②東大生がみんな異世界転生できたら困る

 翌朝の教室で、旺太郎は手のひらに横たわるデススイッチを見つめていた。ライター大の金属製のスイッチは目が醒めても枕元に転がっていて、昨日の出来事が何一つとして夢ではないことを明らかにした。

 昨日の夜から悲惨な死に方について考えていた。

 チートでハーレムな来世を過ごすにはいかに凄絶な死を迎えるかが重要だそうだ。

 凄絶な死とは何だろう。例えば生後間もない赤ん坊が交通事故で死んだらそれは悲惨な死だろうか。あるいは両親の虐待にあって衰弱死したら。一転、身寄りのない老人がアパートの一室で死後一年くらい経ってから見つかったらそれは悲惨な死だろうか。何が悲惨な死なのかわからない。あそこから去る前にインバネッラへ聞いておくべきだった。

 朝の教室に続々とクラスメートたちが登校してきて、騒がしさが増す。隣の席では女子たちが昨夜のドラマについてきゅんきゅんきゃぴきゃぴと黄色い声を上げている。前の席には朝練を終えた野球部が、坊主頭に汗を光らせながら菓子パンをむさぼり食っていた。

 しばらくして一限の教師がやってきて授業が始まった。教壇に立った長身の英語教師は、授業を始めるに先だって、中間テストが二週間後に迫ったことを話し始めた。

 教室中からブーイングが出て、隣のクラスも同じような声を上げているのが廊下越しに聞こえてきた。旺太郎の前方に座る教室の野球部が、一際でかい声を上げて首を振っていた。隣の女子も「さいあくー」と仲間内で文句を言い合っている。

 そんな中でふと思った。

 今この状況で突然死んだらどうだろう。クラス全員が見ている前で、クラスメートが一人、突然死ぬ。白昼堂々公衆の面前で人が死ぬ。連日メディアに取り上げられることが間違いなしの大事件だ。世間の玩具にされ、悲惨と呼べる死に方ができるのではないだろうか。

 旺太郎はブーイングで盛り上がる教室の隅で一人別の熱意を燃やしていた。生徒たちのおふざけに困惑する英語教師を見上げて、デススイッチのボタンに指をかける。

 恐怖はなかった。

 昨日確かに異世界の存在を示唆する妙な空間に足を踏み入れ、インバネッラという女神の姿を認めて、デススイッチという怪しい道具を授かった。死ねばまたあそこに行けるという確証もあった。なによりこんな現実からはとっとと消えて、早く異世界でチートでハーレムな転生を果たしたいという思いの方が強かった。

 指に力を入れ、ぐっとボタンを押した。

 突然、頭の奧で「みょんみょんみょん」と音が鳴り始めた。旺太郎は最初、それが自分の頭から聞こえてくるものだとは気がつかず、音の発信元を探して教室に首を巡らせた。

「……相上くん?」

 隣の席の女子が、青白い顔で旺太郎を見つめていた。旺太郎自身には知る由もなかったことだが、彼の頭はこのとき茄子のような紫色に染まって、一回り大きく膨らんでいた。その内にクラスが次々と旺太郎の異変に気がつき、ざわつき始めた。ようやくその頃になって旺太郎は自らの顔に手を当てた。

「……僕の顔がなに?」

 と思った次の瞬間。旺太郎の頭が炸裂した。間の抜けた音とともに紫色のナス頭が弾けて消えた。壁や床に鮮血が花開く。細切れになった脳味噌がその上にがぷるんと貼りつく。旺太郎に残ったのは顎から下の身体だけ。やがてそれは、彼の足下にできた血の池の真ん中に、人形じみた味気なさで倒れ落ちた。

 一拍置いて絶叫が教室を満たしたのだが、旺太郎は既に聞いていなかった。


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「それはただの自己満足じゃん」

 ビールをぐびぐびとやりながら、インバネッラは開口一番にそう斬り捨てた。

 例によってあの白い空間である。雲と甘い香りで満たされた、異世界への玄関口。頭を弾けさせて死んだ旺太郎は、無事に再びこの空間にやって来ることができた。しかし待ち受けていた大酒飲みの女神は、丸池のほとりに腰掛けて酒を呷りながら、心底呆れたような表情で冒頭の文句を吐き捨てたのだ。

