第2話

「それで、昨日はどうだった?」


 背後からの声に振り向けば、ニヤリと笑う担任。教卓の傍に立っている才川先生は、回収したばかりの書類を抱えなおして「行ったでしょ?」と聞いてくる。


「あー、まあ」

「あれ、まさかすっぽかしたの」

「違いますよ。先輩、予定があったみたいで」


 そうだ私は悪くない。むすっとした私に向けて「顔に出てるって」と苦笑した先生は、少し考えてから言葉を続ける。


「そういえば稽古日だったか。今日なら時間あるだろうし、見学には向いてると思うけど」

「見学……」

「何、ずいぶん煮え切らないね」


 なんと説明したものか。昨日の一件を思い出して、とりあえず“あの紙”を見せてみる。キョトンとした先生は、ワンテンポおいてぽつりと。


「あちゃー」


 なんなのその反応は。


「そうか、柚木もポンコツだもんな……。さすがに通訳必要だったか」

「はい?」

「あーいやいや!こっちの話。そうだな」


 ちら、と時計に目を落とした先生が目を細める。あからさまに何か企んでいる顔だ。まだ付き合い浅いけど、絶対そうだと思う。


「花井、今から行くぞ」

「え、ちょっと」

「はいはい考えるな感じろー」


 ぐいっと私の背中を押して、けらけらと笑う。大丈夫か、この担任。



「柚月ー、入るよー!」

「お疲れ様です、先生」


 ガラ、と第二音楽室のドアを開ける先生。小さな室内にやけに大きな声が響いたが、振り向いたその人は表情一つ変えなかった。うーん、動じない姿勢。落ち着いていらっしゃる。


「ほら、あんたも」

「あ、ええと、失礼します」


 ぼんやりしていたら先生に小突かれた。

 慌てて挨拶をすれば、ぱちくりとまばたきをした先輩が、すっと右手を差し出してきた。

 え、指細い。美人は指先まで麗しいもんなんだなぁ。


「いや、そうじゃなくて。あの、この手は?」

「あら、入部届は?」

「あ、えと、それは」

「はい、ストップ。」


 噛み合わない私たちの会話に、才川先生が割り込んでくる。

 助かった。どこから説明すればいいのか迷ってたし。


「ところで柚月、この子の名前は知っている?」

「いえ。だから書類をと」

「あぁなるほど。確かに名前書くもんな。なら、同好会の説明はした?」

「いえ」

「柚月自身の名前を伝えたりは?」

「まだ……ですね」

「うん、その状態で入部届持ってくる新入生、いると思うか?」


 考えても見なかった、そんな顔で先生を見て、次いで私の顔を見て。

 心底不思議そうな声色で、桜色の唇から一言。


「では、彼女はなぜここに?」


 だから見学だってば!


「っとまあ、お察しの通りだ。会長はこんな具合に言葉が足りないんで、こっちが引き出してやるのがコツだよ」


 慣れろ、と先生は全力で訴えてくる。まじか。これを私一人でやるのか。なかなかに厳しくない?


「あの、私やっぱり帰っていいですか」

「ダメに決まってるでしょ。きちんと会話してから解散しなさい」


 笑顔でばっさりと切り捨てられた。どことなく楽しんでいる素振りの先生に、ため息がこぼれる。こんなのってないよ!

 先輩もなんだか困り顔だし、ああこれは、私が進めるしかないわけですね!


「ええと、新入生の花井里香です。部活紹介で興味を持ったので、見学がしたいんですけど……」

「そう、見学希望だったの。それは大変失礼を」

「あ、いや私もはっきり言ってなかったので」

「改めて、会長の柚月紫帆です。ようこそ邦楽同好会へ」


 そう言って微笑んだ先輩が、再び手を差し出してくる。これは……握手か?恐る恐る握れば、きゅっと力が込められる。よかった、合ってた。


「それで、希望の楽器は何かしら?できれば合奏できると嬉しいのだけれど、発表の通り、私しか活動していないから」

「……え?」


 今度はこっちがキョトンとする番だ。何、人いないの?うとうとしてたから、あの音しか意識に残ってないんだけど……。


「すみません、先輩。もう一度詳しいこと教えてもらえたらって思うんですけど……」

「まあ寝てたからな」

「先生!」


 けろっと暴露した担任へと振り返れば、いたずらっ子のように笑われた。とりあえず先輩が気にした様子が無いからいいけど!


