③これが僕のチート能力

「今ごろになって入部希望か」

 椅子にどっしりと構えた野球部顧問兼監督は、低い声で言った。体育教官室の空気がピリピリと振動するようだ。この緊張感には何度経験しても慣れることができなかった。

 旺太郎はごくりと唾を飲み込み、ゆっくり頷く。

「はい。野球部に入部させて下さい」

 何回繰り返したか分からないこのセリフ。最初はこの一言を言うのすらままならなかった。

「中学のポジションは?」

 ドスの利いたその声が旺太郎の心臓をぎゅっと絞り上げる。日に焼けた濃い顔も相俟って、監督はまるで任侠界の大物みたいに見えた。

「何もやってません」

 そう答えると、監督の顔が訝しげに歪む。

「未経験者か」

 入学前の三月から練習に参加する者も多い中、五月の半ばに入部届を出す未経験者。いったいどういうつもりだろうかと疑ってかかるのは、数十人の部員を抱える野球部のトップとして当然の反応だった。

「でも熱意はあります」

「熱意すらないようでは困る」

 これは決まり文句だった。最初に聞かされたときはあまりの正論に萎縮して二の句を継ぐのに随分と時間がかかった。だがもう大丈夫。旺太郎はスムースに次の言葉を口にする。

「よろしくお願いします」

 たったこれだけ。監督は難しい顔で旺太郎が差し出した入部届けを睨む。

 都内ではそれなりの強豪である旺太郎の高校の野球部。そこに突然現れた未経験者の一年生。果たして監督がどういう決断を下すのか、結論はもう何十年も昔から決まっている。

「わかった。今日の練習から参加しろ。主将には俺から話しておく」

「ありがとうございます」

 深々頭を下げ、旺太郎は体育教官室を出る。

 部屋の狭さと緊張感による息苦しさから解放され、旺太郎はふうっと一息ついた。教官室の中よりは幾分か涼しい空気が制服の隙間から忍び込んできて心地がいい。

 静まりかえった教官室前の廊下に、同じクラスの野球部が歩いていた。舘伝人である。旺太郎の前の席に座っている、声のでかい坊主頭。別の世界線で三年間勉強を教えていた相手。

「相上くんじゃん」

「やあ。舘くん」

「体育教官室で何してたん?」

 昼練上がりらしい汗の浮いた頭をスポーツタオルで拭いながら、舘伝人はいかにもスポーツマンらしい爽やさで話しかけてきた。

「野球部に入部届け出してきた」

「え? 野球部に? 今ごろ?」

 思いがけない切り返しに舘は仰け反るようにして驚いた。危うく取り落としそうになったスポーツタオルを手で押さえ、彼は目を丸くしたまま訊ねる。

「相上くんって中学の時野球やってたんだ?」

「やってないよ」

「え? 未経験者?」

「いや、正確には未経験者じゃないんだけどね」

 旺太郎が苦笑いで言うと、舘は困惑したような表情で首を傾げた。

「野球はもうかれこれ二〇年ぐらいやってるよ」

 そんな旺太郎の言葉を冗談だと思ったのか舘は、

「何だそれ。うけるわ」

 と笑う。

 もちろん、冗談ではなかった。


**************************************


 東大でダメなら、甲子園。

 酷く安直な考えかも知れないとは思いつつも、旺太郎は野球部に入った。中学校からオタク街道をひた走っていた彼に野球の経験などない。プロ球団だって正式名称を言えるのは二つか三つ。ポジションなんて知らない。知ってる野球用語はイチローとホームランぐらいだった。

 当然最初の入部の時は壮絶だった。練習は地獄のように過酷で、何度挫折しかけたかわからない。バットすらまともに振れなかったし、狙ったところにボールを送ることもできなかった。ただ白い練習着を泥で汚すだけの毎日だった。それでも異世界転生だけを頭に、無我夢中で三年間を乗り切った。甲子園どころかベンチ入りすらも果たせなかったが、野球どころか運動もやったことがない人間なのだから当然だった。

 旺太郎は一回で理想の異世界転生を果たそうなんて甘いことは考えなかった。

 青春の終わりにむせび泣くチームメイトの横で頭を爆散させること七回。血と涙と汗の三年間を何度もやり直した。

 三回目でレギュラー入りを果たし、五回目の時には二年生エースとしてチームを牽引。六回目には一年生からエースとして投げ、初の甲子園出場。七回目では甲子園八強まで進出した。

 そして実質二一年間の経験を経て、旺太郎の高校球児生活はついに八回目を迎えた。


**************************************


 八月二十二日は、甲子園の決勝に相応しい晴天だった。西宮の空に雲はなく、ただ無限の青ばかりが広がっている。

 宿泊先から球場へと向かうバスの中で、チームメイトたちは緊張感からか言葉少なだった。普段は騒がしい坊主頭たちが誰一人として口を利かない。夢にまで見た決勝の舞台が、誰にとってもまだ現実だと認識出来ていないようだった。

