理想の異世界転生
桜田一門
①幸せな来世には悲惨な死を
五月上旬。天候は曇り。厚い雲に蓋をされたた空は今にも一雨来そうな不安定さであり、悪い意味で何かが起こる予兆を感じさせた。
旺太郎は教室の窓からそんな空を眺めていた。授業中だったが関係なかった。もとより聞く気などない。黒板の前でとうとうと語られる言葉は耳の奧に辿り着く前に霧散し、頭に浮かび上がってくるのはとりとめのないことばかりだった。
桜の花が散り去った四月、相上旺太郎の高校生活は何の変哲もなく始まった。
高校には中学校とは違う、眩しくて輝くような青春があると思っていた。友達も彼女も勝手に出来ると思っていた。目的の分からない部活に入ってだらだらと時間を浪費する放課後もあるのだろうと思っていた。
しかし待っていたのは中学三年間と同様、家と学校とを往復するだけの毎日。それがつまらないとは言わない。旺太郎には夢中になれる趣味がある。アニメを見ている間は至福の一時だし、ボイチャで結ばれた友達と世界中の人間をゲームの世界で撃ち殺すのは気持ちいいし、毎週買うのを楽しみにしている漫画の週刊誌だってある。
ただ、楽しいのは全部空想の世界の話。現実は酷く退屈で、つまらなくて、おもしろくない。何の刺激も、変哲もない。ただただ空虚で面白味に欠けている。
クラスのみんなで揃って仲良く教科書を開き、お行儀よく先生の板書をノートに写す。実生活にどう役立つのか分からない知識をひたすら作業のように頭に詰めこむ。小学生の頃から変わることがない学校のお利口なお勉強スタイル。酷く退屈で、つまらなくて、無意味だ。
頭の中に次から次へと出てくる不満は、湧き水と言い表すには少々濁りすぎている気がしたが、尽きることがないという点では同じだった。
余りある退屈に任せて旺太郎の頭は今夜のアニメに思いを馳せた。
数多ある今期アニメの中で、最大の注目作とされる『異世界ランデヴー』。通称『いせラヴ』。今夜は第五話の放送日だ。
『いせラヴ』のあらすじはシンプルかつ王道である。
何の取り得もない男子高校生がある日不運にも事故に遭い、剣と魔法の世界に飛ばされ、凶悪なモンスターや悪逆非道の魔導士たちを相手に無双の活躍をし、様々な人種の美少女たちに惚れられ、チートとハーレムの限りを尽くす夢と浪漫の下克上ファンタジー譚。
「──よってここで求めるべき確率は、赤玉を三個引いた場合と白玉を二個引いた場合の──」
機械的な教師の声が耳の横を流れていく。
早く家に帰ってゲームをしながら第五話の放送開始を待ちたい。第五話は物語の大きな転換点となる重要なエピソードが描かれるはずだ。原作小説で読んだときには大いなる驚きと衝撃でしばらく身動きが取れなかった。それがアニメでいったいどう表現されるのか、先週の次回予告のときから楽しみで仕方がない。待ち遠しい。早く帰宅して夜への備えを万全にしたい。突発性の腹痛でも起きて無理やり早退させられないかと期待してみる。しかしもちろんそう都合よく腹がおかしくなるはずがない。腹は朝も昼もいたって元気だった。トイレには通算三回行ってとても健康的な分娩を行った。旺太郎は誰にも気付かれないようにため息を吐き、机の下で貧乏揺すりを繰り返しながら目だけを黒板に向けている。指先ではシャーペンがプロペラのようにクルクルと回る。このまま家まで飛び立てないだろうかとバカげたことを考える。またため息。退屈な内容のせいで授業がいつもより引き延ばされているようにさえ感じる。
体感で二億年くらい過ごした後、ようやくチャイムが鳴って授業が終わった。静まりかえっていた教室が途端にざわつき出す。一番に教室を出て行くのは旺太郎の前の席の野球部。ぱんぱんに膨らんだエナメルバッグを肩に掛け、弾かれたパチンコ玉のように颯爽と姿を消す。帰宅部の旺太郎も彼に負けじとそそくさ荷物をまとめ、騒がしいクラスメートを尻目に二番手で一人教室を出た。さて、自由な時間の始まりである。
