第6話
ついにその日がやって来た。
真人は指折り数えてその日を待ち望み、水着まで新しくしてきたというのに、僕は前の日の夜まで水着のことをすっかり忘れていて、上へ下への大騒動の末、ようやく高校時代の水着を引っ張り出したという状態だった。
前日の天気予報は晴れと伝えていたが、朝方は厚い雲が空を覆っており、賢明な人間なら、わざわざ足を伸ばしてまで海に行こうなどと考える訳がないと思われた。僕は歯ブラシをくわえたまま外に出ると、いつもこの辺でのそのそと歩き回っている野良猫が、顔でも洗ってやしないかと期待して探し回った。ところが、こちらの目的を察知したのかもしれないが、不純な目的に利用されるのはごめんだと言うのか、その日に限って隣近所の自家用車の下をのぞこうと這いつくばってみても、声色を真似て愛嬌を振り撒いてみても、一匹も姿を現さないのだった。
ふと見ると、緩くカーブした通りの先に、真人のものと思われる赤い車が、身を半分こちらにのぞかせた状態で止まっているのが目に入った。フロントガラスの反射のせいで、人が乗っているのかどうかは分からなかったが、わざわざそこまで歩いて行って、それが真人のものであるのかどうか、確かめる勇気はなく、さてそろそろ出かける準備をしようかと、家に戻りかけた。どういう訳でそうしたかは分からないが、僕はもう一度その車の方に振り向くと、さも自信に満ちているという態度を見せようと、右手は口にくわえた歯ブラシを握り、左手を腰に当てて、しばらくその場に立ち止まった。
真人はいつも通り、約束の時刻より少し遅れてやってきた。
僕は腕時計の針が約束の時刻を一分、また一分と過ぎるのを、身の細るような思いで見つめていた。五分もすると、これは真人の悪戯で、こちらがいらいらと身を揺すりながら立ち尽くしているのを、どこかに身を隠して観察しているんじゃないかと思われてきた。
さっき見かけた赤い車の方へ走り出そうとしたまさにその瞬間、高いエンジンブレーキの音とともに真人の車が現れたのだった。
今日のために洗車したのだろう。少しくすみがかっていたはずの車体の色も、今朝は新鮮で生きの良いマグロの赤身のように輝いていた。古い車なのだから、突然の故障というハプニングも十分あり得るという僕の考えは改めざるをえなくなった。
低い車体の助手席に潜り込み、ずるずると尻を引きずってどうにかシートの真ん中に腰を落ち着けると、雨が降るんじゃないかな、と真人に声をかけた。真人はそれには答えず、発進のために右後方を確認しながら言った。
「これから由紀とあいつの友達の友美を迎えに行くからさ。三人来るはずだったけど、あともう一人は体調を崩したとかで来れなくなったんだ」
真人の真似をして、寝転ぶようなシートから体を起こして振り返りながら、僕は尋ねた。ウィンカーがカチカチと音を立てていた。
「そのことだけど。女の子が三人来て、聡も含めて男が三人だったら、この車に乗れないじゃないか。これ、五人乗りなんだろう?」
「いや、四人乗りだよ。今日来るはずだったもう一人の子が家の車を出してくれる予定だったんだ。四人に減ったから、俺の車で仲良く全員乗って行けるって訳さ」
車がするすると速度を上げて走り出すと、もう覚悟を決めなければならなかった。二人を迎えに行く車の中で、僕はこみ上げてくる動揺を隠そうと、いつもよりずっと明るくはしゃぎ続け、持参した水筒の中身をこぼしてしまう始末だった。
「なんだ、水筒なんか持ってきたのか?」
僕の水筒に手を伸ばしかけた真人を、僕は慌てて制止した。
「これ、実は少しお酒が入ってるんだ。真人は運転しなきゃならないから駄目だろう?」
真人が大げさに驚いたせいで、車は大きく左右に揺れた。
「まったく。運転できないってのは気楽でいいな。それにしても浩次。なんだって酒なんか飲まなきゃならないんだ?勉強を苦にして飲んだくれになったか?思うように成績が上がらないとか、両親のプレッシャーを忘れるためにそんなものに頼るようになっちまったんじゃぁなんにもならないぞ。いや、違うか。お前今そんな顔してないもんな……。そうか、やっと分かったぞ」真人は自分の推理に興奮して両手でハンドルを叩いた。中学の頃、試験の前になると必ず、眼前の危機から目を背けようとでもいうのか、心理学関係の本や推理小説に読み耽っていた真人の姿が思い出された。「赤い顔してるのは脈拍が上がってるってことだからな。浩次の脈が上がるような理由といったら、考えられるのはひとつしかないじゃないか。ズバリ、女のことだろ?」
