第二話 石狐の伝言 下

  ◆


「今日もいい天気ねぇ、子狐ちゃん」


 上から降ってきたのは、とても優しい声だった。

 暖かくてふさふさしたものが、自身を撫でてくすくすと笑っている。あんまり撫でるものだから、少しかゆくなってうっすらと目を開けた。


「やっぱり、可愛いお目々だわ」


 そこには、白い狐の顔があった。まなじりに赤い化粧が映える、優しい目をした狐だった。ただ、その白さは人工の塗料によるもので、優しい毛並はいっさいなく、代わりに固い石の体を持っていた。


「ふふふ、私、やっぱりあの人が好き。だって、こんなに可愛い子を連れて来てくれたんだもの」

「だあれ?」


 声が零れた。

 あ、と思うよりも先に狐が歓喜の声を上げる。石造りの手は、一切動いていないのに、柔らかな毛並がそっと撫でさすったことが分かった。そして、その毛並の持ち主が、石の狐であることも。


「意識を持ったのね、なんて素敵なのかしら。改めて初めまして。私は――」

 それが、石造りの狐と木彫りの狐の出会いだった。




 姉さま、と木彫りは石造りを呼んだ。呼ばれるたびに、石造りは微笑を浮かべて返事をした。その声が、あんまり楽しそうなので、木彫りはついつい何も用がなくても彼女を呼んだ。それでも、彼女は飽きることなく木彫りに答えた。

 そうして、お社の近くに立つお飾りとして、彼女たちは仲睦まじく過ごすようになった。

 お社に遊びに来る子供たちにも慣れてきたころ。木彫りは、お参りをする人が大勢いる中で、ある人が来ると石造りが浮き立つことに気が付いた。

 その人は、大きな手をした男性で、いつも木の葉や枝などをくっつけた作業着を着ていた。彼は、方々に跳ねた髪と薄汚れた格好の癖に、毎朝訪れては綺麗な所作で挨拶をした。お祈りも、他の人々よりも長く熱心だった。そして、石造りが嬉しそうに眺めるのも彼だった。


「姉さま、あの人がどうかしたの?」


 ある日、木彫りは聞いてみた。普段通り、石造りの足元から彼女を見上げて白い面を注視する。


「……あら、なんでそう思ったのかしら」

「だって、いっつもあの人のときだけ、姉さま、じーっと見てるよ」


 付け加えるなら、今にも彼に飛びかからんばかりに前のめりで眺めて口の中でそっと何かを言っているではないか。そう言うと、石造りは、喉の奥で笑った。


「おちびちゃんは、しっかり見てるのねぇ。えらいわ」


 褒められて悪い気はしない。木彫りは、動く事もできないくせに、ふふん、と自慢げに胸を張った。


「あの人はね、ここの管理をしてくれる人よ。他の人もいるのだけれど、あの人が一番長くお世話してくれてるわ」


 いつか、あの人にお礼を言いたいわね。木彫りの背中を、優しい毛並がゆったり撫でていく。木彫りは、石造りを見上げる。普段と違った様子に思えたからだ。


「あ、あとね。おちびちゃん、貴方を作ったのは彼なのよ。だから、人間で言うところのおとうさん、かしらね」


 その言葉を聞いて、木彫りははじかれたように参拝客へ、視線を戻した。男は、すでに背中を向けている。そのままずんずんと遠ざかっていく。


「待って」


 そう言おうとして口ごもる。いくら、木彫りに意識が宿ったからといって、それは同じような存在である石造りたちと言葉を交わせるようになった程度。徒人ただびとである彼に、声が届くはずもない。

 また来てくれるわよ。石造りの慰める声が遠く聞こえた。

 それから、木彫りもまた、石造りとともに彼を眺めるようになった。眺めるうちに、彼の人となりを知っていった。

 彼は、山へ行く仕事をしているために、あんな汚れた格好をしているということ。山へ行って、よい枝ぶりの木から木材を切り出してきていること。そこで出てしまう木端こっぱを使って、木彫りのような小物や置物を作っていること。そして。


