④理想の異世界転生
あれから二〇年近くが過ぎた。
過去一〇回ほど高校生活をやり直してチートに等しい能力を得た相上旺太郎だったが、最終的に選んだのは平凡な人生だった。全国模試で一位になることもなければ、海外の大学に留学することもなく、甲子園で優勝することもなかった。もちろん女優の彼女ができることも。
アニメとゲームに熱中した無難な高校時代を過ごし、そこそこの大学に入学し、ありがちなキャンパスライフを楽しんだ。居酒屋のバイトもした。小さなサークルに入って貧乏旅行をしたり、バカみたいな飲み会をした。サークルで出会った女の子と付き合い、分かれ、バイト先の後輩と付き合い、分かれ。澱のない健全な女性遍歴を辿り、都内に本社を持つまあまあの企業に就職した。一〇〇人に聞けば一〇人くらいは知っていそうな知名度の会社だ。就活では人並みに苦労した。相上旺太郎は甲子園の優勝投手であったが、最後の世界線には存在しなかった。ボランティアで表彰されたこともなかったし、海外に留学したこともなかった。高校時代にほぼ完璧にマスターした英語だけはちょっとした武器になったが、グローバルなこのご時世においては決定的な力は持っていなかった。
かくして旺太郎は、まあまあの会社でほどほどに急がしいただのサラリーマンとして働いた。オタク趣味は続けていて、週末は撮り溜めたアニメを家で鑑賞するのが楽しみの一つだった。
社会人になった年に出会った女性と二年の交際を経て結婚し、子どもが二人できた。自分に似て根暗な娘と、妻に似て快活な息子だった。家庭を持つと人生に少しだけアクセルがかかり、仕事ぶりはほどほどから上々の出来になっていった。順調に昇進し、給料も上がり、生活が盤石なものになり、子どもたちも自由気ままに育っていった。息子には時々野球を教えている。甲子園のマウンドを制したかつての剛速球は失われてしまったが、勘は少しだけ頭に残っていたので、息子からよく「お父さんすげえ」と褒められた。ささやかな喜びだった。
人生はすっかりチートでハーレムなものから遠ざかっていた。だがそのなんてことない平凡さが、旺太郎にとってはこれ以上ない幸せだった。
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旺太郎にとって、なんてことない三八年目の夏。
子どもの夏休みに会わせて旺太郎たちも休暇を取り、年に一回の家族旅行に来ていた。行き先は毎年違う。家族全員の気分で決める。国内の時もあれば海外の時もある。
今年は旺太郎のボーナスが潤沢だったので海外旅行だった。行き先はアメリカの西海岸。いつだったか踏むかも知れなかったアメリカの地を、旺太郎は三八歳で初めて踏んだ。
染みついた英語で家族を先導してやると、父親の意外な能力を目の当たりにして三人とも驚いていた。思春期に入りかけた娘ですら、目をまん丸くしていた。旺太郎はちょっとしたチート気分を味わって得意気な気持ちだった。
西海岸を満喫した。海で泳ぎ、ハリウッドに行き、でかいハンバーガーを食べ、メジャーリーグの試合を見た。相上家が観戦したその日、打席に立っていたホームチームの四番は、知った顔だった。旺太郎が甲子園を制した世界線で、最後に打ち取った相手。そろそろ現役引退の噂も立ち始めた彼は、そんな噂をはね除ける特大アーチをスタンドに叩き込んだ。割れんばかりの歓声の片隅で、旺太郎はかつての夏の風景にほんの少し思いを馳せた。
あっという間の一週間が過ぎ、いよいよ最後の日になった。チェックアウトを済ませたのち、相上一家はホテルのプライベートビーチで海納め。早めに上がった旺太郎は、妻と二人でビーチにあるスタンドバーで優雅にカクテルグラスを傾けていた。遠くに見える紺碧の水平線と豆粒大の子どもたちとを眺めながら飲む酒はいつもより美味しかった。
「……幸せね」
肩に寄りかかってきた妻がぽつりと呟く。不意打ちで甘えてきた彼女に、旺太郎はまるで出会った当初のようにときめいた。
「ああ」
と短く返すのが精一杯なほどだった。
