銀の膜

真花

銀の膜

 上野公園でボートを漕いでいたら急に、風景の端の方の色がなくなった。

 おや、と思う内に色のない範囲が拡大する。

 脱色の前線は風がそよぐ程度の勢いで徐々に私の方まで迫り、水面も、ボートも、私以外の全てが色を失った。私自身にまでそれが及ぶのではないかと慌てて、自分の手を見るが、暫く待っても手は元の肌色を保っている。

「何なんだ」

 よく見ると、色がないのではない。うっすらと銀の膜を被せたようになっている。

 子供の頃に銀を摂り過ぎると脳に銀の膜が張って、狂い死ぬと言われたことを思い出した。しかし、銀などそうそう食べる機会もない。それでも体質的に銀を貯めやすいのかも知れない、だとしても、脳の銀と視界の銀を直線で繋ぐのはいささか乱暴な気がする。脳に銀があるからと言って世界が銀になるとは限らないのは、脳に血管があるからと言って世界が血塗れにならないのと互角だろう。

 空の青さも少し銀色がかっている。雲も銀色だ。

 池から見える植物も全て銀。ボートも銀。服も銀。

 水は水銀のようだ。試しにオールで飛沫を立ててみるが、飛び散った一粒ひとつぶも綺麗に銀色になっている。

 見えるところだけなのかと、鞄の中を見るも、やはり銀の膜は張っている。スマホも銀だが、ディスプレイは薄いのかちゃんとその中が見える。文字も読めるし、写真は銀の膜越しではあるが元の色のようだ。

 池の中を泳ぐ魚も軒並み銀色だが、そもそも魚は銀色のものも居るので変化のせいなのか自信がない。

 ボートを漕ぐ。早く確かめたい。人間はどうなのか。

 船着場を眺める位置まで来たら、係員が銀色なことが見えた。もしかしたら服や帽子だけなのかも知れないと弱気な期待をするも、顔も目も、髪も手も銀の膜の内側だ。

「ハイ、オ疲レ様」

 声まで微妙に金属的な響きになっている。完全にロボット調と言う訳ではないが、肉声と言うには一律に硬い。

「どうもです」

 私は銀の桟橋に上がり、銀の陸まで歩き、通行する全ての人が銀色になっていることを確認し続けながら帰路に就く。一旦自宅で落ち着いて考えてから次の行動を決めるべきだ。

 上野公園から家までは二十分程度の道のりで、御徒町の繁華街を抜ける。どの店も一様に銀色をしていて、漬物なども銀。張ってあるチラシも銀。車も自転車も。フルメタルな車はちょっと格好よかった。

 空腹だったので、銀色の食事しか出て来ないとは思いながらカレー屋に入った。

 案の定、銀の米に銀のカレーがかかっているものが提供された。スプーンが銀なのは元のままかな。

 見た目は食欲を一切刺激しないが、匂いがある。香りは多少の金属っぽさを含みながらも、カレーであることを私に理解させる。銀色の福神漬けを添えて、口に運ぶ。

 味はほぼカレーだ。

 少々、後がけのスパイス程度に銀的な味が乗っているだけだ。これくらいなら食べられる。

 カレーを掬っても、その下も、その下も、ちゃんと銀だ。

 結局食べ切る頃には銀のスパイスには慣れて、美味しいと思った。

 会計のときに十円玉も銀色になっていて紛らわしかった。

 家に着き、自分から出たもので、自分から切り離されたものはどうなるのかを調べるのにうってつけの、便をする。私の体から離れたものは、私から出たものでも銀の膜が張るようだ。

「さあ、どうしたものか」

 排便の感覚は元の通りだったことを受けて、射精の感覚が変化していないか確認をする。どうやら私の体の感覚は銀には侵されてはいないと考えて良さそうだ。

 すると、やはりおかしいのは私ではなくて世界の側なのではないかと結論したくなる。

 しかし、断面や水滴、カレーの掬った後と言った、世界の中に初めて顔を出すものが瞬時に銀の膜に覆われると言うのは、それを認識している私側の問題ということを支持するものだ。

