尺八乙女、はじめました。
野沢ササイ
第1話
拍手の音が聞こえて、私は重いまぶたを無理やり持ち上げた。
ずっと同じ姿勢でいたもんだから、腰だのお尻だのが痛い。くあ、と大口のあくびをしながら目をこすると、ぼんやりとした視界でも何となく退場していくユニフォームが見えた。あれはたぶんテニス部、だから、と視線を落とす。
いつの間にか踏んでしまっていたしわくちゃのプログラムには、まだまだ紹介されていない部活動の名前がずらりと並んでいる。しばらくはこの板張りの上に座っていなきゃいけないわけだ。退屈でしかない。
どうせ部活動なんて、強制でもなければ入らないのに。緊張しながら原稿を読む卓球部を見て、肩をぐり、と回してみた。高校生にもなってわざわざだるい部活に入るよりも、割のよさそうなバイトでもしたほうがよっぽど身のためだし。周りに合わせて拍手をしながら、さてもうひと眠りと目をつむる。あとは興味のある生徒同士でやってくれ。私は部活に興味ないんだ。
近くに座っている男子生徒の「きれいじゃね?」というひそひそ声が耳に入る。次の発表者はなかなかに美人のようだ。そうかい、よかったね。じゃあ私の分まで聞いておいてくれ。
曲げた膝の上に、頭をちょうどよく置いた、時だった。
眠たい午後の空気を、その音は切り裂いた。
瞬間飛び込んできた黒髪に、凛とした音色、その迫力に。
真新しい制服の下で泡立った肌は、ついに部活動紹介すべてが終了するまで、落ち着くことはないのだった。
***
「じゃあ明日の提出物を忘れないように。それから授業が本格化する前に、中学までの予習はしておくこと。いいね?」
はい、号令かけよう。と担任の促しに応じて、ガタガタと立ち上がる。挨拶をして帰ろうとする流れの中で、再び席に着いた。
「里香、まだ帰らないの?」
「あ、うん。ちょっと」
「そっか、あたしバイトの面接だから、じゃあね」
明るく笑う前の席の女子に手を振って、面接がんばれと一言。
そうだよ、バイトだよ。本当なら私だって、駅前にできたタピオカ店か近所のカラオケで働くつもりだったんだから。今日はとっとと帰って、証明写真撮りに行くはずだったんだから。それなのに。
「まじか……」
今の私の手にあるのは、履歴書ではなく校内地図。第二音楽室と書かれた小さな部屋に赤丸をつけてくれたのは、古典担当の担任だ。
集会中の爆睡はばっちりばれていたようで、その分「あの音」を聴いてからの反応も見られていたわけで。にっこり笑って「とりあえず、見てきなさい」と押し付けられた。
入学早々寝こけていたのに、お咎めなしだったんだ。拒否権なんてない。
「ひとまず見るだけ、うん、見るだけ」
そうすれば帰ったって問題ないはず。だって見学しか強制されてないし。それに実際に見て、やっぱりイメージと違ってましたーなんて、よくある話だし。
そんなことぶつぶつ言いながら校内をうろついている私は、絶対怪しかったと思う。ちょっと入り組んでたもんだから、思ったよりも第二音楽室は見つけにくかった。
「いや、見落としてもしゃーなしだわ」
うん、音楽室とは名ばかりの、どちらかというと準備室のほうが近いと思うサイズ感。あと古い。たぶん授業じゃ使ってないと思う。だって校舎案内でここきてないし。
ドアの前で一呼吸。ここを開ければいいだけなんだけれど、なんだか開けにくい。それもそうだ、なにせ人気がない。校内にはまだ生徒も教師もいるのに、よっぽどここには用事がないんだろう。とはいえ、あまりにも静かすぎない?
楽器を演奏しているはずなのに、室内からは何の音も聞こえてこない。音楽室が防音だとしても、ここまで静かか?ってほど。もしかして誰もいないんじゃ……。
「……うだうだしてても変わんないよね」
ここにいても何も起こらないし、どのみち開けるしかないんだから。
一呼吸して指先に力をこめる。
「失礼しまーす」
ぱちり、と音が聞こえた。
本当に聞こえたと思った。振り向いたその人は大きく目を見開いて、私と思い切り目が合ったから。
背中へ流れる黒髪はつややかに波打って、でも重すぎる風ではない。肌もあくまで健康的な白さだし、特に化粧をしてもない。シンプルな学生なのに。
それでもまとう空気から、指先の所作から感じる“美人感”は紛れもない本物で。すごいあれだ、天然物のこういう人のためにある言葉だ。
「大和撫子だ……」
「え?」
こてん、と傾げられた首を見て、慌てて口を押さえる。やばい、声漏れてた。これじゃただの不審者だ。
「あ、あのこれ、担任に勧められて、それで」
「……ああ、才川先生?」
「はい、古典の。そうです」
「あの人、一応顧問だから。気にしてくれたのかも」
丸印のついた校内図を見せれば、納得したようにうなずくその人。ちょっと待って、と部屋の隅にある棚から何かを探し始めた。
「あった。はい、これ入部届」
「あ、はい」
「申し訳ないけれど、この後予定が入っていて。また日を改めて来てくれる?」
「え、あ、はい」
「それじゃあ、これで」
失礼します、とお辞儀する姿も気品があって見惚れてしまう。すごいな、対して年の差なんてないはずなのに、あんなにも雰囲気違うものなんだな。天然物の美人は違うわ。
「って、あれ?」
気づけばぽつんと廊下に取り残された私の、指の間に入部届。
「いや、待って!違う、まだ入部しないって!」
慌てて追いかけようとしたけれど、もう既にその人は見えなくて。
まずい、何も伝えられていないどころか、何だか誤解をされている気さえする。ちょっとこれは、思ったよりも面倒なことになったぞと。ただの紙ぺら一枚が、何だか重たく感じてしまうのだった。
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