第9話
「ちょうどそこまで来たら浩次が家に入るとこが見えたんだ。タイミングばっちりだったね」聡はいつもの聡らしくない、やけにはきはきとした話し方でしゃべり、まるで口を閉じた途端に誰かが良からぬことを口にするのを恐れてでもいるかのように、すぐに言葉を継いだ。「傘持ってなかったの?なんか急に降り出したもんね。さぁ乗って乗って」聡はそういい残すと自分はさっさと車に乗り込んでしまった。
大きな身振りで運転席から手招きしている聡を見ていると、つい先ほど見た出来事が本当のことだったとはとても信じられなくなってきた。真人が本当に誰かに殺されたにしては、今僕を包んでいる現実はあまりにも日常的すぎた。
僕が車に乗り込むと、すぐに聡は車を発進させた。最初にガクンという衝撃が車に、そして僕らに伝わったが、その後は滑るように加速していった。
「そうだ、シートベルト締めてね。僕が減点になっちゃうから」教官が生徒に言うような態度で、聡はそう言い放った。
そんなこと走り出す前に言ってくれと言いかけた時、暗闇に白く浮かび上がったガードレールが助手席のドアに重なるほど近づくのを見て慌てて身を縮めた。
「おいおい。ちょっと左に寄り過ぎじゃないか?」
雨の降る夜に初めてのドライブなんて間違っていると思った。さっきから聡は少し興奮しているのか、余裕のありそうな素振りさえ見せていたが、僕の方は初心者の運転がこれほど怖いものだということを思い知らされていた。
「ごめんごめん。ワイパーとヘッドライトって、こんなに役に立たないもんだとは知らなかったよ。それにうちの車、教習車より運転しにくいんだ。そういえばこの車、ドアにミラーが付いてる。フェンダーミラーじゃないんだ」
聡があんまり頼りないことを平気で言うものだから、僕はすぐ隣でハンドルを握っている聡がだんだんと悪魔に見えてきた。
「頼むから安全運転してくれよ」
そうこうしているうちに雨脚は次第に強くなり、聡の運転がどうにか様になってきた頃には土砂降りになっていた。フロントガラスには、まるで洗車機の中に入ったように大量の水が流れ落ち、雨水の溜まった道路は、そこが川でないと見分けるのが難しいほどだった。さすがに聡も危ないと思ったらしく、見通しが良く交通量の少ない場所で脇に寄せて車を止めた。
それからの聡の行動はとても奇妙なものだった。雨が鉄板を叩くような轟音を伴って僕らの車に打ちつけ、道路を流れる大量の雨水が、車の下を音を立てて流れていくような土砂降りにもかかわらず、傘も差さず、少しも慌てる素振りもなく車の外に出ると、目の前の自動販売機まで、まるで畳の上を歩くように静々と歩いて行った。見る間に聡の髪はベッタリと頭の形に沿って張り付いたのに、聡は少しもそれを気にかけることなく、ポケットから財布を取り出し、ジュースを二本買って戻って来た。車に乗ってドアを閉めると、そのうちの一本を僕に差し出しながら言った。
「雨がおさまるまで、ちょっと待っていよう」
聡が車のシートに身を沈めると、髪の毛から落ちる雨水や着ている服から染み出る水で、運転席はあっという間に水浸しになった。聡のすることをずっと見守っていた僕はその時ようやく我に返り、ポケットからハンカチを取り出して聡に渡したが、それが大して役に立ちそうもないことは明らかだった。聡は目の前に差し出したハンカチを、それがいったい何だったのか思い出せないかのように、しばらくじっと眺めていた。受け取ったハンカチで手とジュースの缶をさっと拭うと、すぐに僕に返してよこした。前髪を伝って目に入ってくる雨水は、車のワイパーを早くしたり遅くしたりして拭おうとしているみたいだった。左手でルームミラーを調節して自分の顔を写すと、聡はそれをじっと見つめ、それきり動かなくなった。まるで命のロウソクの最後の一本を吹き消されたように、聡を動かしていた最後の力がすっと鏡の中に吸い込まれ、そこで息絶えたように見えた。再び口を開いた時、聡はたった今僕と会ったばかりのような、おずおずとした調子で言った。
「僕、さっき真人の家に行ったんだよ」
まるで滝に打たれているような轟音がいつ果てるともなく続く車内でも、聡の言ったことは外部の音を完全に遮断するヘッドフォンを通して聞いたように、はっきりと聞き取れた。
聡が言い終わらぬうちに僕は血の気の引く思いだった。その言葉は「君が犯した罪はひとつ残らず知っているんだよ」と僕に訴えかけているようだったからだ。今さっき否定したばかりの真人の死という悪夢が、再び現実のものとして僕の目の前に現れた。僕は藁にもすがる思いで、聡の本心を探ろうと努めたが、その目は何も語ってはくれなかった。ただ小さくて深い真っ暗な空洞が、ぽっかり口を開けているだけだった。僕は聡の目を見つめているうちに、その瞳に吸い込まれていった。見たことを正直に話さなければという思いが僕の背中を押すかのように、心臓の鼓動が僕の背中をどんどんと叩いていた。僕も真人の家に行ったんだ、そしてそこで見たんだ。胸を叩く鼓動が苦しくて、それは言葉にならなかった。
その時対向車のライトが車の中を明るく照らし出したかと思うと、すれ違いざまに重い水しぶきを僕らの車にどっと打ちつけていった。フロントガラスに降り注ぐ雨をはらっていたワイパーは苦しげに悲鳴を上げ、車は横波に襲われた小船のようにゆらゆらと揺れた。
「……ちゃったんだよ」通り過ぎた対向車の起こした波がおさまると聡の声が聞こえた。それは荒波の音にかき消されてほとんど聞こえなかった。僕が聞き返すと、聡はもうこれ以上繰り返すのは耐えられないとばかりに、全身から絞り出すような声で言った。
「真人を殺しちゃったんだよ」
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