 ネットで検索してみても、同じようなハメになっているという書き込みはない。もし全員が同じように世界を見ているのなら誰かがアップしてもいい筈だ。おかしいのは私なのか。私以外の全員がおかしいということはないだろう。

 恐らく私は本能的に今自分に起きている現象を理解したいと思っている。これは異常事態だ。だから、その次として、元の世界の見え方に、銀の膜のない世界に、戻りたいと思っているのだ。どうしてだろう。今のところ困ったことは何も起きていない。食べられる、便も出せる、イける。見える、聞こえる、喋れる、嗅げる。かと言って、ずっとこのままと言うのが、何となく嫌だ。このままであってはいけないという理由がないのと同様に、このままがいいと言う理由もない。

 専門家に相談してみよう。

「もしもし、あのさ、急に世界の色が銀色だけになっちゃったんだけど、これってどうすればいいのかな」

「今日ハサ、日曜日ダゼ」

 平日に掛け直せと言うことか。ちょっと切羽詰まってるんだけどな。

「会ッテ話ス時間ガアルジャン、会オウヨ。面白ソウナ話ダ」

 面白そうってのは心外だが、疑って悪かった。声の感じが変わるせいなのか感情を正確に読み取れないのかも知れない。


 指定された喫茶店に時間通りに到着する。相変わらず街は銀の膜の下。

「ヨウ。見タ目ハイツモ通リダナ」

「お前が精神科医であることを見込んで、相談に乗ってもらいたい」

「モチロン、ソノタメニ来タ」

 彼だって白銀の世界の住人にしか見えない。最初に出されるグラスのコップの中の水の銀と、ブレンドコーヒーの銀が微妙にニュアンスが違う。慣れれば見える質感と自分の中のイメージの質感を一致させることが出来るようになるのだろうか。

 池で起きたことから今までの観察と実験を詳細に話す。

 フム、と精神科医は考える。

「何カニ迫害サレテイルトカ、自分ガ世界デ一番偉イトカ、ソウ言ウ感覚ハアルカ?」

「いや、特に。昨日と今日で俺のこころに変化はないよ」

「キッカケニナルヨウナ出来事ハ、ココ最近ニアッタカ?」

「普通に平穏に日々を過ごしている。仕事も、プライベートも」

「誰モ居ナイ所デ声ガ聞コエタリ、匂イガシタリハ?」

「全くない」

 銀色の精神科医はきっと白衣を着ているときにするような質問をしているのだろう。問診はその後もしばらく続いたが、私が思い当たる症状ないし兆候は一切見付からなかった。

 フム。もう一度精神科医は考える。

「医療もでるノ精神科ノ範囲デハ異常ハ検知出来ナイ。後ハ器質、ツマリ脳自体ニ異常ガナイカヲ調ベルカ、神経内科的ニ精査ヲスルカ、ココロノそふとうぇあノ問題ヲ疑ッテ精神分析等ヲスルカダナ」

「どれも何だか嫌な感じだけど、勝算はどれくらいあるのか?」

「器質ハ何カ引ッ掛カルカモ知レナイ。精神科デヤッテモイイケド、神経内科ノ範疇デ調ベル方ガ包括的デイイト思ウ。分析ハコノ症状ニハ効果ハ期待出来ナイネ。イジクリ回サレルダケダロウ」

