Watershed
言ってしまえば、偶然。私がその本を手に取った理由は、たまたま本棚が流れてきたから。
『ロゼッタ・ストーン』。私と同じ名前を持つ遺物の、ちょっとした解説書。実物の本なんて初めて買った。
私はロゼッタ・レイス。第四準惑星ヒギエア出身。今はこのセレスの宙港で管制官をやってる。
悪い職ではないと思う。忙しいし、頭を使うけれど……休みはきちんと取れる。安定もしてる。面白いかって言えば──まあ、普通。
満足しているか?
もちろん……自分の人生に満足なんてしてない。誰だってそうでしょう?
「エル・ブランコ号、三番バースへ降下を始めてください。対地速度3m毎秒まで許可。格納後に港湾事務所へ必要書類を提出してください。どうぞ」
『エル・ブランコ、了解。いつもご苦労さん。どうぞ』
「よいご滞在を。セレスコントロール、通信終了」
セレスの地表を写す壁掛けモニターに、今まで通信していた相手の船が映る。
音もなく灰色の大地へ落ちてくる──失礼。これは縁起が悪い──降下してくるのは、眩しいほどの白色に塗られた船。
六角形の細長い箱(全長300mくらいはある)をいくつも束ねたような、遠くから見ればどこかの国の占い箱のように見えるそれが、エル・ブランコ号。大型輸送船、私たちベルターの生命線のひとつ。
この船は、星間運送業者が所有する巡回船団のうちの一隻。適度な加速と減速を繰り返し、メインベルトの主だった星を回る行商人……ああ、確かスパニッシュ・キャラバン社とか言ったような。
地表の様子を分かりやすく表す、私が着いているテーブルの上のホログラムでも、平らな地面にその船が降りていっている。この管制テーブルを見ていると、天井の遥か上のほうで起こっていることも、なにか子供の人形遊びのように見えて楽しい。薄暗い管制室の中では、その色とりどりの光の粒を眺めるのが唯一の娯楽だ。
ただ、そういう遊びはいずれ誰かに止められてしまうもの。私の場合は、次に港に入ろうとしている船の通信がそれだった。
『セレスコントロール、こちらシルバーフィッシュ号。二十番バースへの着陸を申請。どうぞ』
「セレスコントロール了解。バース天蓋の解放まで待機を……今すぐ横移動を停止しなさい。70番台ドックへの降下経路に侵入しています」
『あ、すいません。コース修正を……』
「誘導します。こちらの指示に従ってください」
ホログラムの中に新たに現れたのは、さっきのよりは小さい、全長50mほどの、より箱に近い形をした船だった。受け入れ先のバースもそれに見合った小ささ。それでも200m四方はあるけれど。
その船体が、より小型の船を受け入れる格納場へ降りるコースにはみ出ている。こういう事態を解消し、港をうまく回すのが私の仕事。右へ左へと絡まる進路を縫って、安全なエリアへ誘導する。
「そのまま……はい。外れました。その座標を維持してください。どうぞ」
『シルバーフィッシュ、了解。ご迷惑おかけしました。どうぞ』
「バース開放後に着陸を行なってください。手順書はお持ちですか」
『ええ、半年前のですけど』
「改訂はありません。それに従って入港してください」
『シルバーフィッシュ、了解しました。どうぞ』
「よいご滞在を。セレスコントロール、通信終了」
こんな具合。いつも通りの仕事。いつも通りのアナウンス。
別に機械でも出来そうな仕事だけれど、それに特別思うことはない。
ここに私が置かれている以上、何かしらの意味はあるのだろうし……今日と明日、その先も、それなりに美味しい食事ができて、それなりの貯蓄ができれば不満はないのだから。
入港する船がひと段落して、今度は出航する船が動き出す。
その切り替えの間にできる十数分の小休止に、私は腕を肩の上に突き上げ、うんと伸びをする。凝り固まった体が解れる。心臓の脈動が心地よく早まり、血の回りの改善を感じた。
ほう、とため息をひとつ。
この通信の向こうにいる航海長、それか船長さんは、いったいどんな人たちなのだろう。仕事の途中に思うのはそんなことばかりだ。
個性豊かな船を操り、星の海を駆ける船乗りたち……私だって、昔は子供心ながらに憧れた。でも現実なんてこんなもの。
それでも、セレスで仕事ができるのは、ヒギエアなんて田舎の生まれの中では良いほう。贅沢を言うなと怒られてしまうだろうか。
そんな仕事を続けること、二時間。
学生のころに住んでいた部屋並に狭い管制室が、ぱっと明るくなる。ホログラムの光が仄かに照らしていた室内が、天井の照明の暴力的な明るさに制圧されてしまった。
同時に、この部屋の扉のロックが解除される。ヒトが入ってきた。
「なあ、いつも言ってるけど明かりは点けなって! 暗いとこでホログラムなんて見てると──」
「それは五世紀前に否定されてます」
「そうだけどさぁ。気分とかあるじゃん、こういうのは」
「暗い方が好きなんですよ、私は」
狭い部屋の中に、よく通る声が響く。私の瞳孔が明るさに慣れると、管制官の制服を着た──もっとも、私も着ているけれど──人影を認識した。
目に刺さるほどに鮮やかな赤毛。先祖は勇猛果敢のハイランダー連隊に名を連ねた(自称)というだけあって、活発な雰囲気を振りまいている彼は、この管制室のシフトに入っている数名の一人。私の教官役でもあった先輩だ。
磁力靴の足音。
「で、どうよ。今日の調子は」