始めはごく当たり前の話題から、やがて事件の真相に近づいていく話の進め方は、真犯人を追い詰める推理小説の主人公さながらだった。表情で真人に真相を見破られないよう、さりげなく右手で頬を隠すことをとっさに思いつかなかったら、永久に隠しておかなければならない秘密を見抜かれ、すべてがぶち壊しになっていたかもしれない。
「お前、女の裸を見られると思って昨日は全然眠れなかったんだろう」
何か言い返そうとして口を開きかけたところに、予想もしなかった真人の言葉が不意打ちを食らわせた格好になった。おかげで僕は危うく顎をはずすところだった。
真人のこの言葉で、僕は不本意な嫌疑をかけられた訳だが、僕が発覚することを恐れた真実に関しては、これで無罪放免ということになった。
僕は内心ホッとしながらも、顔を赤くしてそれを否定しなければならなかった。
「けどな、飲酒ってのは車の運転より泳ぐ前の方がもっと危ないんだぜ。ただ取り締まりがないってだけでな」
真人はすっかり真面目な顔になって言ったので、気を紛らわすために酒の力を借りたことを、僕は後悔しはじめた。
「なんで飲酒水泳は捕まらないんだろう」
「さてね。溺れ死んでも人に迷惑かけないからかもな」真人はいかにも残念そうに背中を丸めて言った。
前方に楽しそうに話をしている二人の女の子が見えてくると、僕はまた水筒に手を出しそうになった。
真人がゆっくりと車を寄せると二人はこちらに手を振った。二人とも明るい色のTシャツを着て、デニム地の裾の広いスカートを履いていた。いかにもこれから海に行こうという格好で、きっと服の下には水着を着ているのだろう。
「お待たせ!」
僕の乗る助手席側のパワーウィンドウを下ろしながら、あふれんばかりの愛嬌を込めて真人が叫んだ。この男の女の子に対する愛嬌の良さというのは、少し鼻につくところがあったのだが、そういう人柄が女の子ばかりか、時には男にまで、気を許させてしまうというのは認めない訳にはいかなかった。由紀は真人に微笑んで軽く頷くと、僕の方に向き直り、目を細い一本の線にして笑った。
「浩次君、久しぶりー!」
彼女の歓迎ぶりがあまりにも熱烈だったので、僕は彼女に抱きつかれるんじゃないかと思ったが、実際はそうはならなかった。僕も彼女の調子に合わせ、目いっぱい再会を喜んでいるふうを装ったけれど、内心は歯が鳴るんじゃないかと思うほどガクガク震えていた。
「ナンパなんて汚らわしいけど、二人とも結構可愛いじゃない。付き合ったげよっか。ね、由紀?」
由紀の友達の友美は、由紀と再会を喜んでいる僕を、じっくり値踏みするような目で眺めていたが、僕が友美の方に挨拶しようと目を向けたところで、冗談めかしてそう言った。彼女の台詞は、男を手玉に取る悪女を演じ切っていたので、僕は友美が手を伸ばして僕の顎のあたりを撫でたんじゃないかと錯覚した。ハスキーな声でいきなりそんな台詞を言う友美を、僕は救世主を見るような目で見つめた。こんな女の子が一緒なら、緊張に押しつぶされずに今日を乗り切れると思った。
僕は由紀と友美を後部座席に乗せるために、一旦助手席から降りた。由紀は運転席の真人の後ろに、僕の後ろには友美が座った。
海に向かう車の中でも、友美は僕が期待した通りの役柄を演じてくれた。海に着いたら自慢のボディを披露すると言いながら、僕の頭をぴしゃぴしゃと叩き、少しでも会話が途切れそうだと感じると、その隙間を塞ぐように突然大声を張り上げ、よくもこれだけ用意しているものだと感心するほど、新しい話題を次々に持ち出してくるものだから、誰も彼女の勢いを止めることはできなかった。いつもなら会話の主導権を握り続ける真人も、友美にはその座を明け渡す以外になかった。
