第11話

 僕は窓から見える車の流れを眺めたり机の上を片付けたりしながら気持ちを落ち着け、ようやくアルバムを開く決心がついた頃にはラジオから流れる番組も変わっていた。女性のパーソナリティーがリスナーの考えたジョークを続けざまに紹介していた。僕がラジオのスイッチを切って彼女の口を塞ぐと、途端に開け放した窓から周囲を走る車の騒音が部屋を包み、怒りの感情を隠そうともしないトラックが列車の汽笛のような咆哮を上げたところだった。

 アルバムの表紙をめくると、長い時間重なりあったままだったビニールシートが音を立てて剥がれ、僕たち三人が修学旅行で京都に行った時の写真が目に入った。黒い学生服のズボンに半そでのワイシャツを着て、三人ともカメラから向かって左側を見つめている。背景には名前を思い出せないお寺が夕日に照らされて赤く映し出されていた。幻想的な色合いのこの写真は、第一ページ目を飾るには打ってつけの一枚だった。

 次にページをめくると、中学の教室で真人一人が真っ赤な顔をして立っている写真があった。卒業アルバムのために学校側が手配したカメラマンが授業風景を撮影したものだ。希望者に販売されていた写真の中からその一枚を注文して、僕が真人にプレゼントしたのだった。真人が真っ赤な顔をしている理由を忘れてしまったが、あの夜に聡が話してくれたことを僕は思い出した。

「覚えてる?真人はあんまり勉強ができる方じゃなくって、こっちが恥ずかしくなるぐらいおかしな答えをすることがあったよね。そのたびにクラスの皆はあんなに楽しそうに笑って……真人は恥ずかしそうに照れ笑いを浮かべてた。自分では何で笑われてるんだか分からないから、おどおどしながらね。そんな奴が……何も殺されることなんてなかったんだ」聡はじっと手を見つめ、時々こみ上げる嗚咽で声を震わせながら話し続けた。「酔っ払って半分眠ってた真人の首に手をかけた時、こんなことしちゃいけないって分かってたんだ。だけど止められなかった。口に出して止めろって何度も何度も叫んだんだ、でも……、駄目だった。可笑しいよね。自分の手なのにさ」

 僕はアルバムから目を上げて窓の外を走る車のライトを目で追いながら、聡の一言一言を正確にその抑揚まではっきりと思い出した。僕はこの言葉を思い出すたびに、ひどく動揺してしまうのだ。誰が何と言おうと、聡が人を傷つけるような奴じゃないと僕は信じていた。だからこそ僕はある思いにとらわれ、呆然と立ち尽くしてしまうのだ。それは他ならぬ僕の真人に対する嫉妬だった。あの頃僕が夢で何度も見たものは、彼女への思いと真人への嫉妬だった。その思いを感受性の強い聡が受け止め、聡にかけられていた最後の留金をはずしてしまったのではないだろうか。あの事件の後、僕の中で彼女に抱いていた淡い恋心は、その思いにとらわれていた高校時代の思い出とともに失われていた。僕はそれを事件のショックからくる記憶喪失のようなものと思い込んでいたが、もしかしたら、これは聡に対する裏切りではないだろうか。もし聡が僕の嫉妬を自分のことのように感じ、それが聡を狂わせたのなら、その責任は僕にあり、嫉妬の原因となった彼女の記憶を消すことは、聡の存在を自分の中で殺してしまうのと同じではないだろうか。

 僕は緊張に耐えられなくなって台所でコップに水を注ぎ一気に飲んだ。最初に予感した通り、このアルバムは僕にすべての罪を告白し、自分を見つめ直すようにと迫っていた。洗面所に行って顔を洗い、鏡に映った自分の疲れたような顔を見ながら、僕は聡の言葉の続きを思い出した。

「自分を傷つけるのは、もう疲れちゃったよ」

 聡はそう言うと、空気の抜けた風船のようにうなだれて、黙ってしまったのだった。

 僕は机に戻ってアルバムを一瞥すると、表紙に手をかけてそれを閉じようとした。開いていたページに腕を挟んだまま、僕はもやもやとしてはっきりしない考えに心を奪われていた。このまま目をつぶってしまったら、僕はいつまでも割り切れない気持ちを抱いたまま明日を過ごすことになってしまう。僕は自分を勇気付けようと深く息を吸い込み、ゆっくりと吐き出した。何度か深呼吸をしているうちに、自分を責めるためではなく懐かしむために、もう一度アルバムを開いてみようという気持ちが現れはじめた。それは小さな希望でしかなかったが、僕がずっと以前から望んでいたことでもあった。僕はもう一度アルバムを開いた。