「目立つ船は……キャラバンの船と、シルバーフィッシュ号ですね。お魚さんがちょっとトラブりましたけど、バースにはちゃんと収まってくれてます」
「あー、あの本屋さん。最近自前の船で来るようになったばっかりだし慣れてないっぽいか。サポートはした?」
「それはもう、懇切丁寧に」
「ならよし」
腕を組んで頷き、満足そうな表情だ。大方、自分の育てた後輩がきちんと仕事をこなしていることの感慨にでも浸っているのだろう。
「……ん。あの船、本を運んできたんですか?」
「書類に書いてなかった? ……ほら、これ」
机に縛り付けられている紙束から一枚を引き抜き、彼は私に突き出す。
なるほど、確かに『積荷』の欄には『書籍類』とある。管制官の仕事ではどこに泊まるかさえ分かればいいので、書類の名前と停泊場所以外にはろくに目を通さないくせがある。
「最近よく広告打ってるよ。見たことない?」
「あー、最近帰っても寝るだけなんですよね」
「ダメだよー、新しいものに触れないと老けるって言うし」
老けた、だろうか。
いや、まだ25だ。鏡の中の私は一年前の写真と何も変わらない……はずだ。
だいたい、女性に老ける云々の話を振るなど、気遣いの一つもない──これで妻子持ちだと言うのだから驚きだ。事実はなんたらよりも奇なり、なんて。
「丁度いいし、この本屋さんのマーケットにでも行ってみたらどう? 確か明日非番だったよね」
「ええ、シフトはありません」
本。
紙製の本など、幼年学校のころに置いてあったもの以来触れていないかもしれない。古い記憶を温めるのも悪くはない。少なくとも、毎度寝て終わる休日の過ごし方としては上等の部類だろう。
「──せっかくですし、行ってみます」
そして、翌日。
地下第五層にある住居街から、私は再び港に向かっていた。休日にメイクをするのは何週ぶりだろう。
出勤と同じエレベーターで地上付近にあるバースへ向かう途中、変に笑ってしまいそうになった。休日だというのに仕事場へ向かい、しかし私服で、客として訪れるなど、今までにない経験だ。満員のカーゴの中なので、この笑いは噛み殺す。
そういえば、こちらに来てから一年(地球時間)と少し経つが、私の故郷ヒギエアには帰っていない。だから港を使うこともなかったのだが──今までそれを意識しなかったというのは、自分でも驚いた。
仕事のし過ぎ? まさか。休みはあると自分で言ったのに──。
地下第一層。地上に限りなく近く、天井(厚さ15mの岩盤)の向こうはすぐ真空という場所。
ここに、件の船が接岸しているバースがある。それはすぐにわかった。ここに勤務しているから……ではなく、あまりの人の多さによって。
ちょっと見たことのないような大人数が、エレベーターから吐き出されている。私の乗ったカーゴも満員だったけれど、ほかの所も同じ。登った先のエレベーターホールにある16扉から、次々と定員すれすれの人数が降りてくる。
普段のバースなど、それはもう人寂しく、入港と出航の直前直後以外は無人に近いさまだったはず──こんなイベントに気づかずに過ごしていたなんて、いよいよ自分の生活習慣の悲惨さを理解し始めた。理解したくなかったくらいかもしれない。
さて、例の船……シルバーフィッシュ号が乗り付けているバースは、端的に言えば、混沌としていた。
私がそこを訪ねた午前11時ごろには、ここを訪れた市民たちが、溢した小麦粉のように動き回っていた。
200m四方のバースの片隅に、全長50mほどの例の船が事務所のように鎮座する側で、移動用に張り巡らされたワイヤーを伝って飛び回る人間たち。その側でふよふよと浮いている本棚(中身が乱れないようにする抑えと戸が付いている宇宙仕様)。
バースに商船が乗り付け、その場で開催するマーケットには、一度だけ入った事がある。セレスかヴェスタくらい大きな港がなければ開けないので、ヒギエア生まれとして物珍しさがあったからだ。
その時の商品は、地球で流行りの宝飾品や家具、滅多に輸入されない珍しい食品など、普通に運んでくるには手間もコストもかかり過ぎ、リスクも高いものばかり。当然お値段は凄まじく、とても大学上がりのひよっこは手が出ないものだらけだった。所々では大きい額が動いていたようで、IFトランスの証書屋まで配置されていたほどだ。
庶民としては近づくのも恐ろしい商品ばかりだったので、それ以来バースでの市には縁が無かったけれど……。
この本の市は、それらとは違うらしい。
百人ほどはいるだろう客たちが、各々目当ての本を探して本棚を眺め、所々に配置されているスタッフが案内を買って出る。手の平に乗るような小さなものから、両手で抱えるほどの大きなものまで、取り扱う品は多種多様。
正直、とても興味を惹かれる。
適当に壁を歩き、手近なところに流れてきた本棚を捕まえる。中を見ると、何か作りの似た背表紙がずらりと並んでいる。
『鏡の都』『オリンピア全史』『絵を描く詩家』『落葉』……ジャンルがわからない。何の棚なのだろう。
「ペンギンをお探しですか?」
「へ?」
上から──私から見て、上から──声が降ってきた。
見上げると、ワイヤーを手繰ってこちらに近づいてくるヒトが一人。あちこち跳ねた茶髪をバンダナで縛った女性だ。
「ペンギン……?」
「ええ、ペンギンです」
……何を言っているのだろう。ここは本のマーケットで合っている?