朝九時から七時間。退屈でハードな授業を乗り越えた。廊下を足早に歩きながら頭に放課後の予定を並べていく。近所のコンビニで週刊誌の今週号を買い、部屋にストックしてあるお菓子を食べながらじっくりと読む。夕飯を食べたら中学時代の友達と夜中まで適当にゲームで繋がりつつ『いせラヴ』第五話を待つ。想像するだけで胸が高鳴る、一片の隙もない放課後だ。
意気揚々と校舎を出た。半ばスキップするように校門を抜ける。
崩れそうな天気の下、心晴れやかに信号のない車道を反対側に渡ろうとして、
「……あ」
旺太郎は反対車線から突っ込んできたトラックに潰されて死んだ。
目を覚ますと淡いピンク色の空間に立っていた。
見渡す限りを淡いピンク色の、どこか雲に似たもこもことした物体が埋め尽くしている。何気なく花を日つかせると甘い感じのする匂いが漂ってきた。周囲には帯のような白い煙がうっすらとたなびいている。濃度の薄い煙体験ハウスの中にいるようだ。踏みしめた地面は柔らかく弾力がある。恐る恐る近くにあるもこもこを握ってみると人肌のような暖かみがあり、試しに揉んでみると妙ないかがわしさを覚えた。
「……なんだ、ここ?」
もこもこを揉みながら自分に尋ねた。
直前の記憶は明白だ。学校を終え、意気揚々と校舎を出た。そしてトラックに撥ねられた。そう、トラックに撥ねられたのだ。痛みはなかった。一瞬の出来事だった。全身が弾け飛ぶような強烈な衝撃に襲われたかと思うと、次の瞬間にはこの奇妙な空間に立っていた。まるでワープしたかのごとく。間の記憶はない。抜け落ちているのか元々ないのか。それは定かでない。
「『いせラヴ』が僕を待っているというのに……」
と呟いてみた旺太郎はある可能性に思い至り、もこもこを揉むのを止めた。
もしかすると今の自分は全く同じ状況にあるのではないか。
『いせラヴ』の主人公・知糸晴夢が異世界転生を果たすきっかけになったのもトラックに撥ねられたからだった。彼はその後にこんな空間にいたのだ。原作では『甘い匂いのする幻想的な空間。まるで天国みたいな場所』などと描写されていたはずだ。
旺太郎は期待に胸が膨らんでいくのを感じた。もしもこれが夢でないならば。これから先、旺太郎にはまさかの展開が待ち受けているのではないだろうか。異世界でチート無双し、絶世の美少女たちと黄金色のハーレムを築く、そんなまさかの展開が。
となればそろそろ女神かそれに準ずる存在が目の前に現れるはず。そう思ったときだった。
「やあ、いらっしゃい」
小鳥が囀るような可愛らしい声に呼ばれ、旺太郎は振り返った。
美少女が立っていた。
身長は一四〇センチくらいと小柄で、歳は旺太郎と同じくらい。透き通るような白い髪が肩の下辺りまで伸び、肌は真珠のように白く滑らかだ。くりっと丸い両目は空色。眠いのか疲れているのか分からないが、少しだけ澱んでいるような気もする。身体には布を幾重にも巻いた不思議な服を纏い、そしてなぜか右手にはビール瓶のようなものをもっていた
「あ、あの……」
神々しい空間に、神々しい美少女。異世界チートハーレムまで秒読みだと直感的に思った。
「相上旺太郎だね?」
呂律の怪しい美少女の第一声。ビールの匂いがぷんと旺太郎の鼻をついた。
「はい! そうです! あなたは?」
「インバたん」
「イン……え?」
「インバたんだよ。正確にはインバネッラ=ディアデイル。略してインバたん。呼び方は任せるよ。インバネッラでもインバたんでもなんでも。好きに呼んでよ」
「あ、えと、じゃあ……インバネッラで」
思いがけない風体と挨拶に戸惑いつつ、旺太郎は答えた。インバたんと呼ぶのは何となく気恥ずかしかった。
「いいよ」
そう言うとインバネッラは右手に持っていた瓶を口元にあて、ぐいっと煽った。
「あの──……?」
「あ?──ああ、そうだ。別にインバたんは君と自己紹介をしたいわけじゃないんだ」
