第7話

 泳いだ後というのは、どうしてこんなにも体がだるいのだろう。さすがの友美もすっかりおとなしくなり、子供のような声で何度も何度も欠伸をするものだから、僕らは全員催眠術にかけられたみたいになってしまい、駐車場までの道のりを、皆で猫背になって行進していった。

 停めてあった車の近くまでくると、僕らの眠気は頂点に達しており、まるで夢の中で泳いだ後に、目が覚めるのをただ波に揺られながら待っているという具合だった。

 ここから自宅まで車を運転しなければならないと気付いた時の真人の落ち込みようといったら、それまで真人に冷淡な態度をとっていた僕も、できることなら何でもしてやりたいと思うほどだった。以心伝心というものは誠に有難くない時もあるもので、「俺の気持ちを分かってくれるのは、お前だけだ!」と言いながら、雑巾を絞るようにして僕に抱きつく真人には、まったく鳥肌の立つ思いだった。

 真人はその熱烈な抱擁から一転して僕を冷たく解き放つと、ポケットから取り出した車の鍵を僕に握らせ、眠気覚ましのガムとジュースを買ってくると言い残し、由紀の手を取って来た道を引き返して行った。

 僕は真人の車の窓を開け放ち、エンジンをかけてエアコンのスイッチを入れると、ほとんど突っ立ったままそこで眠り、私もう動けないと寝言を言っている友美を後部座席に押し込んだ。小さい水着のわりにずっしりと重たい友美の荷物を枕代わりに頭の下に置いてやると、召使に言うような態度で僕にご苦労と声をかけ、すっかり安心した様子でお休みになられた。

 友美の荷物の重さを感じて、僕は急に不安になった。彼女の荷物にくらべて、自分の荷物があまりにも軽すぎるのだ。

 慌てて自分の荷物に手を突っ込んで探ってみると、信じられない光景がそこにあった。水着も水筒もなく、タオルしか入っていなかったのだ。僕は祈るような気持ちでズボンのポケットを片っ端から叩いてみたが、財布さえ持ってきた形跡はなかった。一瞬にして無一文になった僕は、眠気などすっかり吹き飛んでしまった。

 頭をかきむしって必死に記憶を手繰り寄せると、着替えをした小屋にあった籠の中に、水着や財布を入れたことに思い当たった。

 僕は石ころが沢山転がる地面を蹴って、来た道を全速力で走り出した。恥ずかしさのあまり、財布を取り返すことよりも、みんなに知られる前に戻ってきたいという思いの方が強かった。


 大急ぎで着替えをした小屋に戻ってみると、もう辺りに人影はまばらで、遠く陸続きになった丘には夜を照らす人工の照明がぽつりぽつりと星空のように灯り始めていた。店じまいをしていた貸しボート屋の人たちも、バンに乗り込んで最後の一服をしながら、今日一日働いたという満足気な顔で海を眺めていた。

 まだ暗くなるような時間ではなかったが、さきほどから出始めていた雲が今はすっかり厚く垂れ込めていて、よしず張りの小屋の中はずいぶんと暗くなってしまっていた。僕が小屋の中に入っていくと、さっき着替えた時とはまるで印象が違っていて、捜し物にはずいぶんと苦労させられた。薄暗くて狭い小屋の中でそろりそろりと足を運び、やっと財布の入った籠を見つけた時には、自分が空き巣狙いの泥棒にでもなった気がした。

 とにかく無事に財布を見つけることができると、今度は車に寝かしたままおいてきてしまった友美のことが心配になりはじめた。真人たちはもう車に戻ってきているだろうか。

 急いで車に戻ろうとした時、誰かが息を切らしながら走ってくるのが聞こえた。その足音は小屋の入り口までくると一旦止まり、静かに小屋の中へと入って来た。僕はあんまり驚いたので声を出すこともできず、よろよろと半歩後ずさりした。僕は無意識に暗闇の中へと退避したのだった。男性用更衣室の扉の隙間から、飛び込んできた二人の顔が見えた。二人は手をつないで呼吸を整えていたが、楽しくはしゃいでいる様子ではなかった。真人と由紀が、扉を隔てた僕の目の前に立っていた。

 二人がどこか不安げで、誰かから身を隠すような様子をしていたので、僕は扉を開けて出て行くことができなくなった。真人はひどく真剣な顔でしきりに外の様子をうかがっているみたいだし、由紀は由紀で真人の顔を不安そうに見守っていた。こんな時に突然扉を開けて出ていって二人を驚かすなんてとても考えられなかった。

 僕は他に誰か小屋に近づくものがいないだろうかと耳を澄ました。聞こえてくるのは波の音と、扉の向こうにいる二人の息遣い、そして僕自身の鼓動だけだった。

 もし誰かに追われているのなら、僕は喜んで二人の身代わりにでも何でもなるつもりだった。僕は二人の様子を見ていて、真人と由紀が盗みでも働いたんじゃないかと思い込んでしまったのだ。彼らの鼓動は薄い扉を通して僕の心臓と共鳴し、ともに身を隠してはいるが、いざとなれば迫りくる危険に一緒に立ち向かうのだという気がした。僕があれほど欲しかった勇気が、今僕の血を沸き立たせていたのだ。