そんな私の戸惑いは、表情にはっきり出ていたみたいだ。その人は──スタッフであることを示すらしい緑の腕章が左腕にある──ああ、なるほど、などと頷いている。
空中で綺麗に半回転し、私の隣の壁に着地(壁)する。衝撃を和らげた脚の動きの滑らかさからして、どうやらこの人は
「ええと……ペンギンというのは、本の大きさの規格のことです。この棚は……」
棚の戸が開かれ、中から適当な一冊が取り出される。手の平よりも一回り大きいくらいの、他と比べればコンパクトな本だった。
「この大きさの本を詰めています。小さくて、中身は色々。素敵じゃありません?」
「なぜその名前に?」
「ペンギンという名前の、有名な出版社さんが使っていた大きさなんです。そこからずっと変わらないんですよ」
すらすらと繰り出される、定規をなぞるような応答。打てば響く人というのはこういう人のことを言うのだろう。
会話が続く。
「初めていらっしゃったんですか。それはそれは……」
「映画の原作とかはいかがですか。『不思議の国のアリス』とか。少し前に公開された……あれ、セレスではまだ公開されてませんか?」
「とても幻想的な、素晴らしい物語なんですよ。原作は大きな本なのでお値段が張りますが、本という形で持っていることに意味が──」
「ページを捲ったことは? ……なら、ぜひ一冊! ペンギンには色んな本がありますよ。お求め安いものの方が多いですし」
ただ、一度語らせると止まる気配がない。どんな本があるのか聞いただけなのに──ああ、入れ込み過ぎて周りが見えなくなるタイプだ……と悟ったころには、話し始めてから三十分ほどが経過していた。
「──セレスでは、本当にたくさんの方が本を好きになってくださって。ここに来るのは8回目ですけれど、まさに肩摩轂撃と──」
「あの! 何かいい本はありませんか! 何かこう教養を広めるというか、そういう……感じの……」
相手が止まらないのであれば、こちらも対抗するだけのこと。
強引に話に切り込み、会話のイニシアチブを引き寄せる。管制官としては必須のスキルとはいえ、このように対面した人物に試したことはない。ので、自信がない。と言うよりも、私が習った会話法よりもかなり拙くなっている。
しかし、相手も商売人。私が買う気を見せると、近くに寄ってきた本棚から次々と本を引き抜いていく。
一冊一冊に仔細な解説が付いたが、その中でも、特に興味を引いた本があった。
題名は『ロゼッタ・ストーン』。古代エジプト文明の文字、ヒエログリフの解読を大きく前進させた歴史的遺物の解説書──らしい。彼女が薦める『ペンギン』のなかの一冊。
別に地球の古い文字に興味があったわけではなく、偶然にも私と同じ名前を記した背表紙を見て、これは──と思ってしまったのだ。
手首を彼女の携帯精算機にかざし、支払いを終える。
その人は、あっと言う間に本にカバーをかけた。微小重力環境で台も無しに、立ったままで紙を折る鮮やかな手捌きには見とれてしまった。
どうぞ、と本を渡された後も、しばらくその場に立ったまま、別の客の応対に飛んで行った(物理的に)その人の後ろ姿を目で追っていた。
次の日。仕事場へ行く時、鞄の中にはその本があった。何も仕事の途中に読もうというわけではなくて、スタッフの入れ替わりでできる休憩時間の暇つぶしにでも使おうと思ってのこと。
出勤に使うエレベーターはいつも満員。セレス中の人が集まる宙港だから、働く人も船乗りも多い。だから何かイベントがあっても気づかなかったのかもしれない。空いたカーゴなんて見たことがないんだから……。
ただ、仕事場に近い、より浅い階層に向かうにつれて乗客は減っていく。そういう意味で言えば、昨日の光景は珍しいものだ。それに今まで意識を向けなかったのは……。
床を見ていたから?
「おはようございます」
第二階層でエレベーターを降り、職場のドアを開く。私の挨拶に、待機室に詰めていた数名が応えた。
携帯スクリーンに映画を映して見ているヒト、オンラインチェスをプレイしているヒト、部屋の片隅のベッドに体を縛り付けて仮眠をとっているヒト。
宙港管制所というのは、あまり目立つことのない職場だ。港に出入りする船すべてを把握し、交信しているけれども、その実態を知っているヒトがどれだけいるか。私だって、管制官の資格を取り、ここに配属されるまでは詳しい場所も知らなかった。
だからというわけではない──と思いたい──が、ここの職員は、どこか抜けているというか、緩い雰囲気というか……。
私もその一人になりつつあるのだろうか。いや、皆仕事のときは人が変わったように真面目になる。そこだけ守っていれば、とやかく言われる筋合いもない。
「ん、ちょっと早くないか。君のシフト、まだ一時間くらい先だろ」
「大丈夫です。こっちに用事があるので、先に荷物だけ置きに来ました」
制服やヘッドセットをしまっているロッカーに鞄を放り込み、今まで通ってきた通路をとって返す。通路に人がいないので、磁力靴の機能を切って飛んでいくことにした。
港の通路は縦に広い。大荷物を運ぶこともあるからなのだが、副次的に、空中を飛び回っての移動もやりやすい。壁を蹴って勢いをつけ、数百メートルの直線通路を突っ切る。
要はジャンプした時の速度のまま動けるということだ。
徒歩よりも速いが、等間隔に壁に据え付けられている取手を掴んで動きを操るのにコツがいる。低重力に慣れている宇宙生活者にしか使えない移動法だ。私たちよりはコロニアンの方が得意らしいが。
そうして向かったのは、昨日にも訪れた、本の市が開かれているバース。
昨日は軽い気持ちで向かったので、本以外の詳しいことを何も聞いていない。いつまで船がいるのか、アレを開いているのは誰か、etc……。一昨日見せられた書類でも確認すれば分かりそうだが、今はもうフォルダに仕舞われてしまっただろうし、のぞき見るようで気分が悪い。