 旺太郎も同じだった。かつてない緊張感で全身が痺れている。八回目にしてようやく辿り着いた甲子園の決勝。ここに至るまで万全の手を打ってきたつもりだ。後は優勝という最後の駒を確実に手に入れるだけだ。

 窓の外の快晴を見て心を落ち着けていると、隣に座っていた舘が唐突に話しかけてきた。

「最初は二〇年分の経験があるなんてつまんねーこというな、コイツって思ってたけどさ。実際にここまで来ちまったらお前のあの冗談が本当のような気がしてきたわ」

「本当だよ」

 旺太郎は笑いながら答えた。

「そういうキャラ嫌いじゃないぜ」

「ならよかった」

「感謝してるよ、旺太郎。お前がいてくれたからここまで来れた」

「そんなことないよ。僕だけじゃない。みんながいたからここに来れたんだよ」

 なんて月並みなセリフだと自分でも思う。しかしこのセリフが一番チームの志気を高めるのに効果的だ、と旺太郎は過去の経験から知っていた。

「頼りにしてるよ、名キャッチャー。僕をしっかりリードしてよ」

「任せろ。お前の女房役は俺だけだ。球団のスカウトがお前と俺をニコイチで取らないと意味がないって思うくらいに、完璧にリードしてやる」

「任せたよ」

 旺太郎が肩を叩くと、しかし舘は寂しそうな表情を浮かべた。

「でもさ、お前プロ行かないんだろ? もったいねーよな、そんだけの実力あるのに」

「他にやりたいことがあるんだ」

「留学するんだよな、海外に。どこだっけ? コロンビア?」

「コロンビア大だけど、国はアメリカ」

「へえ。俺には全くわかんねー世界だけど、凄いってのだけはわかるよ」

「それだけで十分だよ」

「甲子園のエースで海外留学か。恐ろしいな………てか柿久ちゃんはどうすんの?」

 舘の口から出たのは、旺太郎の恋人の名前だ。校内一と呼び声高い同級生の美少女で、女優として何本ものドラマで活躍する今最も波に乗っている芸能人の一人でもあった。

「どうするって?」

「留学のこと知ってるんだよな?」

「知ってるよ。啓子も俺と一緒にアメリカ行く」

 旺太郎は声を落としていった。

「……マジで?」

「これオフレコな。この間ようやく事務所の承認が降りたばっかで、まだどこにも情報流してないから」

 周囲を見渡す仕草をして口元に指を当てる。舘は衝撃が強すぎたのか、目を見開いてただ首をカクカクと縦に振った。マスコミにネットで速報が流れそうな爆弾情報である。

「元々ハリウッド目指してたらしいし。いい機会だからって」

「まじかよ。まじかよ。え? もしかして結婚?」

「それもまあ考えてはいる」

 さらりとした旺太郎の肯定に、舘は激しくむせた。

「週刊誌に売りてえ」

「売ったらきっと黒い服着た男の人たちが舘の家にやってくるよ」

 やがて甲子園の苔むした外壁が見えてきた。沿道にはマスコミのフラッシュと、旺太郎たちの高校の応援団。横断幕が夏の風に踊っていた。

 旺太郎の中で緊張感が少し高まる。バスはスピードを落とし、駐車場に乗り入れる。がたん、と車体が揺れて止まった。空気の抜ける音がしてバスの扉が開く。チームメイトたちに続いて旺太郎もバスを降りた。熱気が身体を包み込む。心臓の鼓動が少し早まっていた。


**************************************


 身体の後ろに伸びた腕を筋肉と関節を柔らかくして引っ張ってくる。軸足の右は甲子園に根ざした大木のように。振り上げた左を前方下に向けて強く踏み込んだ。歯を食いしばり、下半身をねじ込む。視線は正面。舘がど真ん中に構えたキャッチャーミット。ボールの縫い目が指先から剥がれていく。ペリペリと音が聞こえてきそうだ。

 音も熱も、何もかもが消えていく。マウンドは真空のような状態になる。

 リリース。投げた瞬間にストライクを確信する。一五三キロのストレート。

 ボールはバッターを置き去りにしてストライクゾーンのど真ん中を貫いた。ミットの革の音が、観客の声援や吹奏楽の演奏よりもハッキリと球場に響きわたった。

 甲子園の外側で、解説が絶叫する。

『試合、終了──! 仮名高校、夏の甲子園初優勝! エース相上、投げきりました。九八年の松坂大輔以来となる、決勝戦でのノーヒットノーラン達成! 高校球史にまた一人、新たな怪物が誕生しました!』

