第3話 一分間の出来事


『一分間の出来事』 


 本のタイトルである。

 芥原が読んでいる本だった。

 五つの短編が収録されている。


『優れない』

『とらんぷ』

『ランホーム』

『射手の技』

『クルクルクルクル』

 

 芥原は目次を眺める。

 すごくどうでもいいことが引っ掛かっている。そういう確信があった。ものすごくどうでもいいことなのは間違いない。気づく意味などまるでない。

 だが気になる。

 絶対にどうでもいいことなのに。

 

 絶対にどうでもいいことを気に留めながら芥原は借りた本を返しに、下校の序で、校内の図書室に向かっている。


     ◇ ◇ ◇


 投手の手から硬球が放たれる。純粋な速い軌跡は、直線を描き、捕手の許へ。しかし、それは待ち構えた打者によって阻まれる。

 四番を背負う打者は嗤った。

 ――これはホームランだ。

 青年は嗤い、腕を振るった。圧倒的な集中力。一点に凝縮した意識の照準。脇目も振らず打ち込んだ反復れんしゅうが織り成す身体の運動。ホームランという確信が実行される。

 しかし、打者によってバッティングに投じられた瞬間的な極度の集中を……何かがその集中を揺らした。

「――――」

 快音。

 伸びる飛距離。

 意識が揺れても、それは確かにホームランだった。しかし方向が違った。打球は校庭から校舎へと向かい――窓から中へ。

 窓が開いていたのは幸運だった。割れずに済んだ。

 一応のホームラン。だが打者は塁に進もうとしない。周囲は窓ガラスの無事に気付くと、『回れ』と打者に歓声を上げた。

 しかし動かない。

 何かの衝撃に、四番の意識は止まっていた。


     ◇ ◇ ◇


 演劇部が部室で練習をしている。

 演目は『ウィリアム・テル』で一人の役者の頭にはリンゴが載せられている。これから、そのリンゴを主役が打ち落とすというシーンの練習である。

 無論、本当に射抜くわけではない。今日用意した道具は本物だが、打ち落とすのは演出で済ませる予定なのだ。

 ウィリアム・テル役に抜擢されたのは、元弓道部員である。道具も彼の所持品で、本物があるなら小道具の参考にするためということで、持って来た。

 そうした経歴から選ばれた彼は、しかし凄く緊張していた。

 ――誰かを演じるのはこれが初めてだ。

 弓道場では感じたことがない緊張。

 彼は深呼吸をする。

 大丈夫だ。集中しろ。

 弓道で培った集中力を発揮する。

「ちょっと暑いな」

 部員の誰かが言って、窓と扉を開けた。

「それじゃ、このシーンから再開で。衣装や全体のイメージを確認したいだけだから、台詞だけ、今日のところは弓は持っているだけで、危ないから引かなくていいからね」

 演出を担当する部員が指示を出す。

 ウィリアム・テルは集中していた。


     ◇ ◇ ◇


「なんで校内にボウリングのピンが捨ててあるんだ?」

 まとめたゴミを集積場に捨てに来た生徒が呟いた。一緒に来た生徒が「あ、本当だわ」と呟いて、物珍しげに持ってみる。

「なんか軽いわ、これ」

「偽者?」

「ピンに偽者とかあるんかね」

「演劇部の要らなくなった小道具とか?」

「かねぇ。ちょっと貰ってく?」

「なぜ」

「暇つぶしにボウリングが出来るじゃん」

「玉がないだろ」

「つまーり、あれば出来るわけじゃん?」

 

 無人の廊下にピンが並べられる。

「意外とないなぁ。ボウリング玉の代わりって」 

「そりゃそうだろ」

「なんかないかね」

「ピン自体軽いんだから、軽いボールでいいだろうに」

「それもそうだわな」


「で、なんでゴルフボールなんだ」

「ゴルフ部の奴から借りてきた」

「知り合いがいたっけか?」

「いーや。偶々ゴルフバッグ担いでいるのがいたから声掛けた」

「お前のそういうところ才能だと思うわ」

「何が?」

「人生に突き当たりがなさそうってこと」

「……? まあいいや。結果的に借りてこれたのが、これだけだったんだよね」

「まあ、下手に床が傷つきそうなものよりはいいか」

「だしょう?」

 こうしてゴルフボールがピンに向かってクルクルと投げられた。


     ◇ ◇ ◇


 奇術愛好会の会員が手品を披露している。

「この手品はストライクと私が呼んでいるものです」

 彼らは道行く生徒に大道芸的に手品を披露する。そうして腕を上げるのが、この会の習わしだった。

 仮面にシルクハット。加えてローブ姿の手品師はカードをかざす。

「貴方が引いたのは、こちらのカードですか」

 否定される。

「それではこちらのカードですか」

 また。否定される。

 手品師は、

「おや、それは困りましたね」

 と、ゆったりと困惑を示す。絶対に本当だと思われる焦りや困惑を見せるな。真偽を曖昧に。マジシャンは泰然たれ。それが会の教え。

「ああ。思い出した。こちらにもカードがありました」

 そういって手品師はシルクハットを持ち上げた。


     ◇ ◇ ◇


 ゴルフ部の部員は焦っていた。

 最近の成績が良くないからだ。中学生の頃、自分は天才と呼ばれていた。自負もあった。結果も出した。

 だが高校に入ってからはさっぱりだ。飛距離が伸びない。身体の変化に感覚が伴っていない。上手く芯を捉えられない。意識的な練習は同じ結果を積み重ねるだけだった。何も変わらない。