どうやら彼女は自分のことを『インバたん』と呼ぶようだった。
「ところであなたは一体?」
「インバたんは女神だよ」
彼女はまた、ぐいっと瓶に口を付ける。
「めがみ」
「うん」
旺太郎は確信を得た。
これは間違いなく異世界転生の序章だ。事故死して、神々しい空間に飛ばされて、目の前に女神が現れる。酒瓶片手の女神だというのは想定外だったが、なによりここまで条件が揃っていて異世界転生しないわけがない。これで異世界転生をさせないのでは道理が通らない。
旺太郎は前屈みになり、急かしたい気持ちを抑えながらインバネッラの言葉の続きを待った。
「君は死んだ」
「はい!」
「……なんでそんなに元気そうなの?」
インバネッラは訝しげに目を細めた。
「いえ! ご指摘の通り、僕は死にました! それで?」
「なんか気持ち悪いね」
ストレートに辛辣な言葉が跳んでくるが、旺太郎は気にしない。先を急かすようにインバネッラに詰め寄った。
「あ──……けふん」
可愛らしい咳払い。ただし若干酒臭い。
「君は死んだので、これから異世界に飛ばされることになります」
「い せ か い !」
確定的な一言。圧倒的な勝利の予感。脳内に翻る人生の優勝旗。異世界に飛ぶ。最高だ。クソみたいに退屈な現実とさよならできる。旺太郎は舞い上がり、思わずインバネッラの手を掴んだ。華奢で柔らかい指に自分の指を絡め、彼女の美貌を正面から見つめる。
次の瞬間、インバネッラは右手に握った瓶を旺太郎の横っ面に叩きつけた。
視界に星が散るような衝撃があって、耳元で甲高い音が弾けた。
「気安く触らないで。インバたんは女神なんだから」
瓶の欠片を握り、インバネッラは旺太郎を睨んだ。驚いて瓶を叩きつけられた顔の左側に手を当てる。痛みはない。血が流れている感覚もなかった。死んでいるからだろうか。
「……すいません」
興奮しすぎたみたいだ。インバネッラから手を離し、一歩下がって、呼吸を整えた。
トラックに撥ねられて、神々しい空間に飛ばされて、目の前に女神が現れて、異世界に飛ばすと明言した。これは火を見るよりも明らかな異世界転生ものの序章。旺太郎は興奮醒めやらない頭の中に、落ち着いて言葉を探した。
「僕は、その、本当に異世界に行けるんですか?」
「うん」
インバネッラはさっくりと頷いた。旺太郎は湧き上がる興奮を抑えながら訊ねた。
「と、ということは。異世界に行けるということは、つまり凄い魔力というか、能力というか、そういうのも必然ついてくるってことであってます?」
インバネッラは旺太郎の問いに対して、ビール瓶に口をつけながら固まった。先ほど割った物とは別の瓶らしい。
「ちょっと待って」
中身をぐいっと呷り、その場にしゃがみ込む。彼女は足下の雲みたいな塊を丸く掻き分け、水面のようなものを出現させた。
インバネッラは人差し指の先をちょんちょんとその中に入れる。旺太郎は彼女の後ろから、指の動きを見守った。掻き回すような仕草で指を動かし、その度に波紋が幾つも広がっては消えていく。何かの儀式めいた行為に、たまらず温い唾を飲み込んだ。
「でた」
「おおっ」
インバネッラの言葉に水面を覗いてみると、文字めいた紋様が浮かび上がっている。
「ふむ。転生値は──五だね」
「五……? それは高いんですか? ……というより転生値って?」
「まあまあ。順を追って説明するから」
くるりとこちらに向き直り、インバネッラは口元に拳を当てて「けふん」と咳払いをした。
「まずは転生値から。転生値っていうのは、ある世界からある世界へ、転生させる際に参照す数値で、前の世界での功績や実績、暮らしぶり、死亡の状況などを考慮して決定される」
「それは、あなたが?」
「違う。インバたんではなく、インバたんよりも上位の、クソ忌々しい他の神たち。悔しいけどインバたんは転生値に関与出来ないんだよね」