しかし、たどり着いたバースの入り口、その扉であるエアロックには『Closed』の文字が点灯していた。近くにヒトが居ないので察してはいた。
昼も夜もない準惑星の地下でも、住んでいる人間が変わらない以上、昼夜の概念は引き継がれている。今回のシフトが朝番だったのが悪かったか。
まあ、開催日時は調べれば出る。そのためのセレス情報ネットワークだ。マーケットの詳細を知るだけなら、直接訪ねる必要はどこにもなかったが……開いているようなら、もう一度寄りたかった。まあ、まさか一日だけということは無いだろう。
職場に戻ろうと、体を回したとき。入り口の上の壁に貼り付けられた、深緑の布が見えた。昨日今日と通っているのに、よくもまあ注意を向けなかったものだ──その布の近くに跳び上がる。
白地の布を緑で染め抜き、柄を浮き出させている。描かれているのは、笑う八重歯の口と、文字が書かれたリボン。口の下のリボンに書かれている文字が、マーケットを開いている店の名のようだ。
“Cheshire Books“
「……シェジル・ブックス?」
「『チェシャー・ブックス』ですよ」
──半ば無意識に出ていた言葉に、答えるヒトがいた。
足元。さっきまで閉まっていたエアロックの扉から、鳩尾のあたりまでを通路側に突き出した人影。磁気レールで開閉されるこの扉は、開け閉めで音を立てない。
「あ……昨日の」
「ええ。ペンギンの棚にいらっしゃった──そうだ。昨日は思い出せなかったんですけれど、私、あの時より前にお客様とお話ししたことがあったかもしれないんです。どこかで聞いたお声だとは思っていたんですが」
「そうですか?」
「ここに着陸するとき、港の管制室と話していて──」
「あー、はい。管制室にいました。管制官です、シルバーフィッシュ号も私が誘導を」
「ですよね! ああ、スッキリしました。お客様が帰られたあとに気づいたんですよ。聞けてよかった」
通路側に出てきたその店員は、あの船に乗っていた──どころか、なんと艦長だと名乗った。
この『チェシャー・ブックス』の店主にして、メインベルトへの遠征を行う行商のリーダー。それが彼女というヒトだった。
曰く、新しく買った船に慣れようと、自動操縦機能を切っていたせいで、入港コースを外れたとのこと。少し前まで輸送は委託していたものの、採算が安定してきたので自前の船を買ったらしい。
操縦もライセンスを取ったばかりなんです──と、彼女は説明した。一昨日のことを気にしていたらしい。よくある事だから気にしなくていいと告げてから、私からもいくつか話題を振ってみた。
昨日の客の数、どんな本が人気か。そして、もともと私が聞こうと思っていたことも。
「──マーケットは一日おきの解放なんです。せっかく来てくださったのに、すいません」
「いえ、私もろくに調べもせずに来たので……セレスには、いつまで?」
「あと二週間ですね。バースは十六日間お借りしたので、残りは十四日です。最後までマーケットは開いていますので、ぜひ」
「そうします。その時はまた、お話、聞かせてください」
少しの会話のあと、作業に戻るという彼女に別れを告げる。そもエアロックの前に来た私がバース内側のモニターに映ったから出てきたとのこと。在庫の確認と散らばった本の整理が大変らしい。
閉まりつつある扉の向こうで手を振る店主に、私も同じく手を振って応えた。
眼鏡の向こう側の瞳と目が合ったが、すぐに扉に遮られた。
『ロゼッタ・ストーンは、紀元前196年にプトレマイオス5世が発したメンフィス勅令を記録した石柱の一部。ヒエログリフ、デモティック、古ギリシア語の三種によって同一の内容が刻まれていたため、ヒエログリフの解読に大きな貢献を果たしたことで有名だ。さて、現在は大英博物館のセントラル・ホールに展示されているこの遺物だが、元はフランス(9〜22世期)が所有していたものを──』
……内容は、歴史書よりは軽く、学校の授業よりは詳しい。そんなところ。
数時間前に朝番のシフトを終えた私は、待機室で浮かびつつ、例の本を読んでいた。紙というものには仕事柄よく触れるが、このようにきちんと作られた紙束は初めてだ。
ページをめくる、という動きに慣れていないので、一ページだけをめくるのが意外と難しい。
ただそれもあって、本を読むという行為に集中できていた。スワイプするだけの電子書籍ではこうはいかないだろう。紙の感触も、書類のそれより心地よい気がした。
「お、ソレ買ってきたの?」
「お疲れ様です──はい、昨日に」
そんななか、午前十時から午後二時までの昼番を終えた先輩が管制室から出てきた。薦めた身として、私がどうしたか気になるのだろう。
「何の本?」
「エジプトの本です。写真が綺麗ですよ」
「へえ、どんな感じ──砂漠か。いいねぇ、火星のとはまた違う色で」
この本には挿絵や資料写真が多い。ちょうど開いていたページに、石碑が見つかった町、ロゼッタの航空写真が印刷されていたので、それを広げて見せる。
薄い茶色の砂──それこそ砂色と言うべきなのだろうけど、私たちベルターにとっての『
オアシス。不毛の砂漠の中で、水が近くにあり、命が息づくことができる安息地。
考えてみると、私たち、ベルターの暮らしはオアシスの街のそれに似ている。度合いが違うにしても、ここの外で人間は生きていけないのだから。
なら、私たち管制官は、さしずめオアシスの街の守衛というところだろう。ターバンを巻き、腰にサーベルを携えて、ラクダを走らせる私──いや、似合わない。絶対。少し笑った。
「やっぱ、こういう写真は印刷の方が映えるね。俺も何か買おうかな」
「あ、お店のひとが、写真集が人気って言ってました。早めに行った方がいいと思いますよ」
「マジか。明日……うわ、朝夜シフトじゃん。明々後日になるなぁ」
彼は赤毛をくしゃくしゃにしながら、ロッカールームに向かって飛んでいく。
──しかし、彼はいつから本を読むようになったのだろう。口にしていないだけで、皆何冊かは持っているくらいに普及しているのだろうか?