「おかあさん、あのきつねさん、あかちゃんいるよ」

「ええ、そうよ。ここの狐さんがひとりぼっちだと淋しそうだからって、近所の篠田さんが作ってあげたんだって」

「へー。おじちゃん、きつねさんじょうずだね」

「そうね、じょうずだねぇ」


 木彫りが生まれた理由を知った。




 月日が経つのは随分と早い。

 そう感じるのは、壊れない限り立ち続ける付喪神だからだろうか。年が巡っていき、木彫りは、いつのまにか人型のような姿をとることができるようになっていった。


「見てみて。あたし、こんな風になれたよ」

「あらまあすごい。でも、二つだけまだ狐ねぇ」


 くるりと回ってみせると、三角の耳と狐そっくりの尻尾が風を受けてなびく。くすくすと石造りに笑われて、木彫りは、ようやく耳と尻尾が残っていることを知る。

 あーっまた失敗した。そう叫んで座り込む。やってくる人間の顔かたちや恰好を、真似て作っているのだが、どうにもこの二つだけは消えない。また、ようやく姿をある程度真似ることができるようになったが、徒人である彼に見えるようになるまではまだまだ遠い。


「んもう、姉さまがやってみせてよ」

「はいはい」


 そう言って、なにもない空間に降り立ったのは、長い黒髪に、泣きぼくろの優しげな風貌の女性。当時の人間たちの恰好を真似て作られた衣装は、完成度が高く、このまま彼等に溶け込めそうだった。


「どうかしら」

「すごーい! さすが姉様!」


 思わず木彫りが飛びつくと、石造りの人型はぼふんと音を立てて消えた。当然、木彫りは地面に顔を滑らせてしまう。そのあまりの痛みに、彼女の人型も同じく消えてしまった。


「これは、維持ができないのが悩みどころねェ。まあ、使う機会もないでしょうから、気にしないのが一番よ」


 いつも通り木彫りを撫でる優しい和毛にこげ。しかし、いつもならすぐに機嫌を直す木彫りは気落ちしたままだ。


「どうしたの」

「姉さま、あたし、知ってるよ。これは、人と関わりたいという気持ちがなければ使えないって」


 付喪神としては、本来なら必要ない力。人に化ける。妖怪の能力の一部として語られることが多い能力だが、それは多くが人と関わるために使われる。そして、妖怪が、付喪神が、同類と過ごすには必要ないものだ。


「ねえ、姉さまは、どうしてこれを使おうと思ったの?」


 本来の能力ではないこれを行うのは、随分と疲労する。長時間使おうとすれば、あとで一日中眠りに落ちてしまうほどに。

 それなのに、石造りは人型をとることができる。持続力はなく、人型を作り上げても徒人には見えないが、勘の鋭い人間になら見えるかもしれない。そんな程度でしかなかったが、その姿は狐を思わせることもなく、村娘そのものだった。


「おちびちゃん…」


 木彫りは、背を向ける。石造りの沈んだ声を聞きたくなくて、木彫りは幼い意識を眠りの底に落とした。


 いつか。いつか、あの人にお礼を言いたい。言葉が届くのなら、あの人に。

 眠っている木彫りを見ながら、石造りは囁いたのかもしれない。夢を見ないはずの木彫りの脳裏に響いた言葉は、石造りの切なる願いのように思えた。


  ◆


 謙は、布団を一組敷いてさっさと出て行ってしまった。残された篠田は、木彫りの狐のことを聞こうとしたが、無表情と無言で動く彼を呼び止めることができない。


「ううむ、参ったなぁ」


 あの狐を直すのは時間がかかることぐらい予想はついていたものの、一報もなく寝てしまうのははばかれる。かと言って、あまり遅い時間ならば、主人に声をかけるのはかえって迷惑だろう。そう考えて時計を探したが、この部屋にはついていないようだ。

 仕方ない。立ち上って、襖を開けようとした瞬間。


「おっと」


 これは失礼した。軽く頭を下げて主人が入ってくる。昼に見た浅葱色の着物ではなく、羽織に鼠色の着流しを身に着けている。彼は、寝所に遠慮することなく、どっかと座って篠田も座るように促した。