インバネッラは吐き捨ててビールを呷った。美しい女神が酒を飲みながら他の神の愚痴を言うというのは何とも奇妙な光景だ。
「それで、転生値を元に次の世界での運命が決まるわけ。高ければ高いほどよりよい身分、力、容姿が手に入るのお。んー、そうだね。わかりやすく言えば、君の世界のアレが近いかも。ほら、受験とかに関わる……」
「入試?」
「ちがう」
とインバネッラは首を横に振る。
「内申点?」
「そう! それ、内申点! 内申点が高へれば高いほど、いい学校にいけるでしょ?」
「まあ、そうですね」
「つまり君が次の世界での運命を決めるための転生値、言い換えれば内申点は、五ってこと」
インバネッラは旺太郎の顔の前で左手を開いて見せた。女神らしい細くて皺のない指を親指から順番に数えながら、旺太郎は自分の中で期待がむくむくと膨れあがってくるのを感じた。
内申点が「五」。
内申点というのは通常五段階評価であり、オール五というのは一〇〇点満点と同様に古くから完全を象徴する言葉だとされている。転生値と内申点が同列として考えられるなら、「五」は最高値なのではないだろうか。すなわち自分には勝者の運命が約束されているのではないか。
「じゃ、じゃあ、僕は! 異世界でチートハーレムが作れるんですね!?」
旺太郎は膨れあがった妄想を燃やすように目を輝かせ、全身を女神の方へ乗り出した。
「……はぁ?」
しかしインバネッラの碧眼は訝しげに細められた。掃き溜めに落ちた虫の死骸を見るような哀れさと嫌悪感をない交ぜにした目だった。
「あれ? 違うんですか? 転生値『五』は褒められた数字じゃ、ない?」
「褒められた数字もなにも──」
インバネッラは深くためを作って言う。
「ゴミだよ」
「ゴ……ゴミ……?」
「うん」
「ゴミ、というのは具体的には……」
「そーだねえ」
再び例の水面に指を入れ、くるくると混ぜる。しばらくして指が引き抜かれると、水面にはずらりと文字のような幾何学模様がずらりと並んでいた。
「転生値五のまま君が次の世界に転生したとする」
「はい」
「まず、君が生まれるのは山奥にある小さな小さな村だよ。人口は一〇〇人ほど。そこで君の両親は毎日朝から晩まで山に籠もってまずそうな山菜やきのこを採り、近くの町に売りに行って、どうにか糊口を凌ぐような生活を送っている」
不穏な気配がする。
「それは、また」
「そんな夫婦には、とてもじゃないけど子ども一人を追加で養う余裕なんてない」
「……で、でもそしたらなんで僕は」
「生まれちゃったわけよ。山菜を採りに行った奧さんが山の中で山賊に強姦されて、君を孕んでしまった。不本意ながら」
自分の来世の壮絶な始まりに旺太郎は言葉を失った。
「幸か不幸か君の両親は人格者だった。母親は君を産み、父親は一層身体に鞭を打って山菜採りに励む。家族は貧しいながらも幸せな毎日を過ごす。君はまずい山菜と色の悪いキノコだけを食べてどうにか三歳まで育つ」
そこでインバネッラは言葉を句切り、楽しげに笑いながら言葉を続けた。
「三歳の誕生日を両親とささやかに祝っていたところ、村が山賊に襲撃される。母親を強姦したのと同じ一派に。村人は老若男女を問わず皆殺しされるんだって。君の両親は生きたまま火で炙られて死ぬ。君の目の前で。ただ君だけは両親の機転によって助かっ──どうしたの?」
「いや……もういいです」
吐き気がした。軽やかな語り口から飛び出す衝撃的な来世を想像し、天地が崩れるような目眩を覚えた。まだ見たこともない来世の両親に今の自分の両親を重ねてしまう。そうすると胸が抉られるような思いが一層強まった。
「あそう? もう聞かなくていい? これから君は奴隷商に売られたり、変態主人に犯されたり、金のために命をかけた殺し合いをしたりすることになるけども」
「……なおさら聞きたくないです」
旺太郎は強く目を閉じて天を仰いだ。先ほどまでの高揚感が一気に凍りついてしまった。