「邦楽同好会で活動中の会員は私だけ。所属のみなら数名いるけれど、このままなら廃部になります。とはいっても同好会だから、新入生が一人入れば続けられることにはなっているの」


 すっと目線が示す先には、数人で撮った写真があった。「卒業おめでとう」のパネルとともに写る人数は少ない。なるほど、そもそもの人数が少なくても、同好会だからやっていけるわけだ。


「基本的に練習日は個人の自由。演奏会前になると、さすがに合奏練習もしたいから、曲ごとに練習時間を合わせるけれど、それ以外は強制されていません」

「ずいぶん、えっと、緩いというか、自由度の高い練習なんですね」

「以前はね、外部に習いに行っていた会員も多かったの」

「おお……」


 案外チョロい?と思ったら違うや。まじでお稽古やってる人たちがたまに学校で集まる程度なのかも。

 ……とすると、やっぱり私には荷が重くないか?


「その自由度だけが残って、今ではこれ、だけれどね」

「そう、ですか」

「花井さんも、今のお稽古に負担がかかることはないし、所属してくれたらありがたいわ」

「……お稽古?」


 しんみりとうなずいておいた、ら、予想外の単語が聞こえてきた。何か?塾のことでも言ってる?


「先生の中には部活に良い顔をされない方もいるけれど、うちのような同好会程度ならそんなこともないだろうし。練習場所の確保、くらいの感覚でどうかしら」

「どうかしら、と言われても……」


 ちら、と才川先生を見ると、この数日で何度見たかわからないニヤニヤ笑いを浮かべている。なるほど、完全におもしろがってるわ。

 しかしまあ、本当に、言葉が足りない人だ。ポンコツやら通訳やら言ってた理由がよく分かる。つまりは経験者しか来ないと、思い込んでいるわけだ。


「あの、私、楽器初心者なんです。授業でやったリコーダーと鍵盤ハーモニカくらいで」


 よし、どうにかこの美しい先輩に、まっすぐ届くように言葉を選ばないと。きっとまた誤解が加速して、先生が笑い出すはめになる。


「正直なところ、部活もあんまり興味なくて。ぼんやりしながら部活紹介を聞いてたんですけど」

「……つまらなかったかしら?」

「あ、どこの発表もですよ!邦楽同好会のがつまらない、じゃなくて!」


 慌てて手を振って、だけど、と続ける。きちんと伝わりますように。


「あの音が、先輩の演奏が、ガツンってきたんです」


 聴きなじみのない音。エレキギターみたいな激しい訳じゃない、けれども伸びやかで、張りのある音。


「パーン!って飛び込んできて、目と耳が離せなくなりました。生演奏の音がくるくる踊ってて、華やかで」


 あの時の先輩は、CD音源に合わせて一人で演奏していた。大きな機材も、特別な演出もない。

 よくお正月特番で、おじいちゃんたちが喜ぶような楽器、としか思ってなかった。渋くて古くてつまらない。そう思ってた。でも。


「ずっと、耳に残ってるんです。あの強い音が!」


 例えるなら七五三の立派な着物。金銀鮮やかな千代紙。

 同じ和風でも、もっと派手で、魅力的できらきら輝いているものがたくさんある。それをぎゅっと詰め込んだ、宝箱みたいな音楽だった。


 見た目はそりゃ地味だ。竹だか木だかに穴を開けただけの茶色のみ。

 でも、そこから信じられないほど、カラフルなメロディーが溢れ出てきた。


「鳥肌が立ったんです。こんなこと初めてでした」


 だから知りたかった。名前も知らないこの楽器について。近づいてみたかった。


「その、どこかのお教室に通わないといけないなら、ちょっと考えなくちゃいけないんですけど、でも、できればここで、演奏できたらって、思います」


 どうだ、やったぞ。もうこれ以上ないってくらい、ドストレートに言ってやった。

 めちゃくちゃ頭使ったし、なんならちょっと恥ずかしいし、でも言いたいことは全部詰め込んだ。

 熱くなった体を冷ますつもりで、長めに息を吐いた。一回、二回、三回。 


 でも、しばらく経っても、誰も何も言わない。ねえ、さすがに私も居たたまれないんだけれど。


「あの……」

「っははは!そう来たか!」


 沈黙が痛くなって声をかけた途端、それまでの空気をぶち壊す笑い声。うん、担任以外にそんな奴いないわ。もう思いっきり笑われ過ぎて、冷めたはずの顔がまた熱くなってきた。


「いーじゃん、凄く分かりやすい。ねえ、柚月!」

「あ、はい……」


 対照的に先輩はモゴモゴと、うつむいてしまった。

 ちょっと、これは、さすがに恥ずかしいこと言い過ぎた、のか?それともまた何か、誤解が生まれてる?