 ようやく。

 旺太郎は青空を仰ぎ見た。丸く切り取られた甲子園の空は高い。それがそのまま異世界へと繋がっているような気さえした。

 舘がマスクを投げ捨てて走ってくる。一塁が、三塁が、ベンチが。チームメイトたちが走り寄ってくる。応援席にいる最愛の恋人の姿も見えた。柿久啓子は周囲の目を欺く変装姿で口元を両手で覆っていた。

 ようやくだ。

 二四年に亘る長大な高校生活の果てに、ようやく掴んだ切符。これがきっと理想の異世界転生を決める最後の一枚になるだろう。

 熱狂のマウンドに立ち尽くし、旺太郎はポケットに入れていたデススイッチを引きだした。

 歓声の底でスイッチを押す。

 旺太郎の頭が紫色に膨れあがり、マウンドに血の本塁打が爆散した。


**************************************


 幾度となく嗅いだ甘い香りを認識した瞬間、旺太郎はもこもこの上を全力で走り出す。

 甲子園優勝、海外有名大進学、売れっ子女優の恋人。

 旺太郎が八回目の高校生活で手に入れた最も強力な三枚の切符だった。他にも全国模試で一位になり、文化祭のステージでバンドを組み、地域のボランティアで表彰され、書道コンクールで金賞を受賞した。三年間を何度もやり直し、そこで自分のステータスを幾つも磨いた。

 仮名高校が排出した文武両道の超天才。そんな人間が甲子園優勝のその瞬間に、全国中継の目の前で、哀れ無残に爆死する。これ以上悲惨な死があるものか。いや、ない。

「インバネッラ!」

 池の畔に座って女神は、いつもと変わらぬ様子で酒をがぶがぶ飲んでいた。

「待ってたよ~」

 赤い顔をにへにへと緩ませている。

「転生値! 転生値を今すぐ!」

 旺太郎は必死の声とともに畔に滑り込み、水面を覗き込んだ。

「まあまあそう慌てない、慌てない」

 インバネッラは池を優しく掻き回し、異世界紋様で描かれた数字を浮かび上がらせる。ゆるゆると形を変えていく水面へ旺太郎は大きく身を乗り出した。今すぐにでもこの中に飛び込んで転生値を引き摺り上げてしまいたいほど気持ちが急いていた。

「──おっ!?」

 インバネッラが驚いたような声を上げる。

「いくつですか!」

 旺太郎は顔を上げた。

「三八〇三」

 聞き間違いかと思った。

「さん……」

「三八〇三」

 インバネッラはもう一度言った。酒に浸った舌とは思えない、流暢さで。しっかりと。

 三八〇三、と言い切った。

「残念だったねぇ……」

 呂律の回りきっていない舌に戻って女神は言う。呑気なほろ酔い顔でビール瓶を傾けながら。

「なんで……僕は……」

 手を尽くした。スポーツでも勉強でも、ありとあらゆる面で努力を重ねた。三年間の高校生活を八回。二四年間にも及ぶ期間、一心に頑張ってきた。甲子園の優勝投手で、海外大学への留学が決まっていて、恋人が売れっ子の女優で。こんなにも栄華を極めた高校生などいない。

「でも惜しいじゃん? あともうちょいだよ。あと何回かやり直したら行けるんじゃない?」

「あと何回って……そんな……だって……甲子園で……」

 全力以上を尽くしてなお辿り着けない理想の異世界転生。池に浮かんだ得体の知れない紋様に無性に腹が立って、旺太郎は力いっぱい水面を叩きつけた。水柱が上がって紋様は崩れる。だが波紋が収まればまた元の位置で同じ紋様を描き続けた。お前がどう足掻こうと転生値は変わらない。そうやってどこにいるとも知れない神たちに嘲笑われているような気がした。

「思うにねえ」

 インバネッラはビール瓶を置き、

「何か大事なものが欠けてるんだよねえ、君の死に方には」

「だいじな、もの」

「うん。大事なもの。それが見つかるまではきっと、どれらけがんばっても駄目だろうね」

「大事なものって」 

「それは教えられないよ。インバたんは優しい女神だけど、時には厳しさも必要でしょ。何でもかんでも教えてたらね、人間駄目になって死んじゃうよ。あ、死んでるか。なはははは」

 薄ら寒いジョークで一人転げる女神の前で、旺太郎は呆然と座り尽くしていた。笑う気になど到底慣れず、こちらの心情を一切汲まないインバネッラに怒る気も湧かなかった。

「あ、でも聞いて聞いて。転生値が三〇〇〇あったらかなーりいい来世を歩めるよ。まずね、王族に生まれるのは間違いないよ。生活には何不自由しないし、生まれる王家によってはハーレムだって不可能じゃない。まあ相当に運が悪ければクーデターが起きるかもしれないけど」