 女神様は旺太郎の死に様を見ていたらしい。教室で、クラスメートと教師の前で、白昼堂々死に果てる。経験少ない旺太郎がまず思い至った「悲惨な死」だったのだが、どうやらインバネッラには物足りなかったようだった。

「よく考えてよ? ただ大勢の前で死ぬだけで悲惨なわけないでしょ。むしろ目の当たりにした人の方が悲惨だよ。もし大勢の前で死ぬだけでよしとしたら、異世界はチート無双がうじゃうじゃ生まれちゃうよ。そんなの怒られるもん、インバたんの上位の神が。インフレ起こし過ぎだぞバカやろー、ってさらに上位の神に神罰下されちゃう」

「なら悲惨に、惨たらしくってのは……」

「はー。そーいうのはね、自分で考えるもんだよ、ふつー。人に聞いてばっかいるとね、脳味噌が固まって石になって死ぬよ」

「……もう死んでますし」

「うるさい」

 インバネッラの放ったビール瓶が右目にぶすりと突き刺さる。

「揚げ足取ってると、転生値が高くなってもチートハーレム転生させてあげないよ」

「あ、それは困ります」

 慌ててビール瓶を目から引き抜いて、旺太郎は姿勢を正した。インバネッラは新しいビールに口をつけて言う。

「ま。特別に教えてあれよう。インバたんは優しくて美しい女神だからね」

「……あ、はい! そうですね!」

「悲惨な死ってのは、死んだときの状況じゃないんだよ。どちらかと言えば死ぬまでの過程。どういう経験、体験を経て死んだか、ってこと」

「なるほど?」

「いまいちな反応だね。簡単に言えば、人生の絶頂期、血の滲む努力の真っ最中、夢半ば、幸へな毎日、順風満帆な日々に訪れる死のことだよ。これまれに積み重ねてきた努力や苦労が、水の泡となって消える。瞬間的な絶望に悲惨さが凝縮されるんだ。わかった?」

「なんとなく、わかります」

「ならよし」

「逆の場合はないんですか?」

「逆の場合?」

「苦しんで苦しんで、一筋の希望もなく絶望の果てに死ぬこと。そこに悲惨な死は生まれないんですか?」

「その場合もありえるよ。でも君の場合そっち方向で勝負を仕掛けるのは少し難しい」

「そうなんですか?」

「だって君の人生は良くも悪くも平凡なんだもん。両親はいるし、ちゃんと学校に通えているし、大きな怪我もなければ病気もない。虐待もいじめも受けてない。国が戦争状態でもない」

「なら自分でそうなるように仕向ければ」

「仕向けるって、どうする気なんだい? 両親に虐待して下さいって頼む? クラスメートに自分をいじめさせる? それとも国に戦争を起こさせる? 君だけの力じゃどうしようもないでしょ? 環境を劣悪にするためには本人の努力以上に、外的な力が必要なんだよ。幸福に生まれることも不幸に生まれることも等しく難しいんだ」

 インバネッラは何ともまじめくさったことを語りながらビールの瓶を傾けた。

「それにね、自分から環境を悪化させればそれは結局のところ自業自得とみなされて正しく評価されない可能性もある。だから難しい。まあそれでも、最初の君のようにただ無気力に希望も絶望もなく無駄な時間を過ごしている人間よりは、高い転生値を出すだろうけどさ」

「無駄な時間って……」

 心を遠慮なく突き刺す一言だったが、旺太郎はぐっと言葉を飲み込んだ。

「一応今回の転生値を見れみよっか」

 インバネッラは瓶を放り捨て、足下の水面に手を突っ込んだ。

「……ふむ」

「いくつですか?」

「九十七」

「それは……いい方?」

「うんこ」

 女神の評価はシンプルに残酷だった。けれども旺太郎は、ゴミからうんこに昇格しただけまだマシだと捉えることにした。無機物から有機物に変わったのだ。大いなる進歩である。