「あ、あの、とりあえずそういうことなので!すみません今日はもう失礼します!」

「……待って!」


 ダメだ限界。一時撤退しかない。それじゃ、と言い逃げしようとした私を、しかし引き止めたのは柚月先輩で。


「ひとまず、体験入部、しましょう。楽器は、私のを貸すので」

「あ、ありがとうございます!」


 思わずがばりと頭を下げれば、「それじゃあ、また明日」と柔らかい声が降ってくる。よかった、ちゃんと伝わったみたい。


 安心して頭を上げれば、うっかり才川先生の顔を見てしまった。あ、居たたまれなさが復活するわ。

 そそくさとそのままドアを開けて、「失礼しました……」と小さい声で挨拶をしてから、私は昇降口へ向けて、走り出していた。




「おーおー、恥ずかしがっちゃって。ドア全開のままだけどなぁ」

「先生、からかいすぎです」

「や、だって素直だからつい」


 里香が出ていった音楽室で、その背を見送った才川は変わらず笑みを浮かべたままだった。


「けど、照れてんのは花井だけじゃないでしょ?」

「……」

「うわ、今さら真っ赤じゃん!」


 ホントそういうテンポが噛み合わないね、としみじみ呟く顧問に、紫帆もため息をつく。こればかりは仕方ない。そういう性分なんだから、と。


「ま、でもあれだけ熱烈なラブコールされたら、誰でもそうなるわ」

「言い方が失礼かと」

「いやいや、そんなことないでしょ」


 里香の並べた誉め言葉は、専門家のような高度なものではない。ただ驚いた、格好よかった、気になった。言ってみればそれだけのことを、しかし彼女の伝えられる全てで語っていた。目で、声色で、表情で。


「いままで全く和楽器に興味のなかった奴が、あれほどの熱で語るんだ。相当刺さったんだろうね、あんたの演奏」


 気分はどう?と問われた紫帆の頬からは、未だに熱が引いていない。


 和楽器が魅力的であることは、紫帆にとって当たり前のことだった。そしてその魅力が、なかなか伝わりにくいことも、今までの経験でよく知っていた。

 だからまっさらな状態から演奏を聴いて、それで入部希望がくるとは思っていなかった。せいぜい身内に経験者がいる誰かが、運良く入ってくれれば良いと、あわよくば自身が経験者、という生徒がいればと、演奏したのだ。

 とはいえ聞き流されるだけでは悔しいから、比較的甲音が多くて緩急のある曲を、もっといえば目覚ましがわりになりそうな選曲はしたけれど。


「嬉しいに、決まってるじゃないですか」


 和楽器に惹かれても、もっぱら女子に人気なのはお琴だ。尺八と聞いた途端、苦笑いされるのには慣れている。

 なのに、彼女は。


「華やかな音、って言ってましたね。力強いって、踊っているって」

「上手い表現だよ、ホント。音楽初心者ってのが嘘みたいだ」

「それほど、尺八の音を好いてくれたんですよね」


 じんわりと広がる嬉しさと向き合っていると、「それだけじゃないだろ」と声がかかる。


「他の誰でもない、『お前の音』に惚れ込んだんだよ、花井は」


 ひたむきに、真摯に向き合ってきた、積み重ねの上に成り立った華やかさに。紫帆の丁寧で、大胆な演奏に。



 それは、一人の女子高生を、和楽器の道に引き込むほどに、魅力的だったのだ。



「あーあ、いたいけな新入生たぶらかしちゃって。悪い先輩だなぁ」


 いつもの軽口も、とても今は返せそうにない。才川の言った「ラブコール」の意味を正しく把握した紫帆は、ただ口をはくはく動かすだけで精一杯だった。

 嬉しい、どころじゃない。言葉に直せないほどの大きな感情が沸き上がってくる。


「せんせ」

「音にして伝えてあげな」


 穏やかな顔で、才川は諭す。


「その気持ちを、今の思いを載せて、また演奏すればいい。あいつならそれでも、伝わるから」

「……はい」


 ぎゅっと唇を結んで、噛み締めるようにうなずく柚月を見て。

 今年は面白くなりそうだと、才川も目元を緩めるのだった。

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尺八乙女、はじめました。 野沢ササイ @n-sasai

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