 よしず張りの扉は、目が慣れてくるにつれて次第に向こう側を苦もなく見通せるようになった。真人は由紀の両手を細い手首のあたりで握り、二人は向かい合うようにして立っていた。

 真人が小声で何かささやくのが聞こえた。波の音にかき消されてしまって話の内容までは分からなかったが、真人の顔を見つめる由紀の瞳は泣いているように潤んでいた。その瞳には真人の顔だけが映っていて、他には何ものも入り込む隙はなかった。二人の顔が引き寄せられるように近づいていったからだ。

 そして二人はキスをした。

 由紀の表情は、さっきまで皆と一緒にいた時とはまるで違っていた。二人は朝からずっと待ち続けていたかのように、長い長いキスをした。由紀の腰に添えられた真人の手がゆっくりと上に移動し、シャツの下にすべりこんで更に上へと動いていった。由紀はその手を一度は押しのけようとしたが、真人の意思が強いことを知ると、もう二度と抵抗することはなかった。真人の右手が由紀の背中まで達すると、何かが弾ける音がして由紀は突然体を丸め、真人の胸の中に恥ずかしそうに隠れてしまった。

 その様子をじっと息を潜めて観察していた僕の心臓は、前へ前へと進もうとする意思を持った生き物のように、僕の胸を内側から突き上げ始めた。その鼓動が体を震わすたびに嗚咽が漏れてしまいそうだった。

 二人が盗みを働いて逃げてきたのでないことは、もはや明白だった。それ以上にはっきりしていることは、二人に気付かれずにここから出ていくことは不可能だということだった。二人が今にも扉を開けて中に入ってくるのではないかと思うと僕は生きた心地がしなかった。由紀が暗闇の中に人の気配を感じて悲鳴を上げるのではないかと思うと、身動き一つすることもできなかった。

 真人の右手がゆっくりとシャツの下を移動すると、由紀の胸のあたりで止まった。さっきまで波の音で二人の話し声も聞こえなかったというのに、今は肌と肌が擦れ合う音まで耳に届くようだった。シャツの下で行われている秘めやかな行為を上気した顔で見つめる由紀の表情に僕は耐えられなくなって目を閉じた。よろけて倒れそうになったので再び目を開けると、顔を上げた由紀が真人と目を合わせているところだった。

 その由紀の表情に僕は思わず息を呑んだ。今にも涙がこぼれそうな潤んだ瞳も、小刻みに震える桜色のゼリーのような唇も、夕刻の青い光線に照らされて美しく輝いていた。僕は夢の中で彼女に口づけしたことを思い出した。あの時の彼女が今、僕の目の前にいた。

 真人は両手で由紀の腰を支えると、ぐいと力を入れてぴったりと体を寄り添わせた。そうやって真人に抱かれている由紀の体は、あまりにも細く頼りなげに見えた。絞り出すようなため息を真人が漏らすと、由紀の口からも声にならない吐息が真人の顔に向けてふわりと漂っていった。由紀は紅潮した真人の顔を指先で触れ、どこか一点に視点を定めることを恐れるように、真人の顔の上でいくどとなく視線を移動させた。そして乱暴なほど力強く由紀の唇は奪われた。まるで吸血鬼が美女の生き血を吸うように。血を吸われた美女は、徐々にその体から力が抜けてゆき、身を預けるままになっていった。

 しょっぱい雫が口の中に入ってきて、僕は初めて自分の目から涙があふれていることに気付いた。泣いているという意識もないのに、とめどなく涙が流れ、まるで深い海の中へ、どんどん沈んでいくような感覚だった。水の中で響くような低い音が耳元から始まって体全体を包み、深い海の中に閉じ込められた僕が海面に出ようといくらもがいても、そこから抜け出すことはできなかった。お願いだから、お願いだから二人とも早く出ていってくれ。息が、息が続かなくなる前に。

 海の中でもがいているうちに太いロープのようなものが僕の手に触れた。僕がつかもうとすると、それは勢いよく手から逃げて僕を見殺しにしようとする。水中で逃げ回るロープを、僕はむちゃくちゃに手を伸ばしたり振り回したりして捕まえた。ここで苦しみ悶えて息絶えるなんてごめんだ。僕は指をロープに突き立て、爪が弾けて飛んでいってしまいそうになるのも構わず力いっぱいつかんだ。僕の指が強く食い込めば食い込むほど、ロープは激しく揺れ動き、僕を振り落とそうとするかのようだった。そのうちに、どこからが僕の腕でどこからがロープなのかも分からなくなった。次第にロープの動きはその激しさを失い、ついに動かなくなった。その直後、僕は海面に顔を出し、まるでポンプで無理やり押し込まれるように空気を胸いっぱいに吸い込んだ。思わず咳き込んで吸い込んだばかりの空気を吐き出してしまうと、また押し込まれるように空気を吸い込んだ。