セレスネットには本の市の告知があったものの、その評判がどうとか、売れ行きがどうとか書かれているページは見つからない。一々書くものでもないほど当たり前になっていたりして……。
セレスに来て一年少し。まだまだ驚かされる。
◇
『──フランスの言語学者シャンポリオンは、当時全く研究が進んでいなかったヒエログリフの解読に先鞭をつけた。古ギリシア語で刻まれた人名と、それを音素転写したヒエログリフの文字列を見つけ出したのだ。歴史には珍しいことに、この発見の重要性は、彼自身も気づいていた。すぐさま共有され、他のテクストにも応用されたこの方法は、神秘のヴェールに覆われた古代エジプト史に光を当てることになった──』
……私の人生にも、いつか光が当たるだろうか。
管制官個人の知名度など無いに等しい現状、それは望むべくもないこと。分かっている。
第十準惑星プシュケの崩壊を予見し、救助船団を率いて宇宙を駆け、事前に住民全員を避難させたマルグリット司令官。土星の衛星タイタンに落ちながらも生き延び、救助が来るまでの二週間を耐え抜いたアラム=アリー・ジブリール。火星の最高峰、オリンポス山27,000mを単独登頂したアーヴィン。月面コロニーでの新型インフルエンザ発生をいち早く報告し、大感染を鎮圧したホヅミ。
そういう人たちに比べれば、まあ地味なものだ。
しかし、それらの活動は全て、地球の、月の、小惑星の、各惑星系の、管制官なしには出来なかったことでもある。
だから、私たちも実質的に偉大な業績を成し遂げているのだ──などと言ってみても、目の前の仕事が光り輝いて見えるわけじゃない。ホログラムは光ってるけれど。
仕事中、急に本の一節が脳裏に閃いた。特に感銘を受けたわけでもない文章だったのに。
なぜかと問われれば……強いて言うなら、私の祖先が所属していた国の名前が出てきたからだろうか。
フランス。今の西ヨーロッパ連合ガリア地区。母方の家系はその辺りの出身と聞いている。
自分のルーツが分かるのは良いことだと思う。自分がどこに所属しているのか、それがはっきりするから。それがどんなに小さな星でも、地球のどこかでも。
私はヒギエア出身。将来、私も自分の子供にそれを伝えよう。まず人生を共に歩む相手を見つけなければいけないか──。
そうぼんやりと考えていた瞬間、管制テーブルのホログラムが赤く染まった。
『メーデー、メーデー、メーデー! こちらシルチス・トランスポート236便、ST236、ST236! セレス侵入軌道にて制御喪失、指示を乞う!』
メーデー(緊急事態宣言)。緊迫した声だ。緊急用電波周波数2841Hzで発信されている。
待機室のほうもにわかに騒がしくなり、管制室の扉が開かれる。数人がこの管制室の中に入り、ホログラムの操作や通信の調整をしている。私を交信に集中させようとしてのことだ。
「セレスコントロール了解。セレス近隣宙域の全宇宙船は待機軌道へ自動遷移してください。ST236、詳細な状況を報告願います」
『与圧は維持されているが、姿勢制御系に不具合あり! セレス重力圏で姿勢制御スラスターの配線が破損、おそらくデブリか一時衛星と衝突した。減速姿勢が取れない──』
同僚たちの操作の結果、今までは地表周辺の船を映していたホログラムが、その描写範囲を大きく広げ、セレス全球とその付近の空間を描き出す。
その小さな球体に向かって、僅かに丸みを帯びた線が伸びている。ST236便の船が進むことになっている軌道だ。つまり、このままではセレス地表に衝突する。
「ST236、自動修復機能は正常に機能していますか」
『ダメだ。そのあたりの制御系をまるまる持っていかれたらしい。船の後ろ半分の状況が不明だ、船体が破断したかもしれん──何、なんてこった……』
「ST236?」
『後ろの調査に出した奴が戻った。船の半分が無くなったそうだ。主エンジンも、燃料タンクも……』
冷たい汗が湧く。心臓の拍動が蟹座パルサー並みに速くなり、呼吸も若干荒くなってくる。
宇宙では、基本、自分の持つ何かを捨てることでしか推進力を得られない。燃料を燃やしたガスを噴射するのが一般的だ。
逆に言えば、捨てるものが無ければ推進力を生み出せないということであり、つまり交信相手の船は──非常にまずい状態にある。
現在位置、セレスから22,000キロメートル。相対速度は秒速3キロ。セレスの半径はおおよそ450キロメートル。つまり残り時間は一時間半ほど。
どうする。マニュアルでは救助船を……いや、ダメだ、アレの加速力じゃ惑星間航行速度の船を捕まえられない。体当たりで軌道を逸らす……これもダメ。最大加速で調整してもランデブー時相対速度は秒速300mを下回らない。これで突撃したら木っ端微塵だし……。
「ST236、脱出用ポッドはありますか」
『エンジンに同じだ。船外活動ユニットは残ってるが、そのΔV(総合加速度)じゃセレスを避けられん。まずユニットが一機しかないんだ。この船には二人乗ってる……』
詰んだ。
救助船に乗り換えるとすれば、猛スピードですれ違う船に船外活動ユニットで速度を合わせなければいけない。直に人間が操作する都合上、ユニットのスラスターの噴射方向やタイミングは精度が悪いので──事実上、不可能。