「さて。君が望むのなら、何回でもチャンスを与えるけど、まだやりたい?」

 インバネッラは新しい瓶を創出し、指先で蓋を弾く。ぽんっと飛んだ王冠が空中で踊るように回転した。旺太郎の行く末を占うコイントスのようだった。

「もちろん」

 王冠は池の中に落ちる。表が出たか裏が出たかはわからない。

 転生値九十五などといううんこみたいな値で妥協するつもりは毛頭ない。目指すのはクソみたいな現実からの脱却。チートでハーレムな理想の異世界転生のみ。転生値は四○○○近く必要なのだ。そこに至るまで延々やり直すに決まっている。

 インバネッラは旺太郎の答えににこりと笑って頷き、息を吹きかけた。


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 校門の前に立っていた。

 ポケットから取りだしたスマホで日時を確認すると、今日は五月八日の火曜日。『異世界ランデヴー』第五話の放送日であり、旺太郎が死んだはずの日だ。

 果たして目の前を、トラックが轟音とともに通り過ぎてていく。


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 翌日の教室で教師から中間テストの話題が出た。死んで生き返った旺太郎にとってはすでに聞いていた話だが、周りの人間にとっては当然初耳のこと。教室には初回と同じく、ブーイングの嵐が吹き荒れる。

 二度目となる試験日程や範囲の説明を上の空で聞いていた旺太郎の頭に、ふと閃きが走った。インバネッラは言った。悲惨な死とは血の滲むような努力や幸せの日々の最中に訪れる死のことだと。となれば二週間後に迫った中間テストは恰好の舞台になりはしないだろうか。

 中間テストに備えてひたすらに勉強をし、テスト当日に死ぬ。折角の努力を水泡に帰し、名誉と栄光の可能性を丸めて捨てる。十分に悲惨な死だろう。

 閃きを実行に移すのは迅速だった。旺太郎は家に帰ると早速机に向かった。見たいアニメもやりたいゲームもあったが、チートでハーレムな転生のためならば捨てるのは容易かった。嫌いなはずの勉強がまるで苦にならなかった。なぜなら夢焦がれた異世界転生が、一般人がフィクションの中に見いだすしかない現実が、手を伸ばせば届く場所にあるのだから。

 

 四時に帰宅し、諸々の片付けをして四時半から勉強を開始する。二時間勉強した後、七時半までに夕食と風呂を済ませ、また二時間みっちりと。九時半から三〇分だけ息抜きをして、十時からまた勉強再開。暗記を中心に進める。十二時に勉強を終え、歯を磨くなどして十二時半に就寝。五時半起床。昨夜の内容の復讐を含めて六時五〇分まで勉強し、七時から朝食開始。一時間で登校の準備まで完了させて、八時に家を出る。学校では授業の合間や昼休みも無駄にしない。授業以外の時間は全て勉強に充てた。

 そんな生活を二週間続けた。勿論休日はまた別のタイムスケジュールになるわけだが、限られた中にひたすら、パズルのように効率よく勉強の予定を詰めこんでいくという点では、相違ない。平日に七時間半、休日には十六時間もの時間を勉強に費やしていた。

 

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 そして迎えた五月二二日の朝。中間テストの初日だ。

 朝八時過ぎの最寄り駅は通勤通学の人々で戦場さながらだった。電車は分刻みでやってきて、数百単位の人を吐き出してその倍を飲み込んで忙しなくホームを去っていく。

 ホームの屋根の向こうに覗く空は、春らしい陽気な青色をしている。風は緩く暖かい。ただ、テストに向けてスパートをかけて徹夜した旺太郎の身体には、その暖かさが少々毒だった。