昼飯時が近付く頃になり、お腹を空かせた子どもたちが海から上がってきた。一週間ですっかり日焼けした顔に弾けるような笑みを浮かべている。息子の手にはキラキラと輝く何か。綺麗な貝がらでも拾ってきたのだろう。
「おとーさん! みてみて! めっちゃ綺麗なの拾った!」
息子が誇らしげに旺太郎に指しだしたもの。それは、
デススイッチだった。
ぞっとして言葉を失った。何でこんなところに。
「お前……それ」
「海で拾ったの! いいでしょ!」
最後にデススイッチを見たのはいつだったか。忘れもしない、高校一年生の春だ。チートハーレムを諦め、転生から決別した日。旺太郎は川に向かってそれを投げた。
流れ流れて海に出て、太平洋を渡って遥か数千キロ先のアメリカ西海岸にまで流れ着いたというのか。
ありえない、と否定したかった。だが何をするよりもまず旺太郎の全身は凍りついてしまっていて、唇を動かすことすらままならない。
「……旺之丞」
震える声で息子の名を呼んだ。
「それは危ないから、捨てなさい」
水に沈んでいた三八年前の代物が今更機能するとは限らない。だがあれはここではない神の世界の産物。壊れていない可能性は十分すぎるほどにあった。
息子は普段とは違う父の様子に、警戒するように手を引っ込める。
「旺之丞、いい子だから」
「……やだ」
「離しなさい」
「やだやだやだ。これは僕のアルファベッターチェンジャーなの!」
どうやら彼は日曜特撮モノの変身アイテムだと思い込んでいるらしい。
「旺之丞!」
「やだやだやだ!」
息子は激しく首を横に振る。旺太郎は少し身を固くした。下手に刺激しすぎれば、ちょっとした拍子にスイッチを押されかねない。
「あとでおもちゃ買ってあげるから。銃のやつ……一つ、いや二つ買ってあげる」
モノで釣る作戦に出た。旺太郎の教育方針には反するが、この際四の五の言ってはいられない。とにかく息子の手からスイッチを取り戻すのが先決だ。
「……ほんとに?」
「ああ。約束する。お父さんは嘘を吐かない」
息子は手のひらのスイッチと父の顔とを交互に見比べた。すぐ目の前にあるのに手が届かないのがもどかしかった。
「わかった」
最終的に息子は頷き、旺太郎は肺の空気を空っぽにするくらい全力で安堵の息をついた。
だが。
「最後にこれだけやらせて?」
「なんでもやりなさい。ちゃんとにお父さんにそのスイッチを渡すなら」
「ありがと!」
息子はそう言って飛び跳ね、デススイッチを頭上高々に掲げた。嫌な予感がした。
「空の戦士、アルファベッターブルー!」
毎週穴が空くほど見つめている特撮ヒーローの変身ポーズ。息子はデススイッチをその変身アイテムに見立てて振り回し、最後に、
「チェーンジ、オン!」
実に愉快そうにカリフォルニアの空に向かって叫び、勢いよくスイッチを押した。
そして旺太郎の頭は異国の地で、二〇年の時を経て再び爆散する。
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二〇年前と何一つ変わっていなかった。
雲を敷き詰めたような幻想的な風景。視界には淡いヴェールのようなものが幾重にも広がっている。鼻孔を刺激するのは甘ったるい香り。
旺太郎は震える足を一歩前に踏み出した。靴底が柔らかい足場に沈む。まるで爬虫類の腹を踏みつぶすような心地がして、全身に怖気が走った。
「嘘だ……嘘だ……」
蜘蛛の巣を払うようにヴェールを掻き分け、気色の悪い足場を懸命に前に進んだ。きっと夢を見ているのだと思った。こんなはずがない。自分は三八の中年で、妻がいて娘がいて息子がいて。ボーナスを奮発して海外旅行にやって来ていて。ごく平凡な人生を歩んでいて。
当てもなく歩き回ってやがて辿り着いたのは、
「久しぶりだねえ! まあまあ、おっさんになっちゃってえ」
小さな水面と、その畔に寝転がる酒飲みの女神。
「インバ………ネッラ」
「何年ぶりだ? 一〇年? 二〇年くらい?」
「僕は死んだのか?」
足を引きずるようにして女神に近付き、冗談であることを願いながら問いかける。
「そりゃそうでしょ」
「そん、な………」
あまりにもあっけらかんとした答えを受けて旺太郎は、自分の両手を見つめた。どこからどう見ても血肉の通った、自分自身の手だった。三八年分の皺と肉がついた手。死んだはずがない。こうして今、生きている。