救助船のほうで軌道を合わせるにしても、人間サイズの小さな物体を相手にすることは想定外。システムが対応していない。
無理だ。救出できない。
「ローズ。セレス防衛隊の対隕石砲で蒸発させるしか……」
「いえ、まだ……何か方法が」
いつもは明るい先輩も、さすがに声のトーンを落としている。私もか。
対隕石砲。ここセレスに時折降ってくる隕石を消し去るための重水素レーザー砲。蒸発させてガスにしてしまえば、地下の市街はもちろん、地表に露出している港の設備も無傷。毎日のように動かしているので、狙いを外すということもないだろう。
当然、中にいる二名は船ごと消えてしまう。船から脱出しても、セレスへの衝突コースを辿っているのは変わらない。やはり死ぬ。
『こちらも覚悟はしている。セレスの3000万人のほうが大切だ、この船ごと……』
「まだ時間はあります。考えましょう」
考えろ、私。真っ二つになった船。相対速度を殺してのランデブーは不可。燃料もエンジンも無い。中の二人を殺さずに、これをどう動かすか。
二人に宇宙服を着させて、中の空気を全部放出すれば軌道を変えられる? いや、一気圧で充填された気体程度じゃ大した力にはならない。ST236便はシルバーフィッシュ号と同じ輸送船。一人乗りシャトルなんかとは質量が違いすぎる。
『──ヒエログリフ、デモティック、古ギリシア語。この三種の言語で同一の内容が刻まれていたことから、それぞれを比較し、未知の言語を──』
何で、こんな時に本の内容が……子供のころもそうだった。母さんに叱られてるときも、昨日に聞いた曲の歌詞が頭を埋め尽くしたりしたっけ……。
ああもう、そんな事考えてる場合か──。
『同一の──学会には大きな衝撃が──三つの言語を繋ぎ合わせ──』
今はそれどころじゃないってのに。少しは引っ込んでなさい。
『偏った──新たな方向──既存の技法とも組み合わせて──』
……そうだ。
「セレス防衛隊に連絡を。ですが、救出の可能性はあります」
待つ。
上手く行くかどうか……できなかった場合、初めの予定通りレーザーで船を消し去ることになる。防衛隊の幹部陣への提案が受け入れられたのは、失敗してもレーザー砲が使えるから、というのもあるだろう。それでなければ、いち管制官の提言など提出すら認めてもらえないはずだ──。
計画を各所に伝え、管制室で待つこと25分。準備完了の知らせが入った。
『こちらセレス防衛隊。民間人二名の救出を目的とする、ボーラ作戦を開始する』
「セレスコントロール了解。各物体追尾開始」
合図と同時に、管制テーブルに映されたホログラムのセレスから、二つの光の点が放たれる。セレス周回軌道にある宇宙船よりも、また衝突軌道にある宇宙船残骸群よりも速く、圧倒的な加速力を見せつけるように飛んでいく。
その二つの物体は、対隕石初期対応用武装、軌道変更ミサイル。セレスに向かって飛んでくることが確定した隕石を、まだ遠く離れた地点にいるうちに押してやり、衝突軌道を逸らすための武装だ。
これは、的が非常に遠くにある場合、手元の僅かな狂いが大きく影響するようのと同じ原理の対応法だ。エネルギー効率は良いものの、即応性に欠ける。
だから、これらはあくまで初期対応のための道具。今回のようにセレスに接近している状態から軌道を逸らすような出力はない。しかし。
私が目をつけたのは、今まさにホログラムの宇宙を突っ切っていくミサイルの加速力。
これほどの加速力、そして精密誘導性能があれば、こちらに猛スピードで向かってくる例の船に接近し、もとは隕石を掴むための鉤爪で取り付くことができる。そして。
今回は、ミサイル二機に特別な荷物をくくりつけていた。
ミサイルを表す二つの光点を結ぶ、一本の細い線。これが私の発想の核。
超伸縮性カーボンナノチューブ・テープ。セレスの軌道エレベーターに何百本と使われているものの予備を一つ拝借した。そのウリは、よく伸び、絶対に切れないこと。
もとの長さは1200kmもあったが、適当な長さ(およそ200km)に加工している。
これで二機のミサイルを繋ぐように接合し、例の船に持っていく。
発射から五分ほどが経過し、光点のひとつがST236便の船にランデブーする。
秒速数十キロメートルの速度差をその場で殺し、相対速度を0に。ミサイルから映像が送られてきた。テーブルのホログラム場の片隅に、小さなウィンドウとして映し出される。
カメラが捉えていたのは、船体の半ばから粘土細工を引きちぎるように両断された貨物船。損害は報告通りのようだ。
貨物を収納するコンテナ部分は半壊、エンジンなどが取り付けられた推進ブロックは喪失。管制室の同僚たちが思わずといった様子で息を呑む。
カメラの映像は次第に船へ近づいて行き、視界を埋め尽くしたところで途絶えた。ミサイルが船を掴んだのだ。
そしてもう一機のミサイルは、その船の後方およそ40km地点、折り取られた推進部の残骸にランデブーしている。
こちらも先程と同様にして、その残骸を掴む。一番強度の高そうな場所を選んでのことだ。