「遅くなってすまない。思ったよりも傷が深かった」


 そう言って、彼は懐から布に包まれた小物を取り出した。そっと手渡されたそれを、篠田は丁寧に一枚ずつ剥いでいく。


「おお……」


 布の下から現れたのは、小さな木彫りの狐。掌に収まる程度の大きさのそれは、彼が作り上げた当時の姿に変わっていた。

 ぴょこんと飛び出た三角の耳、太いしっぽは模様がはっきり出ており、自然な丸みで、子狐がお座りをした格好を再現している。


「どうだい……って、篠田さん」


 高松が声をかけても、彼は何も言わなかった。いや、何も言えなかったのだ。

 背中が震え、嗚咽を堪えて噛みしめた口の横、皺を辿って大粒の涙が零れ流れていく。梅干のような顔に伝うそれは、どんどん流れて、やがてぱたたと彼の膝と木彫りの狐を濡らしていった。

 高松は、そっと彼に手巾ハンカチを渡す。そして、狐の少女が懸命に老人の背中を撫でさすり寄り添う姿を見つめていた。


「いやはや、申し訳ない」


 いくらか落ち着いたらしい篠田は、照れ笑いを浮かべて高松から借りた手巾を返した。主人は、濡れてしまったそれを気にすることなく、懐へしまう。


「……理由を聞いても?」

 篠田は、ずずと鼻を啜って、頷いた。手の中の木彫り狐を撫でながら、微笑む。隣で、心配そうに顔を覗きこむ少女がいるとも知らずに。


「お社の話はしましたでしょう。この狐は、どうも石造りの狐に気に入ってもらえたみたいでね」


 いつ来ても、お社の傍に立つ石造りの狐の元で、子供に乱暴されることもなく同じ場所に置かれていた。

 ある日、お社に来た子供らに聞くと、「あの人が来たら元の場所に戻してね」って言われたからと話す。偶然と思い込みに違いないが、不思議なこともあるもんだと感心した。そして、ますます狐たちが愛おしく思えた。

 白い化粧を施した狐の脇に、ちょこんと座る小さな木彫りの狐。寄り添うような二匹に、地元の人間たちは、親子狐だと言うほどになった。愛される二匹の狐を中心に人々が集まったものだった。


「しかしね、時代の流れは、なかなかひどいもんです」


 デパート、ゲームセンター、コンビニエンスストア。そういったものが軒を連ねるようになると、途端に人の流れは変わった。子供たちは、学校から終われば塾に行き、あるいは自宅でゲームをする。大人も、朝早くから夜遅くまで、または、ずっと夜起きて働くようになった。

 憩いの場所として機能していたお社は、いつの間にか人の少ない閑散とした場所となってしまった。

 なんとかして昔の活気を取り戻したい。

 篠田は、地元の組合を頼って、お社を救う事を提案した。昔を知る老人ばかりとなっていた組合は、町おこしになるからと協力的だった。お社を掃除して、神社ほどの効力はなくとも霊験があると喧伝して、お祭りを企画した。しかし、それでも人の流れが戻る事はなかった。企画の結果がわかるたび、篠田は、狐たちを見に来てしまう。彼らは、昔と変わることなく寄り添っていたが、どうにも淋しそうに肩を寄せ合っているように見えてしまった。


「人が来なくなると、途端にお社が古びちゃって」


 屋根に穴が開き、土台が虫食いにやられ、供え物は取り換えられることが減った。その傍に鎮座する親子狐も、同じように傷が増えた。

 石造りに苔が生え、白く整えられていた顔もぼんやりとしたものに変わり、土台にはめ込まれていた珠も、いつのまに壊れたのだろうか消えてしまった。そして、傍に寄り添っていた木彫りも、虫や蜘蛛の巣が張り、特徴が曖昧になっていった。


「私がやれる部分はなんとかしてやろう。そう思いました」


 その矢先の出来事だった。仕事の途中、チェーンソーに誤って指を突っ込んでしまったのだ。吹き飛んだ指先は、骨すら切断されてしまい、ぼろぼろになった切り口のせいで、縫合することもできなかった。なくして初めて、五本の指が揃わないと細かい作業をすることができないと知った。いや、知識としては篠田も持っていた。しかし、実感では敵わなかった。

 もう、木彫り狐を直すこともできない。

 そう思うと、お社へ向ける足は重くなった。仲良く寄り添いあう、壊れかけの二匹の狐。その姿を見るたびに、あのとき、どうしてもっと注意深く行動できなかったのかと後悔の念が自身を襲った。


