第10話

 駅の改札を出て人込みを抜けると、駅前通りと交差する区画整理されたばかりの通りに出た。その通りには銀行やフラワーショップ、美容院や眼鏡店が軒を連ねて並んでおり、昼間はそれなりの活気を見せているが、夜八時ともなるとどの店もシャッターを下ろし、車道を行き交う車のライト以外は、歩道を照らすものは淡黄色の街灯だけとなる。新しく整備された歩道はその単一色の街灯の光で無機質に輝き、そこを通るものに何の感慨を与えることもなく、ただ歩道であることに徹し、存在していた。けれどその日、僕がその通りに差し掛かると、街灯と街灯の間には黒いコードが渡され、色とりどりの提灯がぶら下げられていた。それは僕の住む町で毎年八月の終わりに行われる夏祭りの到来を告げる明かりだった。

「そうか、もう夏も終わりなんだな」

 あの事件があった夏から三年の月日が流れていた。聡がこれまで住人だったはずの社会から、塀一枚隔てた鉄格子の中へと送られた後、聡の両親は容赦なく降り注がれる好奇の目から逃れるように、知人のいないどこかの町へと引っ越していった。

 聡と同じ優しい目をした父親は、人の喜ぶ顔を見るのがなによりも好きな人で、奥さんの家事がしやすいようにと、いつも家の隅々にまで日曜大工の腕を振るっていた。家の中のちょっとした仕掛けを誇らしげに見せてくれた奥さんの笑顔を、今も思い浮かべることができる。父親の大きくて黒ずんだ手の肌は荒れていて、仕事から帰るといつも爪の間に黒い油のようなものを詰まらせていた。聡の家でこっそりビールを飲んでいて、聡の父親に見つかってしまったことがある。その時もいきなり叱りつけるのではなく、ビールは氷を入れて飲むものじゃないと教えてくれた。


 家に帰ると僕宛の荷物が届いており、差出人の欄には真人の父親の名前があった。宅配便で送られてきたその荷物は厚い緩衝材つきの丈夫な紙袋に包まれていた。僕は注意深く梱包を開けて中の荷物をのぞきこみ、それが予想された品物であることを確かめた。

 それは真人のアルバムだった。一週間ほど前に真人の父親から連絡があり、何冊かある真人のアルバムの中で最近のもの、真人と聡と僕の写真を収めたアルバムを預かってもらえないかと言ってきたのだった。父親が真人の持ち物を整理していてこのアルバムを見つけたのは最近のことだった。その時に父親が受けた衝撃は、真人の死の知らせを聞いた時に匹敵する混乱を引き起こしたのだと、僕は電話越しに伝わってくる真人の父親の声の震えから感じとっていた。僕はすぐに、是非預からせて下さい、と申し出たのだった。

 このアルバムは中学からの仲間である三人の写真を集めたもので、僕も真人の家に遊びに行った時によく見せてもらっていた。カメラをいつも持ち歩いて写真を撮っていた真人は、その膨大な枚数を、いつもの真人からは想像もつかないまめまめしさで、きちんと整理してアルバムにまとめていた。

 僕は散らかった机の上を片付けてアルバムを開く場所を作ると、最初のページを開こうと手をかけた。その瞬間、あの日から三年間ずっと考えまいと押さえつけていた罪の意識ややりきれない思いが、どっと押し寄せてきて僕の胸を締め付け、何かそこに危険なものでも潜んでいるかのように、アルバムを開こうとした手を慌ててひっこめた。その時になって初めて、このアルバムを見つけた時の真人の父親の動揺が、どれほどのものだったかが分かったような気がした。このアルバムは三人の楽しい思い出を残したものでもあるが、悲劇が起こってしまった今となっては、真人と聡に対する自分の立場を試される踏絵なのだ。自分が彼らに何をしたか。あるいはしなかったのかと。

 あの悲劇のあった夜、聡が車の中で僕に告白したことは、いくどとなく僕の頭の中で繰り返し思い出され、あの時車の中に漂っていた夏の雨の匂いとともに心に焼きついていた。それは三年経った今でも休むことなく僕を捉え続け、鏡に映った僕の顔から目の下の隈が消えることはなかった。

 僕はあの日聡に告白されるまで、聡が真人に対してあれほど抑圧された気持ちを持っていようなどとは思いもしなかった。聡が真人とともに過ごした時間は僕よりもずっと長く、尊大で他人の不幸を省みない真人のために費やした聡の優しさは、いつしか痩せ細って鋭い刺となっていた。あの笑顔のどこに、そんな苦しみを隠していたというのだろう。二年前の夏に中学時代の友達に偶然再会し、当時のクラスで授業中に起こったあることを思い出すまで、僕は聡がたった一度だけ発した救難信号を見逃してしまっていたのだった。

 中学二年のある日、僕が腹痛に耐えかねて駆け込んだトイレから戻ってみると、クラス全員が後ろから二番目に座っていた聡に注目していて、聡は真っ赤な顔で石のように固まっていた。何事かと思う間もなく、僕と聡の目が合った。するとそれをきっかけにしたように、聡はゆっくりと手を伸ばして机の下に落ちていた消しゴムを拾い上げた。聡がそれを拾い上げると同時に教室中に張り詰めていた緊張が解けたので、皆が固唾を呑んで見守っていたのが聡の一挙一動だったことは明らかだった。聡は斜め後ろに座っていた真人にそれを渡すと、何事もなかったかのように教科書に目を落とした。

 クラス全体を緊張させたその出来事の発端は、聡の席の横に落ちた消しゴムを真人が拾ってくれと頼んだことだった。真人はそれを命令口調で言った訳ではなかったし、誰が見ても聡が拾って上げるのが当然と思える状況だった。それでも聡は無表情にその消しゴムを睨んだまま、誰の言葉も耳に入らないといった様子で黙り込んでしまったのだった。真人が何度か声をかけるうち、その小さな出来事は皆の知れるところとなり、クラス全員の注目を集めてしまう結果になったのだった。

「いつから真人を憎むようになったのか分からない」あの夜、車の中でそう言った時の聡の顔が思い出された。その表情は人を傷つけようと企む憎悪など一片も感じられず、感情を燃やし尽くし、灰のように冷え切って穏やかだった。

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