「その、本当にそんな運命が待ち受けてるんですか?」
「うん。転生すれば君は今インバたんが話してあげたのと全く同じ運命を辿ることになるよ」
「運命を変える方法はないんですか?」
「ないよ。なぜなら君は記憶を失うからね」
「そんな」
旺太郎はその場にへたり込む。記憶がなければここで聞いた自分の運命を思い出すことはなく、運命に抗うことも出来ない。道が途絶えてしまうのだ。
チートは。ハーレムは。無双は。すべてが砂像の様に形を失っていく。
「あ、待って待って。早とちりしないでよ」
インバネッラは少し慌てたように言う。
「……早とちり?」
「そうそう。今教えたのは、もし転生値五のまま転生したら、の場合の話だからね」
「というと?」
「というと、転生値を変えて転生すれば、話は変わってくるんだよ」
「悲惨な運命を辿らなくてすむということ、ですか?」
「うん」
その瞬間、旺太郎は立ち上がり、鼻息を荒げて言い放った。
「なら転生値五で転生したくないです!」
インバネッラは必死な形相の旺太郎を引き気味に見つめつつ、ぐびびっとビールを呷ると、
「そしたらやり直しだね」
とげっぷ混じりに言った。
「やり直し? 人生の?」
「うん。と言っても最初からじゃなくて、死ぬ直前からだけど」
「死ぬ直前から」
「そう。君は学校の前でトラックに撥ねられて死に、ここに来たわけだけど、一旦トラックに轢かれるのは止める。そして違う死に方をしてまたここにくる。そうすれば、転生値に変動が生じるだろうから、来世がより良くなる可能性があるというわけ」
「死に直すってことですね」
「うん。でも、どんな死に方でもいいわけじゃないよ。転生値に大きく関わってくる変数で、最も影響が大きいのは『死に方』なんだよ。どんな死に方をしたかで転生値は大きく変動するんだ。だから、もし豊かな来世を生きたいなら──」
「──生きたいなら?」
インバネッラは仄赤く染まった顔に微笑を浮かべて言った。
「悲惨に死ね」
『いせラブ』第五話は、掛け値なしの神回だった。
つけっぱなしにしたテレビに流れるCMを眺めながら、旺太郎は何度も五話の内容に思いを馳せた。オープニングからして制作側の気合をひしひしと感じる演出が触れていた。戦闘シーンは滑らかで、魔法発動シーンのCGやエフェクトは劇場版のような力の入れ具合だった。
しかしどこか物足りなかった。
完璧だったはずだが、一番大事な部分が欠けているような気がしてならなかった。それは漠然とした考えであり、はっきりと「これ」と示すものはない。ただ何かが足りないのだ。三〇分間ずっと、ハリボテを眺めているような心地がした。
恐らくは本当の異世界転生を垣間見てしまったからなのかも知れない。
「──異世界転生、か」
テレビを切り、ベッドに横になる。アラームを設定したスマホを枕元に置こうとして、旺太郎はそこにあるものを置いていたことを思い出した。
それはライターのような大きさの金属製の物体である。水色のボディに、長方形の押し込みボタンが付いただけのシンプルな造り。安いガチャガチャの景品のような見た目の代物だ。
デススイッチ、というらしい。
あの天国のような奇妙な空間から去る時に、インバネッラから手渡されたモノだった。
「──これはデススイッチ。ボタンを押せばいつでもどこでも、好きな時に死ぬことが出来る優れものだよ」
インバネッラはどこからか取りだしたライターのような物体を旺太郎に放り投げて言った。
「デス、スイッチ」
「うん。君はこれから生き返るわけだけど、異世界転生をするためにはまた死ぬ必要がある。でもね、生き返ったら今度は死ぬのが怖くなると思う。当然死ねなければここに再びやってくることは出来ない。それはわかるよね?」
「は、はい」
「だからそこでこのスイッチがいるわけ。これはヒジョーに優秀でね、ボタンを押せばスイッチの登録者が絶対に死ねるんだよ」