「そうなると、弱いものですねぇ。今まで欠かさずしていたお参りをすることができなくなってしまいまして」


 自然と離れてしまった。人々の憩いの場所だったお社から。積極的に動いていた篠田が、動けなくなってから数週間。その間に、お社の様子を見にいってくれた人物はいただろうか。

 篠田がそのことに気付いたのは、お社に落雷が落ちてからだった。


「いつのまにか、ほとんど私だけになっていたみたいなんです、あそこに行く人は」


 お社が半壊して、石造りの狐が砕かれてしまった。その情報を持ってきたのは、組合の人間だった。そして、それと同時にこう言い放った。

 もう、あそこを管理することは難しい。お社でさえお金も人もない尽くしだ。悪いが、なにも出来ない。


「衝撃でした。ご神体は、なんとか別の場所へ奉納するそうですが、あそこに再建することはない、と」


 傷が塞がってなんとか日常生活を送る分には問題なくなった彼は、すぐにお社の元へ飛んでいった。半壊のお社、砕かれた狐の像が転がり、お供えものも飛び散っていた。先日の落雷はしっかり傷跡を残しており、片付けですらままならないことを知らされる。


「そんな中に、この狐だけが残っていたんです」


 壊れてしまった、石造りの狐の手の下。丁度、木彫り狐を覆うように狐の手があった。そっと瓦礫を取り除くと、掌にすっぽりと収まるそれが、焼け焦げているもののしっかり形を残していたことが分かる。しかし、欠けた耳が痛々しく、なぜかこの狐が泣いているように見えた。


「そのとき、不思議とこう思ったんです。石造りの狐が、木彫りの狐を守ってくれたんじゃないかと」


 我が子のように可愛がっていたのではないか、と自身の都合の良いように考えてしまう。それでも、あの狐が残したものなら、篠田がなんとかして直さなければ。きっと、何か意味があって残してくれたのだろうから。


「だから、直していただいたとき、勝手ながらあの狐に何か恩返しができたような気になりました」


 相手は、言葉の通じない物だ。自己満足に違いない。そう言いながらも、篠田の表情はとてもすっきりしたものになっていた。


「ああ、そうだ。お支払ですが、いかほどでしょうか」

「……ふむ。支払か。それなら、そこの娘が決める」


 篠田の顔に怪訝な表情が浮び、彼が指した先、己の背後を振り返った。

 そこには、背中を丸めた少女がいた。麻布で出来た粗末な着物ともんぺを着て、肩を震わせる、こげ茶色と黄色の髪色の女の子。そっと顔を上げた彼女は、泣き腫らした目で、篠田を見た。


「君は」


 声をかけると同時に彼女の目から新たな涙が流れ落ちる。整った顔立ちをしており、吊り上ったまなじりには細く朱が入っていた。慌てて、彼女から流れる滴を拭うと、少女は驚いたように目を見開いた。そして、零れ続ける涙も、ようやく引っ込んだようだ。