 実際にテストを受けるわけでもないのにここまで努力をした自分を、旺太郎は自画自賛した。あるいは徹夜明けのテンションがそうさせたのかも知れない。

 地獄のような二週間だった。

 たった二週間で受験期の総勉強時間に匹敵するような勉強をした。必要十分以上の知識を詰めこんだ。この努力が認められないわけがない。間違いなくチートハーレムに相応しい努力を重ねた。高い転生値を叩き出すに違いない。旺太郎は半ば確信していた。ごった返すホームのど真ん中で、「僕はこれから異世界にチートハーレム転生します!」と叫んでやりたかった。

 勿論そんなことは叫ばず、代わりにデススイッチのボタンを押した。

 騒々しいホームに、間もなく電車が到着する旨のアナウンスが流れる。右の方から、朝の光をライトで裂いて電車が滑り込んでくる。車輪の音と警笛とがホームにこだまする。

 旺太郎の頭は雑踏の中で茄子のような紫色に膨らんだ。周囲にいた利用客が一人また一人と、その奇妙な事態に気がつき始める。

 ぼんっと頭が破裂して、二週間で溜め込んだ知識が血肉とともにホームに散らばった。最初の悲鳴が上がるまでそう長い時間はかからなかった。


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「全然ダメだよ」

 インバネッラの返答は旺太郎を一刀両断にした。ハート型の心臓が綺麗に袈裟懸けに分断される様がありありと頭に浮かんだ。

 水面に映し出された転生値は三八〇。

 前回の九七に比べれば飛躍的に上昇している。四倍だ。だが、チートでハーレムな来世にはほど遠い。三千以上も隔たりがある。睡眠時間も趣味に当てる時間も何もかもを削って勉強に専念した。これまでの人生で最大の努力をした。その結果が三八〇。納得出来ない。

「なんでっ!」

 詰め寄った旺太郎の顔をビール瓶で押し退けながら、インバネッラは答えた。

「ダメな理由は、二つある」

「二つも?」

「まず一つ目。努力の時間が短すぎる。たかが二週間でしょ。それが人生最大の努力なんて、へっ。笑っちゃうね。君は随分としょっぱい人生を生きていたんだね」

 それでも僕は努力をしたんだ、と旺太郎は言い張りたかったが、どう反論しても切れのいいカウンターパンチが返ってくる予感しかしなかった。インバネッラの言い分を、自分自身でも納得してしまっていたからだ。二週間の努力を人生最大の努力とみなす人生は、確かにしょっぱいとされても間違いではないように思えた。

 インバネッラはビールで喉を鳴らしつつ二本目の指を立てる。

「二つ目。目標がショボ過ぎ。なんだよ、中間テストって。それってただの暗記ゲーだよ。教師が言ったことを全部頭に詰めこめば、勝手に点数はとれるんだよ。しょーもないクソゲーだよ。確かに普段よりは頑張ったのかも知れないけどね」

「でも僕は」 

「考えてごらんよ。君は来世をチートで無双し、美少女たちとのハーレムを作ろうとしてるんだよ? それが、たった二週間程度の努力で手に入るわけがないでしょ」

「僕はもっと高い目標に向けて努力すべき、ってことですか」

「そういうこと。中間テストのための努力なんれ、誰れでできるし、誰もがやってるんだよ。みんなが当たり前に出来ることを当たり前にやって死んだところで、悲惨さは薄いんだよ」

 女神は胡乱な目で真っ当なことを言った。

「チートハーレムを目指すなら、もっと頑張って。それともこの数値で転生する? 三〇〇台だし、まあまあな人生にはなるとは思うよ。バリバリの平民に生まれ落ちるだろうけど」