「今……すぐに……すぐに」
焦るあまりに言葉がつっかえた。
「わかってるよ。わかってる。転生値だよね? いやあ、今回は凄いと思うよ?」
「違う……違う!」
転生値などいらない。もうチートハーレムは諦めた。今更異世界に転生したいなんて気持ちはない。願うのはただ、一刻も早く現世に戻してもらうこと。それもトラックに轢かれた高校一年生の春じゃない。ついさっきの、三八歳の、家族旅行の夏だ。
しかしインバネッラは旺太郎の言葉など聞こえていないというような口ぶりで、池に手を突っ込んだ。ちゃぽんと水が跳ね、彼女の手の動きに従って幾つもの波紋が水面に膨らんだ。
「おっほぉおお!」
女神が喜々として叫んだ。
「凄い! 凄いよ! この転生値は凄い! 見て見て!」
必死に手招く女神に向かって首を振る。涙が溢れ出る。もういいのだ転生値は。そんなモノはいくら高かろうと低かろうとどうでもいい。とにかくすぐに家族の元に戻してくれ。
「インバネッラ! 僕を今すぐ──」
「ほら! 転生値、七五〇〇」
衝撃的な数値に、旺太郎は一瞬言葉を途切れさせた。耳慣れない数字が聞こえた。
「いま、なんて」
「七五〇〇。すごいよ、これは。やったじゃん! チートハーレム達成だよ!」
「なな、せん……」
池の反対側からインバネッラが駆け寄って来て、旺太郎の手を取った。彼女が旺太郎に注ぐ目線は、まるで偉人に向けるそれと同じような輝きに満ちていた。
「七〇〇〇台なんて初めて見たよ。今日まれにいろんな人ら来らけど、君が初めてだよ」
旺太郎は湖面に浮かんだ紋様をぼーっと眺めた。思考が白く飛んだ。
「なるほどねー、これが正解だったんらね。今までの君の死に方は全部予定調和だったんらよ。死ぬと決めてから死んでた。だからそこに悲惨さは全くなかった。最初から決まっていた死に方だったからね。でも今回は違う。死のうと思って死んだんじゃなかった。死にたくなかったんだ、君。しかも人生の絶頂とも言えるような幸せなときに死んだ。これ以上悲惨な死があると思うかい? ないと思うね、インバたんは」
旺太郎の記憶の片隅に、遠い昔に聞いたインバネッラの言葉が思い浮かんでいた。彼女は言っていた。五〇〇〇以上の転生値を叩き出した者について。
「喜ぶんだ旺太郎! 君の転生値は七〇〇〇オーバー。すなわち文句なしの転生対象者! 君は来世で最強の英雄と崇められ、万人から尊敬され、どんな種族の女も抱き放題になる! これはちょっとやそっとじゃ達成出来ない偉業だよ! 誰もが憧れるけど、誰もが叶えられるわけじゃない。現世で頑張った人だけに与えられる、極上のご褒美なんだ!」
「いや……だ……いやだ……いやだ、やめてくれ」
声を振り絞る。涙が止まらない。血のような熱い涙が幾筋も頬を伝って流れ落ちる。
「何を言ってるんだい? 念願のチートハーレムだよ。君の夢だよ」
「もういい。もういいんだ。チートハーレムはもう──」
「遠慮するんじゃないよー!」
インバネッラは旺太郎の心中など一切考慮する気もなく、門出を祝福するように背中を押した。全身から力が抜けていた旺太郎は、抵抗することもできずに前のめりにつまずいた。
水面に向かって倒れ込む。
もう手遅れだった。抗う間もなく旺太郎は不可思議な紋様を描く池の中へと落ちていく。鮮烈な光りの飛沫が全身を包み込む。脳裏に妻のやさしい微笑みが浮かぶ。娘のふて腐れたような顔が浮かぶ。息子の豪快な大笑いが浮かぶ。最後の三八年間で味わってきた辛いことや幸せなことが次々に浮かんでは弾け、光にかき消される。平凡だが素晴らしい人生。ほどよく辛く、ほどよく楽しく、最高に幸せだった相上旺太郎の三八年。
だが全ての光景は水に呑まれた砂像のように、脆く、跡形もなく消えていく。
意識の片隅にインバネッラの声が聞こえた。
「さあ! 旺太郎! 存分に楽しむんだ! これが君の──理想の異世界転生だよ!」
理想の異世界転生 桜田一門 @sakurada
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