女に会わなければならない。私は彼女の部屋へと駆けた。

 彼女の部屋は二階に上がってすぐの所にある。部屋の前に着いた私は、一度落ち着こうとしたが、高まる鼓動を抑えることはできない。部屋の中から声などは一切聞こえない。私は普段なら欠かさないノックすらせずに、扉を勢いよく開けた。

 

 二人の男女が、私の目の前で接吻している。

 目に見えない刃物に突き刺されたような衝撃が身体を貫いた。そして次の瞬間には眩暈がして、激しい動悸に襲われた。頭の中が真っ白になって、視界がぐらぐらと揺らいだ。額から汗が滴り、体中が震えていた。

 そして、胸の中で何度も「裏切り者」という言葉を繰り返していた。

 晶子は私に決定的な場面を見られて気まずさから顔を背け、相手の男も逃げるようにして階段を駆け下りていった。

 私はただそれを呆然と眺めていた。

 本来なら、私はあの男を取り押さえて殴りつけてやるべきだっただろう。しかしその時の私にはそんなことはまるで頭にはなかった。

 

 消えたはずの闇が瞬く間に心の中に広がっていった。かつてないほど暗い闇が、深くまで広がっていく。身を引き裂く程の強烈な負の感情が心を圧迫した。肥大化した闇に呑まれそうになった。唯一残った理性が、私に越えてはならない境界線を越えさせなかった。

 

 晶子は私が思っていたような純白な少女などではなかった。上っ面だけの純真を装い、陰では私を馬鹿にしていたに違いない。私は汚れきっていた女を純白と見間違えた。晶子の心に闇を見なかった時、この娘は純真だと確信した。しかしそれは大きな間違いだった。私が魅せられたあの光は何だったのか? 邪な光を美しい輝きと間違えた。それは私に見る目がなかったからだ。

 この女も所詮は肉欲的”恋愛”に捕らわれた人間だったのだ。目先の快楽に溺れて、私を裏切った。後先考えない軽はずみな行動は、刃物と同じだ。

 私はただ静かに彼女に愛情を注いでいた。しかし、その間に大切なものは奪われてしまった。邪な恋。激しい恋など所詮は肉欲の上に成り立っているに過ぎない。いかに恋愛至上主義者が美化したところでそれは短絡的な肉への欲求だ。戦後のあるデカダン文学の作家はそれが人間的な生き方だと言った。人間なら誰しも邪な欲求を持っていて、それを実現することが人間的な生き方であるとその作家は説く。昔読んだ彼の本の何節かが、短時間の間に頭を過ぎった。そして人間とはかくも醜き忌むべきものなのだと身を持って知った瞬間、生きることが実に下らないことに思えた。人間も本能的で理性という概念を持ち合わせないであろう動物と何ら変わらない。

 

 彼女が汚れた獣に見えた。白い息を吐きながら僅かに喘ぎ、鋭い目つきで獲物を睨む獣に。私は醒めた気分になって、覚束ない足取りで部屋を後にして階段を下りた。彼女の母親に軽く挨拶すると、呼び止める声も聞かず、駅へ走り出した。獣から逃げるために。

 

 晶子は反論などしなかった。

 逃げたあの男との関係など聞きたくもなかった。あの光景だけで十分だ。

 何度も携帯電話が鳴った。全て無視した。

 そして過去に自分が受けた罵りを思い出していた。

 もしかするとあの時前田も今の私と同じ気持ちだったのかもしれない。そう思うと、とても心苦しくなった。

 裏切られた気持ちを言葉で表すことができない。

 ただ静かに怒りと深い悲しみが混ざったようなどうしようもなく、気力を奪い、絶望にも似たような暗澹たる気持ちになった。

 

 裏切り者。

 

 誰も彼もが裏切り者で、信用できない。人間は裏切らずにはいられない。自己の欲求を満たすことが人間の本能であり、欲求を全て満たすために不誠実を伴う。故に人間は平気で他人を裏切ることができる。人は皆本能的に自己の欲求の全てを満たそうとする。

 

 私が注いできた愛情はただ上手く利用されたに過ぎない。無駄となった。もう誰も愛せない。

 

 欲求を全て満たそうとすることが人間の本能なら、私が彼女を殺してやりたいと思うこともまた人間の本能に違いない。しかし人は殺人を肯定しない。

 

 私が思い描いた理想はこの世界では受け入れられなかった。裏切り者たちが跳梁するこの世界の住人たちは肉欲に溺れ、総じて汚らわしい! そして私もまた汚らわしい裏切り者で、いずれ肉欲に溺れて退廃してゆくのだろう。人は皆裏切り者だ。

 

 終

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