 何がダメなのか。

 何が悪いのか。

 それさえも解らない。

 だから知りもしない生徒に「ゴルフボール貸して」と言われて、咄嗟に貸してしまった。ボール自体はいくつもある。

 練習の上で問題はない。

 けれど、精神的には意味があった。その瞬間に、何も考えずに貸してしまったという事実。ゴルフから離れられるという、たった一瞬の反射。 

 そんなことではダメなのだ。

 イライラした。

 このイライラを他人に向けたくはなかった。他人に見られたくもなかった。だから部室に向かおうとしていたのを止め、廊下を人気のないほうに進んだ。

 感情が収まるまで。

 誰もいない廊下の突き当たりで。

「くそったれ」

 毒づきながら、彼はクラブを取り出し素振りの練習をした。本当は屋内で構えてはいけなかった。だが、そんなことを気にしてはいられなかった。

 

     ◇ ◇ ◇


 校内を芥原は進んでいく。手には『一分間の出来事』。これから返却する本である。内容は短編集。

 様々な才能の一分間を描いた物語。

 とある才能があろうとも他の事に挑戦するもの。一時的な不調に向き合うもの。感情と能力で迷うもの。淡々とした求道者。そして才能を意識しないもの。

 いろいろな人たちの物語。

 しかし、不思議なことに最後の章だけ目次にない。第六の短編が欠けている。だから芥原は「なぜだろうか」と考えている。

 図書室の前まで来た。

 芥原は最後にもう一度目次を開いてみる。

「あ」

 そして気付いた。


     ◇ ◇ ◇


 窓から侵入したボールは一直線にリンゴを載せた役者の頭部に向かっていた。誰も反応すらしていない、一瞬の出来事。ただ一人、反応したのは極度に集中していたウィリアムテル。彼は、反射的に弓を引き、硬球を射抜いた。

 公示などを画鋲で留めておくボードに、硬球が射止められる。

 遅れて、「ひっ」と悲鳴が上がり、リンゴが頭から落ちた。ウィリアムテルは残心の姿勢をとっていた。

 それは射手いてのポーズとして完全に決まっていた。


 落ちたリンゴは、悲鳴を上げた役者のかかとにぶつかって蹴りだされ、扉から外に転がっていく。クルクルクルクル暫く転がって。

 廊下のボーリングピンをなぎ倒した。

 その横を的外れなゴルフボールが転がっていく。

 

 ゴルフボールは転がっていく。そして不意に止まった。しかし本を手に持ち上の空で歩く男子生徒に蹴り飛ばされ、別の行き止まりの廊下に転がっていく。

 突然転がってきたゴルフボール。

 それは素振りしていた生徒のフォームと奇跡の一致を見せた。ゴルフボールがこれまでとは比べ物にならない速度で宙を舞う。

 打ち上げた生徒は、しまったと考えてはいなかった。

 何で、とも考えていなかった。

 今の感覚だ、と何かの手応えを発見し、言葉に出来ぬ驚喜に震えていた。


 打ち出されたゴルフボール。それは数度壁を跳ね返り、廊下を曲進して、最後にはマジシャンの持ち上げようとしていたシルクハットの上部にぶつかり、それを撥ねとばした。

 シルクハットの内側に収められていたトランプの束が解けて宙に舞う。

 突然の事態であった。

 ひらひらと52枚のトランプの蝶が落ちていく。

 そのうちの一枚をマジシャンは掴み取る。

 不慮の事態にも冷静に、

「貴方が選んだのはこのカードですか」

 観衆に手品を魅せ終える。


 四番打者は止まっている。周囲の人間から肩を揺すられ、進めと促されても、微塵も動くことはない。彼の視線の先には、とある女子生徒。大量の荷物を抱えて校舎に入ろうとしている。

 初めて見かけた、その横顔。

 脇目も振らず野球だけに没頭してきた青春の――その、彼のなげうっていた、これまでは擲っていられた別の側面が、不意に青年を強く捉えて離さない。

 

     ◇ ◇ ◇


「ストライク」

 第六の章題を発見し、芥原は呟いて頷いた。

 不思議な満足感があった。


 図書室に入る。

 カウンターには誰も居ない。

 そこへ大量の本を抱えた女子生徒が入ってきた。

「あ、すみません。旧校舎に本を取りに行っていたので。返却ですか?」 

「はい」

 芥原は頷いた。

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芥原な日々 馳川 暇 @himahase

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