道中絶えることなく続いていた笑い声の合間も、僕はルームミラーに映っている由紀の顔を盗み見る誘惑を抑えることができなかった。窓の外からの光線で髪を輝かせ、白く透き通るような表情だった。友美とじゃれあうごとに、彼女の姿は鏡から消えたり、また現れたりした。一度などは、彼女とまともに目が合ってしまい、由紀は恥ずかしそうに目をそらした。僕は皆に隠れて、由紀に淫らな行為をしてしまったような罪悪感にとらわれ、体が震えだすのを抑えることができなかった。
真人が友達に聞いたという海辺に着くと、そこはシーズン真っ盛りだというのに海水浴客がまばらにしかおらず、近隣の地主のプライベートビーチだと言われれば、そのまま信じてしまいそうな広さの砂浜でしかなかった。陸から砂地が始まって海になるまでに、ほんのわずかのスペースしかないので、もし誰かがスイカ割りでも始めたら、人は砂浜を歩くこともできなくなってしまうだろうと思われた。
僕らにとって幸運だったのは、若い海水浴客が大勢詰め掛ける海岸に必ずあって、流行りの曲を一日中鳴らし続ける、あのやかましいスピーカーがないことだった。
飲み物を売っている店、小さなビニールボートやビーチベッドを貸している店、そんなものが一通り揃ってはいたが、海の家らしきものは一軒も見当たらず、それも立地条件を考えれば当然の話だった。その代わりに、よしず張りの小屋が更衣室として立っており、その裏手に水道管が砂浜に突き刺さっているだけのシャワーが二つ、備えつけてあった。
僕らは皆、服の下に水着を着ていたので、更衣室を使うこともなくすぐに海に入って行った。長いドライブの間ずっと気の抜ける時がなかったので、体中の筋肉が硬直し、車を降りる時は痛みで声を上げそうになった。
海に入って足元の砂が波に流されるのを感じたり、波に揺られながら泳いだりするのが気持ちよくて、僕はすっかり満たされた気分になっていった。
由紀は学校の競泳用水着からお腹のまわりの生地だけを取り去ったようなおとなしいビキニを着ていた。それでも僕は、紺色の水着に包まれていない部分からのぞいている白い肌や、海水の雫が彼女の胸元や肩にてんとう虫のように乗っかってキラキラ輝くのが目に入ると、とても眩しくて見ちゃいられなかった。それで友美の方に目を向けようとすると、こちらは手のひらよりも小さな生地が申し訳程度に張り付いているだけで、いっそ裸でいてくれた方が、よっぽど刺激が少ないんじゃないかという状態だった。
僕はなるべく友美の方を見ないようにしながら、彼女の水着の値段を聞いてみることにした。それを聞いた真人はすっかり興奮した様子で、俺は絶対女向けの水着屋を始めるぞ、と拳を振り回して力説するのだった。
そうこうしているうちには、今朝まで抱いていた僕の不安はどこかへ消え去り、由紀が側にいることや、彼女に話かけることに何の抵抗も感じなくなっていた。だが今は、どちらかといえば彼女の方が、恥ずかしがって何もしゃべろうとしないように見えた。
僕の記憶の中の彼女より、ずっと控えめでおとなしくて可愛い女がそこにいた。きっと彼女は少し大人になったのだ。僕はいつの間にか空になった水筒を振りながら、そんなことを考えた。付き合い始めて間もない真人が一緒にいるせいだとは、思いたくなかった。
家を出てくるのが遅かったのと、途中で昼食を取ったのとで、僕らがひと泳ぎし終わった頃には午後三時を過ぎていた。帰り支度を始めている家族連れの姿が見え始めると、急に辺りは閑散としてきた。
僕たちは友美を中心として楽しい会話が続いていたが、彼女が由紀と真人ののろけ話を聞き出そうと熱心なのには閉口した。そのことに友美が触れようとするたびに、僕は別の話題に会話を持っていこうと、必死になって友美に話かけなければならなかった。
四時を過ぎる頃には、ほとんどの人が帰り支度を始めていて、貸しボート屋もあとは僕らのビーチベッドを回収するばかりとなっていた。真人が合図すると、四人で一斉に飛び起きてビーチベッドを返しに走った。それからシャワーで砂を洗い落とし、よしず張りの更衣室で着替えを始めた。小屋の床板はにわか作りらしく、一歩進むごとにギシギシと鳴って僕らを不安にさせた。
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