「登録者?」
「うん。今回の場合は君ね。もう登録はインバたんの方で勝手にやったから気にしないで。で、このスイッチが優れているのは、痛みや苦しみを感じないってところ。自分で自殺をするとさ、必ず一発で死ねるとは限らないでしょ? 失敗するかも知れないし、とても痛い死に方になっちゃうかも知れない。それを回避する為にこのスイッチは便利なわけだよね」
旺太郎は手の平のスイッチを見つめた。こんな玩具のような物体がそれほどまでにバイオレンスでコンビニエンスな代物だとは思えなかった。
「あとただボタンを押すだけだから、死をあまり意識せずに死ぬことができるわけだね。他の死に方に比べたらよっぽどストレスフリーな仕組みなんだよ」
「本当にこんなもので」
このボタンを押すだけで自分が死ぬなんて全く想像がつかなかった。見かけは本当にただのボタンなのだ。レストランなんかにおいてあれば、迷わず押して店員を呼ぼうとするだろう。それくらいボタンボタンしたボタン。死を、欠片さえも感じさせない。
「ほんとに死ねるから。安心して。さくっとぐちゃっと」
「あの、死んでもまたここに戻ってこれるんですよね? 死んで死にっぱなしだったらあまり意味がないというか……」
「うん。それはインバたんが保証するよ。大丈夫」
とん、と胸を叩いてインバネッラは微笑んだ。どこか虚ろで不気味な笑みだったが、信頼に足る部分は確かにあった。
「来世でチート能力を得るためには四〇〇〇近い転生値が必要だからね。頑張ってね」
「四○○○……」
なるほどそんな数値の前では「五」などゴミに等しいだろう。
「ちなみに転生値が五○○○を超えたら、その時点で強制転生だから。もっと上の転生値、あるいはもっと下の転生値に変更するためにやり直すことは出来ないよ。わかった?」
「はい。転生値は高ければ高いほどいいんですよね? 高すぎて困ることはないですよね?」
「うん。ないと思うよ。チートのせいで望めば何でも手に入るようになって生きるのがつまらなくなる、っていうのはもしかするとあるかもしれないけど」
旺太郎はどんなゲームでも、クリア後にチートや壊れ武器で延々と遊び続けることが出来るタイプだ。その程度の懸念なら心配はない。強さに飽きる、なんてことはないと思っている。
「じゃ、がんばってね」
インバネッラはひらひらと手を降り、旺太郎に向かって優しく息を吹きかけた。柔らかく、暖かみのある女神の息吹だった。
次の瞬間、旺太郎は学校の門の前に立っていた。頭上には青くなった桜の木があり、グラウンドの方からは運動部の声が聞こえてくる。自転車を連ねて帰路に就く男子らがいて、仲睦まじくくっついたり離れたりしながら駅へ向かうカップルがいる。
何気ない高校の日常風景。当たり前の、くだらない現実に戻った。
インバネッラや、あの奇妙な空間は影も形もなく、まるで遥か昔に見た夢のように頭の中にぼんやりと浮かんでいるだけだ。
しかしポケットに手を入れてみれば、女神からもらったデススイッチが確かに入っていた。
目の前をトラックが轟音とともに通過していく。旺太郎は事故を回避した。角を曲がっていく四角いテールランプを、不思議な気持ちで眺めていた。
とりあえず家に帰り、とりあえずゲームをして、とりあえずご飯を食べ、とりあえず風呂に入り、とりあえず『いせラブ』を見た。心の片隅に虚ろな部分を感じながら、あり合わせの材料で献立を仕上げるみたいにして一日を過ごした。
こうして今に至る。布団に潜り込み、部屋の電気を消して、旺太郎は考えた。
悲惨に死ぬ。
転生値を高めて来世の運命をチートハーレムに変えるために。具体的にどう死ねばいいのか。何をもってして悲惨な死とみなすのか。
考えているうち、知らぬ間に眠気に意識を絡め取られていた。
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