第8話
僕は悲鳴を上げながら飛び起き目を覚ました。目が回っていた僕は手足を踏ん張ってそこにしがみつくようにしていたが、やがてそれが落ち着くと、自分の部屋がゆっくりと回転を止めて僕の目の前に現れた。まただ、また夢を見たのだ。目が覚めてからも、まだ悪夢が自分のすぐ背後から追いかけてくるようで、僕はしばらくの間じっと身構えたままでいた。
僕は昨日海から帰る時に着ていた服のままで、帰宅してすぐ横になったきりそのまま寝てしまったみたいだった。頬に触れると顔中がローションを塗りつけたように汗でぬるっとしているのが分かった。台所に行って大きめのコーヒーカップに水を注ぎ、一気に飲み干すと、いくらか落ち着いてものを考えられるようになった。
「あれは夢だったんだ、そう思うことにしよう」
僕は洗面台の鏡に向かって語りかけた。真人と由紀が愛し合う姿を目撃したことも、さっきの悪夢同様、目が覚めれば何でもないことなんだと思いたかった。真人と再び顔を合わせるためには、きれいさっぱり忘れてしまわなければならなかった。海からの帰り道で僕がしたように、これからずっと寝たふりを続けるという訳にはいかないのだ。
先ほどから耳鳴りのように感じていた音が電話のベルだと気付くと、頭痛のする体を引きずるようにして、やっとの思いで受話器に手を伸ばした。
「もしもし」を言い終わるのを待たずに、聡の声がひっくり返したおもちゃ箱のように受話器からあふれ出した。電話の向こうで、聡は喜び勇んで免許取得の報告をし、僕に初ドライブに付き合って欲しいと叫んでいた。僕は自動的に相槌を打った。夜七時ごろ迎えに来るということで電話は一方的に切れた。「意外と早かったな」そう声をかけるべきだったと思ったのは、受話器を置いてしばらくしてからだった。
その日は予備校の夏期講習の授業があり、それが終わると僕はまっすぐ家には戻らず、真人の家へ向かった。真人に貸していた本の中にどうしても必要なものがあり、それを返してもらう約束だったからだ。真人は人に借りたものと自分の所持品の見分けがつかなくなるという、貸した側にとっては大変迷惑で、借りた本人にとっては大変結構な癖を持っていた。それでいて自分のものだけは絶対に無くさないものだから、真人と親しくしている連中は何か無くなるとまず真人の家に押しかけることを定石としていた。
アパートに近づくと明かりが付いていたので真人がいることが分かった。真人の部屋のある二階まで階段を上がって行くと玄関のドアが少し開いていた。いきなり入っていくほど礼儀知らずでない僕は、呼び鈴を鳴らしてしばらく待った。期待していた返事はなく、真人が待たせる気でいるなら僕が茶目っ気を出してもいいだろうと、隙間に首を突っ込んで中をのぞき込みながら名前を呼んでみた。それに答える返事はなかったが、風呂場の入り口に脱ぎ散らかした服が見えた。風呂場のドアも少し開いていて、中からはかすかな湯気が流れ出ていた。
どうやら入浴中らしいが、なんだって玄関を開けっ放しにしたまま風呂に入っているのだろう。最初は不審に思ったが、なにしろこの暑さだから、換気をして閉めるのを忘れただけだろうと一人納得した。髪でも洗っているのなら、僕が来たことも気付いていないかもしれない。
僕は玄関で靴を脱ぎ、廊下を少し進んだところでもう一度声をかけてみた。廊下の途中まで入って気付いたのだが、浴室はしんと静まり返っているというのに、水道の蛇口からしたたり落ちる水滴の音だけは規則正しく続いていた。いくら耳を澄ましてみても、冷ややかに続くその水滴の音以外は何も聞こえてはこなかった。意を決して風呂の中をのぞいてみると、そこにバスタブに浸かっている真人の姿が見えた。
真人は向こう側に顔を向け、身動きひとつせず横になっていた。酒でも飲んでそのまま寝てしまったのだろう。僕には酒を飲んで入水するなと言いながら、自分ではこの有様なのだ。真人らしいといえば真人らしいけれど。僕は呆れ果てた溜息をこれ見よがしにつくと、体を揺すって起こそうと真人に近づいた。真人の寝顔を確かめようとした僕は思わずその場を飛びのいた。真人が驚いたような表情のまま、目を見開いていたからだ。
それは異様な光景だった。真人の両足は奇妙な格好でバスタブの中に折り畳まれており、右手はバスタブの外にだらりと垂れ下がっていた。髪の毛は濡れていて水滴がポタポタと滴り落ちていた。張られたお湯は氷のように静まり返り、真人は呼吸さえしていないように思えた。
僕は緊張に耐えられなくなってその場にしゃがみこんだ。その時それは見えた。
(これは!首を締められているのか?)
まるで刺青のように、首の周りに赤黒いあざが這っていた。赤黒い帯の間にはミミズ腫れのように膨らんだ部分があり、青白く生気を失った真人の体から不釣合いに浮き出して、皮膚に寄生した生物が繁殖していく過程のように見えた。
不意に今朝の夢が背後から忍び寄ってきて、僕の肩を叩いてささやいた。
「あなたが殺したのね?知ってるわ。ずっと見てたんだから」
そうすることで無実を証明できると信じているかのように、僕は激しく首を振ってそれを否定した。気を失いそうになるのをかろうじて堪え、とにかくこの場を離れようと決意した。こんなところにいちゃ駄目だ。僕は人なんか殺してないんだから。
背後で大きな音がして玄関のドアが勢いよく閉まった。振り向いて廊下の方に目をやったが、ここからでは玄関の様子はまるで見えなかった。
(誰かいるのか?)
僕は振り向いたまま、誰かが廊下を歩いてくるか確かめようと耳を澄ました。気配を殺して身を隠そうとすればするほど、自分の呼吸さえ大きく響いているように感じた。
いったい何分そうしていただろう。誰も近づくてくる気配がないので、よろよろとふらつきながら廊下に出てみた。風呂場のドアから玄関をのぞいてみたが誰もいなかった。きっと風か何かの悪戯だったのだろう。僕はそう思うことで、今にも足がすくんで動けなくなりそうな自分を勇気付けなければならなかった。
震える足で操り人形のように廊下を進み、玄関までたどり着いたところでドアを少し開け、辺りの様子をうかがった。夕暮れの闇が視界から色を奪い、背景の灯りに浮き出された影絵のような建物が見えるだけで人の気配は感じられなかった。何度も足を入れ損ないながらやっとのことで靴を履き、まるでそれ自体が左右に揺れているような階段を降りてアパートを後にした。とにかくこの場を離れたい一心だった。
雨が降っていることに気付いたのは、真人の家を出てから一度も立ち止まらずに夢中で歩き続け、自宅の前で初めて足を止めた時だった。全身に吹き出した冷や汗だと思っていたものは、いつの間にか降りだした冷たい小雨だった。大粒の雨が僕の耳に落ちた時、僕は雷に打たれたように体を緊張させた。真人の浴室の蛇口から滴り落ちる雫が、僕を追いかけてきたように感じたからだ。
追い立てられるように家に飛び込んで玄関の扉を閉めようとしたまさにその時、空気を震わすような車のクラクションが響き渡り、僕は飛び上がって驚いた。まるで自分を捕まえようと疾走してきたパトカーから止まれと命令されたように、ビクビクと体が震えるのを抑えることができなかった。
ドアを開けて外をのぞくと、聡が車を降りてこちらに手を振っていた。
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