 検査をされまくると言うのもいじくり回すに含まれるような気がしたが、彼にとっては違いがあるようだ。

 さて、どうしたものか。

「脳をある程度調べるのはやってもいいと思う。だけど、俺の脳にも銀の膜が張っているかも知れないんだ。その状態で検査って出来るのか?」

「モシ本当ニ金属ガ脳ニ在ルナラバ、MRIハ撮ッテハイケナイ。必ズ最初ニCTデ金属ノ有無ヲ確認シナイト」

「しないと?」

「MRIヲ撮ッテイル間ニ脳ガしっちゃかニナル」

「シッチャカって、脳がぐちゃぐちゃになるってことか?」

「ソウ」

 それは困る。外傷が全くない状態で脳だけが滅茶苦茶と言う、推理小説だったら喜びそうな死体になるのはまだ早い。

「マア、困ッテナイノナラ検査モ治療モ必要ハナイ。奇妙ト共ニ生キルトキノこつハ、ソノ奇妙ヲ解決スルコトトカ、自分ノ生活ニ合ワセルコトトカ、ソレニヨッテ悲劇ノ主人公ニナルコトトカヲ、人生ノ目的ニシナイコトダヨ。ソレハソレトシテ自分ノ人生ヲ止メズニ進メルコトダヨ」

 恐らく、治らない病気と共に生きる人達に散々言って来たことなのだろう、言葉が訓練されたかのように淀みがなかった。それでも、有り難い。うっかりすれば私は銀の膜の謎と心中しかねなかった。

「ありがとう。で、私は今後、この世界の変質によって死ぬのかい?」

「恐ラクソレハナイ」

「分かった。じゃあ検査もしなくていいや。君の言う通り、銀は銀として、私は私の人生を謳歌するよ」

「ソレガイイ」

 私達はいつものように近況を報告し合い、疑似科学の空想を一緒に練り上げたりして、笑って、別れた。

 街は夕日に銀が反射して、橙色の神話のようになっている。色のほぼ均一なこの世界の方が、カラフルな世界よりも秀でているところもあるのだな。それとも、ただ初めてだからこうやって見とれているだけなのかも知れない。百万ドルの夜景だって、毎日見ればただの景色になるだろう。

 きっと今私が宇宙飛行士になって地球を眺めたら、銀の球なのだ。宇宙から見る地球の青さに感動するのならばそれはもう諦めなくてはならないが、地球が見えること自体や、ガリレオ的に地球が丸いことを自分の目で証明すること、宇宙に地球が浮かんでいると言う状態にこころが動くのだとすれば、私だって問題なく感激出来る筈だ。しかも私の銀の膜は質感の違いをちゃんと伝えてくれる。銀が全てを奪う訳ではないのだ。


 家に戻ると夕食まで時間がまだあったので、部屋着に着替えてベッドに転がる。ベッドも部屋着ももちろん銀色なのだが、手触りとか柔らかさが失われた訳ではない。快適に、スマホをいじる。

 メールが来た。恋人からだ。

『今夜あいてる? 先週は忙しくて会えなかったから、今日は一緒にご飯食べようよ。何かおいしいって噂の店があるから、そこに行かない?』

 行く行く、と返事を書きながら、ふと手が止まる。

「文字だと、言葉に金属が乗らない」

 文面から想像する恋人の声は元のままだ。伝わってくる感情が銀世界が始まる前と同じ強さで届く。

 過去のメール、ネットのニュース、小説、文字で出来ているものは全て変わりがない。

 途端に、色のある世界が恋しくなる。自分だけがずっと銀の膜に覆われた中で生きて行くことがとても切ないことのように思える。同時にそれでも直接的にやり取りの出来る方法が、いや、文章だから間接的だけど、銀を介しない方法があると言うことが価値のある発見のように思う。私は決して孤独ではないのに、銀に隔てられてその中で道が発見されたために、独りのように感じたのだろう。

 精神科医もそうだが、恋人も私が独りではない証明のような存在だ。両親や兄弟も大事だが、そう言う与えられた関係ではなくて、自分で築いた関係の方が、私が人の間に居ると言うことを強く教える。