「平民なら今と変わりないですし、もっとやります」

 目標はあくまでチートでハーレム。妥協は一切ない。

「あ、そう? ならいいけども」

 インバネッラは口元の泡を拭いながら言い、それから旺太郎に酒臭い息を吹きかけた。


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 もっと高い目標を。

 現実世界に戻った旺太郎は、インバネッラの助言に従って目標を大胆に変更した。中間テストでもなく、期末テストでもなく、全国模試でもなく。もっと長期的で、大きな目標。

 即ち東大合格である。

 旺太郎が通う高校は東京の片隅にぽつりと建った、生徒数が多いだけのひなびた私立校。偏差値だけで高校の格を語るのはおこがましいことだが、まあ大していい高校ではない。進路内訳を見ても、就職、専門学校、短大、四年制大と色とりどりだ。四年制大への進学実績も、毎年早慶クラスの合格者が一人いるかいないかの状況で、そういう数少ない人材は英雄のような扱いを受ける。同級生は勿論、教師や後輩、PTAたちからも。校舎には紅白の垂れ幕がかかり、学校の案内資料なんかには顔出しでコメントが出たりもする。

 もしもそんな学校から東大に合格者すればきっと、神様のような扱いを受けることは間違いないだろう。

 だから東大合格なのだった。


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 相上旺太郎の名前が同級生全員に知れ渡ったのは高校一年の秋頃。理想の異世界転生を目指して本気の努力を始めてから、約半年が経っていた。

 その時期に行われた全国模試の結果が返却され、成績上位者が校内の一番目立つところに貼り出された。生徒たちは興味本位で掲示を眺めにいき、一位に君臨した人間の成績を見て度肝を抜かれた。

 一位にいた相上旺太郎の総得点は二位の人間よりも二〇〇点以上も高く、偏差値で言えば四〇近く突き放していた。きっとこの学校に進学した人間の誰もが目にしたことのないであろう異常な数値を叩き出していたのだ。

 掲示の日から一週間ほど、旺太郎を見に教室にやってくる人間が後を絶たなかった。顔も知らない人間が自分を指差して囁きあっているのは居心地が悪かったが、「やべえな」「化け物だよあれ」「絶対来る高校間違えただろ」という声が聞こえてくる度に内心で鼻を鳴らした。

 以来定期テストや実力テストの度に旺太郎の名前は話題になり、同級生で彼のことを知らない人間はいなくなった。二年生で初めて一緒のクラスになったはずの同級生全員が、自己紹介をする前から旺太郎のことを詳しく知っていたのだ。流石に驚きを隠せなかった。

 そして。不動の学年一位、相上旺太郎はやがて三年生になる。


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「──ここにさっきのrの値を代入したら最初の等比数列の一般項が出る。そうすると初項からn項までの各項の二乗の和が出てくるよね」

「うん?」

「つまりこれは二番目の等比数列の初項からn項までの和に等しくなるから」

「あっそういうことか。なるほどな」

 旺太郎三年の、ある秋の日の昼休みだった。人気の少ない教室で、彼は一年生の頃からクラスメートである野球部の舘伝人に数学Bの問題について解説していた。

 舘と初めて会話をしたのは一年の最後の期末テスト。英語の赤点をどうしても回避しなくてはならなかった彼が泣きついてきたのがきっかけだった。

 それ以来舘は、勉強でわからないことがある度に旺太郎を頼るようになった。坊主頭の下のニキビ面に困り果てた表情を浮かべ、妙にかしこまった口調で参考書やノートを見せてくるのがお決まりのパターンだった。

「やっぱすごいな、相上くん」

「なにが?」

「だって文系だろ? なのに数Bまでわかるなんてさ。理系の俺が数Aすら怪しいのに」

「入試に必要だからね。勉強しないと」

「相上くん第一志望東大だっけ。はー、びびるわー」

 四月、進路希望に短く『東京大学』とだけ書いて担任に提出した。

 担任は何か覚悟を決めたような顔で頷いていた。学校初の東大合格者となるかも知れない生徒を自分のクラスに抱えた重みを感じていたのだろう。

「もっと上の高校に行けばよかったのに。うちなんか来ないでさ。もったいねえよ」

「中学までは勉強出来なかったし、してこなかったからね」

「へえ、意外だな。何で東大目指そうと思ったんだ?」

「まあいろいろね」

 理想の異世界転生のためだとは口が裂けても言わないし、言えない。信じてもらえるわけがないからだ。それに舘は生まれてこの方太陽の光しか浴びてこなかったような人間。クラスのムードメーカ的存在であり、カーストの上位に堂々と立っている。異世界転生なんていうオタク文化の先端部には毛の先ほどもかすらない人間だった。