 そのアルバムで使われていた真人の編集センスは大したものだった。僕が最後に見た後、更に手を入れてあったらしく、見たこともない写真が加わったりしていた。違う年の同じような場面の写真を対比させたり、紙に気の利いた文句を書いて吹き出しのように貼ってあったりと、僕はすっかり感心させられてしまい、いつの間にかそれを楽しんでいた。

 思わず吹き出したり照れ笑いを浮かべたりしながらアルバムのページをめくっていくと、あの日海に行った時の写真、真人が亡くなる前日の写真が貼ってあったのに驚かされた。

 ここまでのページがすべて三人揃ったスナップだったというのに、最後の海の写真に聡が写っていないことで、僕は自分の体の一部が欠けてしまったように、ひどく空虚な思いにとらわれた。ここに聡も揃っていれば、真人が演出した僕たちの思い出は非の打ち所のない完璧なものになるはずだったのに。

 アルバムの次のページを開いた時、僕はぎょっとして目を見開いた。その光景があまりにも恐ろしいものであったために、僕はすぐに目をそらし、両手で顔を覆って空を見上げた。それは制動が効かず目の前に迫った壁への衝突を避けられない車に乗り合わせてしまったのを後悔するのと同じように、目を閉じて現実逃避を試みようとしても、もはや何もしたことにはならなかった。

 最後のページに貼ってある写真の一枚は、僕と真人、そして由紀が写っていた。この写真は友美が撮ってくれたもので、三人とも楽しそうにカメラに向かって微笑んでいる。真人を中央にして右側に由紀、もう一方に僕が立っていた。その由紀の顔が赤いサインペンで丸く囲んであった。それは右側に貼ってあるもう一枚の写真に向かって線でつながれており、その写真の人物の顔も同じように赤い丸で囲まれていた。それは由紀だった。だが、その写真は高校の教室で撮られたもので、僕が高校の時真人や聡に見せるために真人の家に持ち込んだ、あの写真だった。

 それは年代の違う写真を対比させる、これまで見てきた真人のアルバムの構成と同じだった。だが、このページで行われている対比は他のページと明らかに違う、この写真を真人が持っているはずがないのだ。

 僕は祈るような気持ちでその写真をアルバムから剥がし、震える手をもう一方の手で支えながら裏返した。そこには「ゆき」と僕の筆跡で書かれていた。間違いない。何枚も焼き増しして持っていたから気付かなかったが、この写真は僕が高校の時真人に見せようと持って行ったものだ。

 アルバムには真人と由紀の間に相合傘のようなマークが書いてあって、僕と二人の間には失恋を意味するひび割れのような線が書き込まれていた。

 もはや考えられることはひとつしかなかった。真人はすべて知っていたのだ。何もかも知っていて、気付かないふりをしていたのだ。自分に惚れた女がどれだけ従順に振舞うかを僕に見せ付け、楽しんでいたのだ。

 僕は色んな言葉を頭の中で投げつけながら、まだひとつ何かを忘れているような胸騒ぎがしていた。このアルバムは海に行った次の日に整理されていた。その日真人の家に行った聡もこのアルバムを目にしたはずだ。僕は聡の中で燃え上がっていく憎悪の炎をすぐ近くに感じた。

「ごめん、ごめんよ、聡」

 あの事件以来、ずっと抑えつけていた感情がとめどなく噴出し、僕は泣き崩れた。ボロボロと大粒の涙がアルバムの上に落ちた。


「もし戻ってこれたら。あそこから出てこられたら。将来はカウンセラーになりたいんだ」

 助手席に座って黙って聡の話を聞き、聡の力になってやれなかった自分を責めていた僕を、逆に励ますように聡は言うのだった。

「僕みたいに自分で自分を傷つけて苦しんでる人はいっぱいいると思うんだ。そんな人の手助けをしてあげられたらいいなって。自分も同じ思いをしてきたから、きっと気持ちが分かると思うんだ。僕みたいになる前に助けてあげなくちゃいけないんだよ」

 聡が残された勇気を振り絞って笑顔でその言葉を締めくくると、堰を切ったようにあふれ出す涙を僕は止めることができなかった。聡の頭から流れ落ちた雨水は、大粒の涙のように聡の頬の上を流れていた。まるで中学の卒業式の時みたいだった。

「じゃぁ、もう行くよ」

 そう言うと、聡は車のアクセルをゆっくりと踏み込んだ。雨はすっかり止んでいた。

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妄想の代償 楠木風画 @littlebreaker

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