「……姉さまが、いつも言っていたの。貴女を作った人は、とても素敵で優しい人よって」


 先ほどまでの涙で声が潰れて震えている。それでも、彼女は、必死に言葉を紡いでいった。


「姉さまはいつもね、貴方を見て淋しそうに笑いながら、必ずある言葉を投げかけたの。あたし、そのときに理由を聞いたわ」


 わからない話を続けているはずなのに、篠田は、その言葉に胸が詰まる。どうしてか、よく知る人物のような気がして、彼女の言葉に耳を傾けた。


「それを聞いて、あたしは一つ考えたの。人間の形をとって、貴方に姉さまが伝えたかった言葉を代わりに言おうって」


 微笑む少女の首に巻かれた赤い組紐。雷で焼けてしまって新しい物を、と不器用な手つきでなんとか巻くことができた。そのときの嬉しそうだった木彫り狐と、なぜか重なった。


「ありがとう。来てくれてありがとう、忘れないでくれてありがとう、直そうとしてくれてありがとう、木彫りのあの子を連れて来てくれてありがとう」


 にっこり微笑んだ彼女は、老人の肩へ腕を回して抱きしめる。そして、そっと彼の耳へ囁いた。


「あたしもね、貴方にこう言いたいわ」


 作ってくれてありがとう。

 その言葉が彼に届いた瞬間、少女は瞬きひとつのあいだに掻き消えていた。


  ◆


 謙の視線に、高松は嫌そうにしながら振り返った。


「よかったのか、だって?」


 よそった茶碗を受け取って、肘をつきながら箸を取り出す。行儀が悪いと窘められそうな姿勢のまま、彼は白米を詰め込む。一口飲みこんだところで、漬物へと手を伸ばした。


「まあ、今回は特別なことはしてないからな。ちょっと力を貸しただけ。殆ど本人だ」


 もともとの能力が高かったのか、具現化が足りなかっただけで、人型をとるには十分な力を持っていたのだ。力を貸すといっても大したことはしていない。そうなると、今度は、代償を受け取る理由が足りなくなってしまった。結局、彼女から別の物を貰っている。


「ん? 徒人がどうしてここに辿りついたかも聞きたいって」


 眉ひとつ動かしていなさそうな謙の微妙な動きを察知して、高松は言葉を続ける。


「謙は気付かなかったのか。あれ、もうすぐ彼岸に行く人間だよ。……まあ、木彫り狐がいたというのも理由に入るが、どちらかといえば、彼岸の方が大きいだろうな」

「だから、あたしは、すぐにでも伝えたかったんだ」


 彼が向うでも悩んでしまわないように。話に割り込んできた高い声。空いた場所へすっと入り込む華奢な足の持ち主は、黄色とこげ茶の混じった髪を持つ狐だった。


「彼岸が近くなると、人間はあたしたちが見えるようになるって聞いたことあるんだけどさ。主様は、ぜんぜんそういうのなくって」


 結局、あのあとは狐の姿を見ることもなく、帰っていってしまった。淋しそうにしていた篠田の背中をぽんぽんと叩いたのだが、気付かない。ただ、なにか吹っ切れたものがあったのだろう。あれだけ執着していた木彫りの狐に関して、彼は、貴方が持っていた方が狐たちに近そうだ、と微笑んで置いていったのだ。


「そういえば、ついていかなくてよかったのか」


 白飯を口に放り込んだ狐へ尋ねる。と、彼女は、にっこり笑って一言言い放った。


「いいのよ。姉さまの言葉も伝えて、あたしの言いたいことも言えた。これ以上一緒にいたらあの人の重荷になりそうだもの」


 伝えられたとはいえ、夜中の出来事。

 それも、幻のような人が急に現れて消えたという体験だ。夢を見たのだろうか、と今朝も首を傾げていたから、もしかしたら許されたとは思っていない可能性もある。それを、木彫りを見るたびに思い出されては敵わない。せっかくの苦労が水の泡だ。だから、彼の傍ではなく、別の場所を選んだ。


「これからは、あたしがここを繁盛させるんだからね」


 あたしがいたところは、商売繁盛が御利益よ。

 そう続けて、腕まくりをして胸を張る。意気込む狐を見て、高松は大きな溜息を吐いた。


「そこまで気合入れなくても…」


 その返答が気に入らないのか、狐の頬が膨らむ。

 いいじゃないの、いいとこなんだから繁盛させるべきよ。いやいや、そんなにいらないから。やいのやいのと言い争いが始まった。


 軽快なやり取りを背に、謙は立ち上がる。二人してたくさん食べるようなので、炊いた米が足りなくなりそうだった。お盆を手にして、台所へ入る。窯の様子を見ようと屈みこんでふと立ち止まった。

 数秒、その場に立ち尽くすと、彼は、唐突に別方向へ歩き出す。

 辿りついた先は、篠田が泊った六畳間の部屋。真ん中には、昨日は片付けていた卓袱台が鎮座している。客が来る部屋だから、と常時設置してある籠には、少なくなったものの、いくつかの菓子類が入れられていた。

 それを見て、謙は割烹着のポケットから小物を取り出す。

 かたん。隣に置いて、彼は、満足げに目を細める。


 目の前には、曲線が刻まれた灰色の小さな欠片。そして、木彫りの狐が寄り添うように置かれていた。



 依頼主:木彫り狐 願い事:石狐の伝言 お代:済

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宿屋豆八記憶綴り しえず @lunasya

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