「王族」

 心が揺らがなかったわけではない。王族は魅力的だ。今の至極庶民的な生活と比べれば遥かに華やかで豪華な暮らしができるだろう。

 だが旺太郎は王族が霞むほどの存在を知っていた。異世界において神の如き無双ぶりを発揮することができる「チートハーレム」というものを知っていた。王族への転生に、首を縦に振ることはできなかった。

 インバネッラは旺太郎の無言を答えと受け取った。

「ならやり直しだね。次か、また次くらいにはチートハーレムを達成できるといいねぇ」

 池の畔に座ったまま女神の柔らかな息吹を受けた。全身に酒の匂いが染みつくようだ。次第に視界の中心からインバネッラの姿が遠のいていく。旺太郎は王族への転生を望まなかった。だが、やり直しを望んだわけでもなかった。決めきれないどっちつかずの思いを抱えたまま、現世へと帰還した。


**************************************


 時間はまた三年分巻き戻る。

 最初の事故に遭った高校一年の春。五月八日の火曜日だ。恰好も野球部のユニフォームから学ラン姿に変わっている。甲子園優勝投手からただの根暗な男子高校生に戻った。さまざまな才能を持った文分両道の相上旺太郎はまだいない。これからまた三年かけてやり直さなければならない。前回の記憶や知識が引き継がれるのは有り難いが、身体は元に戻っているのだ。

「……ふう」

 知らずの内に大きな溜息が出た。目の前を旺太郎を引き損ねたトラックが駆け抜けていく。何気なく横を向くと、ついさっきまで恋人だった柿久啓子が通り過ぎていくところだった。

「啓子」

 無意識のうちに名前を呼んでしまった。

「……ん?」

 怪訝そうな彼女がこちらを向く。目元は少し旺太郎を怪しんでいた。まだ付き合うどころかまともに会話すらしていない。ひょっとすると同級生だということも知らないのだ。

「呼びました?」

 敬語だった。当然の事実が、何故か旺太郎に堪えた。

 何かきっかけがあれば彼女は自分のことを思い出すのではないか。別の世界線にいたことを思い出すのではないか。そんな根拠のない考えが浮かんだのは疲れ切っていたからだろうか。

「啓子のハリウッドデビュー楽しみにしてる」

「……何の話ですか? 意味が分かりません」

 彼女は旺太郎を冷たく突き離し、気味の悪いものを目にしたような様子で去っていった。

 歩道に一人立ち尽くし、旺太郎は逃げていく柿久啓子の後ろ姿を目で追っていた。

 やはり何もかもが元に戻ったのだ。旺太郎以外の何もかもが元通りにきっかり三年前と同じ状態に戻った。例外は一つもない。過去に幾度も体験した当たり前の事実を、もう一度確かな事実として自分の胸に刻み込んだ。

 ここからまた積み上げていかなければならない。野球部に入り、文化祭でバンドをやるメンバーを集め、啓子にアプローチをかけ、日々の勉強も怠らずにこなす。文武両道のスーパー高校生としてのキャリアをまた新しく始めるのだ。

 そして旺太郎はある一つの事実に気がついて、何もかもが馬鹿らしくなった。

 自分の今の状態こそがチートではないだろうか。

 運動もできて勉強もできて、音楽も、芸術も何でもこなせる。万能の逸材。度重なるやり直しを経て築き上げた今の自分こそが、かつて求めていたチートに近いのではないだろうか。

 いつの間にか自分はチートを手に入れていたのだ。

 チートはまだ見ぬ異世界ではなく、飽きるほど見慣れた現実世界にあった。そしてたぶん、ハーレムもこの世界のどこかにあるのだろう。そんな気がする。

「もういいや」

 旺太郎は独りごち、肩からかけていた鞄を持ち直した。チートハーレムを諦めた瞬間、憑き物が落ちたかのように身体が軽くなった。

 小走りに駅に向かって走り出した。三年分巻き戻った身体は、少し走っただけでも息切れする。だがそれがどこか心地いい。

 そういえば最初のやり直しからずっと、『異世界ランデヴー』を見ていない。何度高校生活を繰り返しても、『いせラヴ』は五話で止まっている。五話ですら、最後に見たのはもう何十年と昔のこと。今夜放送の第五話を腰を落ち着けて見直し、凍りついていたただの相上旺太郎の人生をやり直そう。

 駅に向かう途中に川がある。澱んだ水が流れる、東京の汚い川。橋に差し掛かると旺太郎は立ち止まった。ポケットに入っていたデススイッチを取りだし、川に向かって放り投げた。

 青色のスイッチは軽やかに回転しながら宙を舞う。死をもたらすその鉄の塊が、傾き始めた太陽の光を受けて小さな星のように輝いた。小指ほどの水柱を立てて水中に消えたその瞬間を、旺太郎はもう見ていなかった。

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