「いろいろか。まあそうだよな。いろいろあるよな。じゃ、ありがとよ」

 気さくに笑って舘は去っていく。

 旺太郎はシャーペンを握り直し、再び自分の勉強に集中し始めた。羊雲漂う秋晴れの空には一目もくれず、黙々とノートにペンを走らせる。窓からはらりと舞い込んできた黄金色の銀杏の葉を、ゴミのように手で払う。東大合格のためには、理想の異世界転生の為には一秒たりとも無駄にはできない。

 秋が終わって冬が始まり、年末の『いせラヴ』一挙再放送を観ることなく、旺太郎は懸命に勉強を続けた。理想の異世界転生に向かってただひたすらに。


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 三月上旬。

 文京区にある東京大学本郷キャンパスは、黒山の人だかりだった。まだ冬の気配が抜けきらない寒空の下は、しかしコートなどいらない熱気に満ちていた。

 旺太郎は受験票を握りしめ、受験番号が並んだ掲示板前に向かってゆっくりと進んでいた。辺りには受験生の他にも、部活のユニフォームを着込んだ在校生の姿もある。彼らからのハイタッチを喜々として受ける人もいれば、その横を泣き腫らした赤い顔で去っていく人もいた。

 喜びと悲哀が入り交じった合格発表の場だった。

 やがて旺太郎は自分が受験した文科一類の掲示板の前まで辿り着いた。

 緊張の面持ちで掲示板の受験番号を辿る。A一○○三○、A一○○三二、A一○○三三、

「……あった」

 見つけた瞬間言葉がこぼれ落ちた。

 旺太郎の受験番号は確かに掲示板に載っていた。受験票と掲示板とを何度も確認する。両方を穴が開くほど見て確かめる。確かにそこに旺太郎の受験番号があった。

 膝から力が抜けそうだった。

 三年間、かつてないほどの努力をした。アニメもゲームも漫画も全てを捨て去り、無我夢中で勉強に励んだ。目指すは理想の異世界転生。ただそれだけのために。

 満を持して旺太郎ははポケットの中に入れていたデススイッチに指をかけた。

 東大合格発表の場で死ぬ。

 三年間の努力を無駄にして初めて、努力が有益な結果に結びつくのだ。

「あった! 番号あった!」「受かってる! お母さん、インバたん受かってる!」「やった……受かった。受かったぁあああああ!」「六浪……長かったなあ……でも、受かったよ……やっと」

 合格を叫び、友人や家族と抱き合い、歓喜の涙を流す受験生たちの横で。

 ぼんっとささやかな祝砲が上がり、白地の掲示板に旺太郎の血が生々しく赤門を描く。


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「あのねえ……」

 三年ぶりに再会したインバネッラの第一声は、呆れたような溜息とともに始まった。

「東大生って一学年に何人いると思ってるの?」

 相変わらず呂律の回らない声で彼女は言う。

「……三○○○人、くらい?」

 旺太郎はおずおずと答えた。水面の畔に腰を下ろし、対面に座した赤ら顔の女神を見つめる。

「そう、だいたいそんなもんだよ。だから日本に東大生は一万二〇〇〇人くらいいるわけだよ。常時ね。そこにね、卒業生を加えてごらんよ。現役で働いている世代の中にはね、単純計算で約四八万人の東大出身者がいるわけ。そうなると日本の人口の三〇〇人に一人は、東大生なの」

「三〇〇人に一人」

「それにね、世界の大学ランキングを見るとね、東大は世界で五〇番目くらいの大学なわけ。東大よりも優秀な大学は沢山あるんだよ。それに、東大を受けようとすら思わなかったけど、十分東大に匹敵するような能力を持った人間だっている。アスリートとか芸術家とか。そういう潜在的な東大生まで含めたら、東大合格なんて、珍しくもなんともないんだよ」