こうして、引き裂かれた船が繋がれた。細い一本のテープによって。
獲物に投げつける、細い紐で二つの石を繋いだ狩りの道具、ボーラのように。
『作戦、第一段階成功。第二段階に移行されたし』
「セレスコントロール了解。……救助船、推進開始」
ここからが正念場。
救助船は防衛隊の管轄ではなく、私たち宙港のもの。こことは別の部屋に置かれている、宙港救命部が運用している。
先の通信は向こうの部署にも伝えられているので、救命部は既に行動を開始している。私は、彼らの動きを各部署に周知する役割を担うことになっていた。
ホログラム上では、船と残骸に取り付いたミサイルたちとは別の光点が動き始めている。緊急時に備え、予めセレス周回軌道に待機させていた救助船二隻。それらは事故船を曳航する時に使われるマクロカーボンロープを用い、先のミサイル同様お互いを繋ぎ合わせている。
船と残骸を結んでいるあのテープに比べると、そのロープは短い。二隻は5kmほどの距離を開けて並進中。
救助船は、人命を助けるための船だ。空気、水、食料は当然、デブリ帯を突っ切るためのシールドや、自動手術台なんかの重い医療機器まで積んでいる。そのせいで質量が大きい。
宇宙的に言えば、質量が大きいイコール加速性能が悪い。速度を高めることはできても、その場で急停止するとか、障害物を避けるだとか、そういうことができないのだ。
だから、例の船にランデブーして直に二人を救出することはできない。だが──。
『防衛隊、管制室、救助船の軌道調整は終わった。後は祈っててくれ』
救命部の担当者からの連絡。ホログラムでは、事故船と救助船二隻の軌道が、宙の一点で交わっていた。
漆黒の宇宙空間を飛び、予定の軌道をなぞる二隻。
十分ほどで、四つの光点──船、残骸、救助船二隻が接近する。
固唾を呑んでそれを見つめた。手のひらが湿っぽい。心臓も痛い。
「ST236、衝撃に備えてください」
救助船のペアが、事故船と残骸の間の空間を通り抜け──お互いの間に張られた、テープとロープが引っかかる。
二本の線は松葉を縦横に組み合わせたような形になり、その両端の物体たちへ張力を伝えた。
瞬間、救助船を示す光点が輝きを増す。エンジンの出力を最大にまで上げ、全力で船と残骸を牽引しようとしていることを示す明かりだ。
その二つを結ぶテープは、その伸縮性によってゴム糸のように伸び、相対速度数百メートル毎秒の物体に曳かれた衝撃を和らげ、また事故船をゆるやかに引く。
ほぼ同質量の二つの物体を繋ぎ、その間に張った伸縮性のあるテープを、二隻の船の間に渡したロープに引っ掛けて、運ぶ。
相対速度を殺したランデブーができない状況で、中に乗る人が耐えられる範囲の衝撃で軌道を変える。その方法がこれだ。
伸び縮みするテープを介して力を伝えることで、一度にかかる加速度を低減できる。
長さ40kmという大きな目標物と、5kmのロープという巨大な手により、高速で通過するものでも捉えやすくなる。
重石代わりに使った船の後ろ半分も衝突軌道から逸らせるため、対隕石砲の処理するデブリの量も減る。
懸念事項は、救助船どうしを結んでいるロープの耐久性だったが……それも、もう大丈夫だ。
『──シルチス・トランスポート236便より、セレスへ。加速は終わったか? こちら二名は今のところ無事だ。打ち身が少しあるが』
「セレスコントロール了解。……防衛隊、並びに救命部へ通達。現時点で、ST236便の船員は全員無事。軽症につき緊急の治療は不要。また当該船舶がセレス重力圏を脱出する軌道に遷移したことを確認。衝突は回避されました」
『防衛隊了解。作戦第二段階は成功裏に終了。現時点より、残存デブリ除去を目的とする砲台運用を開始する』
歓声。
まだセレスの安全は確保されていないけれど、二人の命は助かったと思っていい。衝突さえしなければ、時間を掛けて救助を送ることができる。私たち管制室のメンバーからすれば、もう作戦成功と同じことだ。
防衛隊も、毎日のように微小隕石を撃ち落としているのだから失敗はしないだろう。
興奮した同僚に肩を掴まれて揺さぶられる私は、揺れる視界の中に、まだ赤色のままのホログラムを捉えた。
そこに映る事故船の軌道は、私たちのいる小さな星から離れ、無限の彼方へ向かって伸びている。
これで、私の仕事は終わりだ。
◇
……そうだったら、どんなによかったか。
「こんにちは」
「はい、こんにちは──あ、お久しぶりですね。またいらしてくださって嬉しいです」
「すいません、本当はすぐ来ようと思ってたんですが……あの後、かなり忙しくなってしまって」
「いえ、こうして来てくださったんですから」
私が、こうして再び本の市を訪れることができたのは、あの事故から九日も経ってからのことだった。
管制室での緊張の一時間。その後に私たちを待っていたのは、セレス行政からの取り調べだった。具体的には、運輸省。セレスの重力圏を飛び抜けていった船を追い掛けるように、別の救助船を送り出してすぐのタイミングで連絡が来た。召喚命令だった。
呼び出されたのは、事故が起こったときに管制を行っていた者──つまり私。