 不意に何とも言えない違和感に襲われ、僕はゆっくりと目を開けた。その光景に僕は息を呑んだ。そして自分が助かったことも後悔したのだった。僕がつかんでいたものは、驚いたように目を見開き、首から下に操り人形のようにぐったりした体をぶら下げた真人だったからだ。僕はまるでうやうやしく何かの儀式の品でも掲げるような格好で真人の首を壁に押し付け、両腕で吊り上げていた。驚いて飛びのくと、真人はぐったりとして水の中にずぶずぶと沈んでいった。僕は訳も分からず水の中に沈んでいこうとする真人を慌てて引き上げたが、すでに生気はなかった。もはや魂はそこに宿ってはおらず、その肉体は真人が捨てていった抜け殻でしかなかった。僕は抜け出ていった真人の魂を探そうと辺りを見回した。そして僕は気が付いた。そこが海の中ではなく、真人の家のバスタブの中だということを。僕はバスタブの中で真人の死体を抱いていたのだ。

 湿気で曇った浴室の鏡に僕の姿が写っていた。蒼白の顔はじっとりとした汗で光っており、目が引っ込んで目の下には隈ができていた。どうしてかは分からないが、僕にはそれが自分自身だとは信じられず、僕の形を真似て作られた粘土細工のように見えるのだった。鏡の中の自分に目を凝らしていると、突然髪の毛が盛り上がってきてその間から人間の見開かれた目が現れ、僕は驚いて振り向いた。そこに立っていたのは、いつの間に浴室に入ってきたのだろうか、海で遊んでいた時と同じ水着姿の由紀だった。僕を哀れむような目で見つめながら、そっと僕の背中に寄り添うように腰を下ろした。僕は正面に向き直り、鏡に映る彼女の表情を見守った。由紀はその青白い顔で、僕の肩越しに真人を見つめていた。もう戻らない恋人の顔を目に焼き付けるかのように。いったい何が起こったの?そう訊ねようと口を開きかけるのだが、息が詰まって言葉にならなかった。僕がしゃべろうともがいていると、由紀が僕の方に顔を向けるのが鏡を通して見えた。

「あなたはずっと私のことを思っていてくれたのね」由紀の声は優しかった。「あなたの気持ちに気付いてあげられなくてごめんね。あなたは私にはもったいないくらい素敵な人よ」

 それだけ言うと、鏡の中で由紀はうつむいてしまった。前髪が作る影で顔は見えなかったが、僕の背中で肩を震わせる由紀は泣いているように見えた。由紀はゆっくりと自分の肩に手をやり、水着の肩紐の下に指を差し入れた。ゆっくりとその手が腕の方まで下ろされると、もう一方の肩も同じようにした。由紀は上半身をくねらせて水着を下ろすと、その柔らかい乳房をあらわにした。それは鏡からではなく、僕の心の目に映っただけだった。

「でも私、本当は知っていたのよ」由紀はまだ泣いているのか、うつむいた顔には濡れた髪がかかり、唇が動くのがかろうじて見えるだけだった。「知っていたのよ。あなたが私を好きだと勝手に思い込んで、想像して、いつも私を汚していたのをね」

 驚いて鏡に目を凝らすと、そこに写っていた由紀の濡れた前髪の間から、深い穴のように真っ黒な瞳が僕を憎憎しげに見つめていた。僕がそれに気付いた時、彼女の乳房が僕の背中に強く押しつけられた。それは氷のように冷たくて、全身の筋肉を一瞬にして硬直させてしまった。僕は動くこともしゃべることもできなくなった。

 恐怖に身を縛られた僕は、唯一動かすことのできる目で助けを求めるように真人を見ると、真人はその見開いた目で僕を見ていた。

「男の人に勝手に想像されて、汚されるって、どんな気持ちがするか、あなたに分かるかしら?」

 由紀は後ろ手に僕の腕をひっぱり、体の自由を奪われた僕は導かれるままに彼女の体に触れた。氷のように冷たい乳房に触れ、そしてお腹の方へと導かれた。由紀がぐいと力を入れると、僕の手は彼女のお腹の皮膚を突き抜けて彼女の内臓に触れた。僕の手はその小さな体の中に寄せ集まった臓器の隙間を少しずつ奥へと侵入していった。彼女の臓器は生温かく生命力にあふれ、そのひとつひとつが別の意思を持って生きている生物のように僕の手を飲み込んでいった。僕は恐ろしくなって彼女の体から手を抜こうとした。すると由紀は鏡を通して僕の目を真っ直ぐに見つめ、怒りをあらわにした。

「こういうことよ。汚されるっていうのはね」由紀は叫び、その息づかいが僕の耳に空気の振動となってぶつかった。

「でもね。真人を殺しても、私はあなたのものにはならないわ」

 真人の見開かれた目は由紀に向けられ、そして由紀に向かって叫んだ。「もうよすんだ」

 由紀は構わず続けた。

「私はあなたのお人形さんじゃないのよ!」

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