 インバネッラはビールの匂いの溜息を吐いた。

 旺太郎の顔は引き攣っていた。偉業だと思っていた「東大合格」の四文字が、影のように揺らぎ始めていた。胸中は穏やかでなくなってきている。しかしそれでもどこか彼には、「東大合格」を偉業だと信じている、信じていたい気持ちがあった。

 インバネッラはビール瓶を傾けながら言う。

「一応、見てみよっか、転生値」

 二人を挟む水面に波紋が広がって消える。コーヒーにミルクを垂らした時のように浮かび上がってくるはずの不可思議な紋様を、旺太郎はいまかいまかと待った。

「お。転生値が出らね」

「……いくつですか?」

「一〇二四」

 真っ先に頭に浮かんだのは「二の十乗」という言葉だった。

 異世界チートハーレムに必要な転生値四〇〇〇にはまだ限りなく遠かった。

「そんな……」

 旺太郎は雲の上に膝をつき、顔面蒼白になった。ここに至って本当に、三年間の努力が塵となって消えた。

「こんなもんだよ、東大合格なんて」

「僕は……僕は努力したんですよ。東大合格は、僕の高校では初の偉業なんです。創立何十年という歴史の中で、初めて東大合格者が出たんです。最高学府ですよ、日本の最高学府。僕は三年もの間自分のやりたいことを、好きなモノを我慢して必死に勉強した。それなのにおかしいでしょう。転生値がたったの一〇二四なんて。絶対におかしいですよ」

 口から溢れだした怒涛の主張を、しかし女神は、

「しらん」

 と無慈悲に切り捨てた。

「前にも言ったけど、転生値を管理するのはインバたんの仕事じゃないわけよ。だからそんな不満を言われてもどうしようもないの。でもね、妥当だと思うよ、これは。むしろ高すぎるくらい。きっと君の高校で初めての東大合格者っていう、箔がついたかららね」

 女神は気楽そうにビール瓶を傾け、喉を鳴らし、軽快にげっぷ。

「あとね、最高学府って東大のことじゃないから。大学のことだからね。東大が最高学府だったのは京大ができる前までだよ」

 ありがたい豆知識を寄越してインバネッラは笑った。赤みのさした顔ににんまりと浮かんだ笑みが、旺太郎には酷く腹立たしく思えた。しかしその気持ちを表に出すことは決してなく、腹の中に溜め込んだまま黙って池を見つめていた。

 池に浮かんだ紋様が形を変えることはなかった。

 旺太郎の今回の転生値は一〇二四で確定した。理想の転生値の四分の一。この転生値ではいったいどんな運命を歩むことが出来るのだろうか。五〇〇でど平民だ。一〇〇〇ともなれば下級貴族くらいにはなれるだろうか。あるいは小金持ちとか名のある商人とか。いずれにしても満足出来る転生でないことは明らかだった。それに異世界でそこそこお金に潤っている奴というのは往々にしてまともな人間じゃない。下を迫害し、上に媚びへつらう。金でプライドを売る、そんな奴ばかりだ。英雄やチートハーレムにはほど遠く、むしろ悪役の立ち位置だ。

 そんな転生で妥協などしない。

 自分の考えが甘かったのだと言うことを思い知らされた。同時に、何が正解なのかも分からなくなった。ただ努力を重ねるだけとも、ただ結果を出すだけとも違う。もっと大事な何かがある。理想の異世界転生までの道はまだ曖昧で遠い。

 こうなればもうヤケだ。

 旺太郎は拳を握って歯を食いしばり、怒りすら燃やしているような眼差しで女神を見た。

「お。いい目つきだねえ」

「インバネッラ、僕をまた生き返らせてくれ」

「まだやる気なんだね。そうこなくっちゃ」

 旺太郎は頷く。いくらだってやり直してやる。何度だって死んでやる。

 全ては理想の異世界転生のために。

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