 恋人はしっかり銀色だ。おいしいと噂の店も細部に至るまで銀の膜が張っていて、料理もやはり金属のスパイスが乗っていたが、美味だった。

 恋人は家まで付いて来て、セックスを求めて来た。

 銀の服を脱がせて、銀の下着を剥ぎ、銀の肌に触れる。目を瞑ればいつもと何一つ変わらないのだが、私は目を開けていた。銀の肢体が指の動きにシンクロするように律動する。恋人が小さなオーガズムを何度も重ねた後に、体を重ねる。銀色の姿を目に映しながらするセックスは、いつものようにアイデアを試すと言うものではなく、いつもの通りがどうだったのかをトレースするような行為になったが、幾ばくかの冷静さを脇に最後まで問題なく進行した。相対的な感覚になっているのは、多分彼女が銀色だからではなくて、私が銀色を意識しているからだ。いずれ銀色が普通になって、当たり前になったら、この距離感は元の通りになる筈だ。

 恋人は行為の後に裸でくっつくことを好む。彼女にはまだ銀色のことを言っていないから、枕物語で語るのもいいかと思いながら、腕枕に彼女の頭を引き寄せて、ぺたりと彼女が私向きにひっつく。彼女が何色をしていてもこの位置関係からは分からない。銀の膜が張ってしまったからと言って、彼女への気持ちが変わる訳でもない。きっとすぐにセックスも元のように自由になる筈だ。

「ねぇねぇ、何かあったの?」

 鋭い。ものすごく大きな何かでありつつも、私は同じように日々を暮らす何かだ。

「うん、あった」

「それって、私に言い辛いこと?」

「いや、そんなことないよ」

「言いたくなったら教えてね」

 今すぐに言ってもいいのだが、指摘されると何となく言い辛い。いや、言ってもいい話なのだけど、何も問題はない筈なのだけど。

 彼女はひっついたまま。

「何か、世界が変わるような体験ってしてみたいよね」

 唐突だが、正確に私に起きたことを突いている。

「友達がさ、結婚したんだよね。ちょっと世界が変わったって」

 何だ。そう言う話か。

「世界が急に大きく変わっても、自分ってのはあまり変わらないものかも知れないよ」

「ちょっと変わったら、自分は大きく変わるかもよ?」

 それはそうかも知れない。少しの変化の方が、自分が変わる余地があると言うのは、大き過ぎる世界の変化を前に変わらない自分を見ていて、バランスが取れているように感じる。世界側の変化と自分側の変化の積が一定であると言う式が浮かぶ。

「ちょっと変えてみても、いいかもな」

「期待してるね」

 彼女の期待してる、が、結婚を期待してる、と言うのは文脈からも分かるが、彼女の声自体に乗っている感情と言うか、音色の響きと言うか、そう言うものからも読み取れる。

 いや、待て。

 声に銀の膜がない。

 私は布団を剥ぐ。布団は間違いなく銀色だ。直前に視野に入った全てのものも銀色。

 首を傾けて彼女自体を見る。

 肌色。黒い髪。どうかしたの、と私の顔を覗き見る瞳は黒と白。

 仕組みが分からない。全然分からない。くっついている面積のせいなのか。体から出たものが銀の膜に覆われるように、体にくっついたものは膜から離れるのか。それは試してみれば分かることだ。だけど、違ったら、もし違ったら二度と彼女の色を見ることは出来ないのかも知れない。永劫に続く銀の世界に一人ぽつねんと居続ける未来を思うと、やっぱり、それでもやっぱり、今この世界に只二人、色があると言うことが大切で、少しでも長く失いたくなくて、そして彼女がそのもう一人になっていることが嬉しくて。

「ものすごくどうかしている。でも、もう少し、くっついていてくれないか」

「望むところだ」

 この今が永遠になればいいのに。でもそれでは私は人生を進めることが出来ない。これは銀の膜の副作用に溺れている状態だ。だから私は、勇気を振り絞って彼女の色が確定している今から抜け出さなくてはならない。彼女の原色に耽溺するところから踏み出さなくてはならない。それが私の、二人の未来を手に入れる唯一の方法だ。

 理解した。それでも、私は、もう少しだけこのままで居たいと言う気持ちから抜け出せないままでいた。



(了)

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