行き先は、セレス運輸省の庁舎の一室。
7/23/2778事故調査委員会、という文字を掛けられているドアの向こうに通されると、そこにはいくつかの椅子があり、またそれに腰掛けている(体をベルトで縛り付けている──宇宙では普通)人たちが、私を待っていた。
私が同じく椅子に座ると、その人たちは矢継ぎ早に質問を投げてきた。事故が起こったときの状況、私の対応、管制室のメンバーの行動、果ては私の責任の有無についての意見まで。
本人にそれ聞くか……そう思ったと同時に、体からはどっと冷や汗が噴き出た。
そう、彼らが私を呼び出したのは、私の管制に問題があったのか、無かったのかをハッキリさせるためだったのだ。
救出方法を考え、それを実行してもらっている間は、緊張と興奮のせいで考えずに済んでいたが……確かに、私は非常にまずい立場にあった。
事故の原因は、例の船に何かが衝突したこと。それがもし、何らかの理由で管制されていなかった、あるいは間違った誘導をされていた船であったのなら……管制官の私は牢獄行き。いや、まさか薬殺刑まで──そんな恐ろしい想像と、胃の痛みに耐えること一日。
運輸省の客室に泊まらされた私に伝えられたのは、船に追いついた救助船からの報告。
船体の破損具合、破断面の元素調査、衝突物体の推定軌道の調査の結果、船を横から砕いたのは、偶然にもセレスの重力に捉えられ、軌道を歪められた小隕石だったことが判明した。
なぜ地表のレーダーがそれを捕捉できなかったのかと言うと──「エル・ブランコ号がですか!?」──私がこう驚いたように、あの六角柱の輸送船のせいだったらしい。
なんでも、予想以上に重い貨物を積むことになったにも関わらず、いつも使っているマニュアル通りに操艦したせいで発進コースを外れ、隕石警戒レーダー網のうちの一機の真正面を通ってしまったのだとか。そのレーダーが担当していた宙域こそ、あの事故船と小隕石がいた場所で……はぁ。今思い出しても溜息が出る。
私の誘導ミスかと思って、船の名前を聞いたときは鳥肌が立った。しかし、原因はエル・ブランコ号のTCAS──自己位置報告・衝突防止システム──の整備ミスだと知らされた。港側の設備は最低限の機能しかなく、詳細は船側の機器による位置の報告が頼り。
それがセレス停泊中に故障したのならば、管制室のシステムでは、衝突の危険でもない限りは警告を発することができないのだ。
レーダーを運用している部署も、私たち管制室の知名度が低いあまり、報告先がどこなのか分からず混乱したらしい。だから、私はエル・ブランコ号が異常軌道をとっていることに気付けなかったというわけだ。
そんなわけで、私はお咎めなし。損害賠償はスパニッシュ・キャラバン社に回されることになった。
あの船に乗っていた二人は、無事にセレスに降りて来ることができたらしい。私は事故調査委員会に五日ほど捕まっていた(捜査協力という名目だったものの、半分は管制を怠った容疑が完全に晴れるまでの軟禁だった)ので、すぐには会いに行けなかった。それに、もう管制室から見舞いの人が出されていた。
検査入院中の二人へのインタビューで、彼がニュース画面に映り込んだときは驚いた──あの鮮やかな赤毛。写っちゃまずいって察したんだか、気まずそうな顔をして、すうと画面の外に消えていくところには大笑いした。録画しておきたかったくらいだった。
そんなこんなで、私が自室に帰れたのは事故から五日後。そこから職場に戻り、私の端末に送られてきていた山ほどのメール、報告書の提出要請、メッセージ等々──メインベルトにある小惑星の総数より多かった気がする──を捌くのに二日。
その翌日から三日間の休みを取り、家で泥のように眠って一日を過ごした後、事故の前に交わした会話を思い出した。
計算してみると、一日おきの開催というアレはちょうど今日ではないか。これを逃してはいつ行けるともわからん──という感じで、私はあのバースを訪れたのだ。
今は午後1時。ちょうど昼時なので、前回に比べて客は少ない。だからこうして目当ての人と話せているのだ。
「おすすめの本のリストは前に作ったことがあるんです。その中から何冊かご紹介します──と、その前に。この前お買い上げになった本はいかがでしたか?」
「何回も読みました。もう中身を読み上げられるくらいに」
「紙の本の良さ、分かっていただけたようで……!」
「ええ、本当に」
何しろ、仕事はなく、何かを聞かれもしないまま、五日間も運輸省の一フロアに居なければいけなかったので……とは言えない。しかしまあ、実際、本を読むのは楽しかった。
電子書籍と何が違うのか。紙の感触はもちろんだが、単にあの本の内容が興味を惹かれるものだった、というのもあるだろう。
これだけ電子技術が発達してもまだ、写真を見る時は印刷したほうがよいとは言われるので、資料や綺麗な街並みの写真には目を奪われたし──それに、あの作戦のインスピレーションにもなったことで、ちょっと愛着が湧いたのもあるかも。
何にもまして、ページをめくるという行為は、良い。手の中でぱらぱらと開いていく本のページ。紙の匂いが乗った風が顔に吹いてくる、あの感覚。電子書籍では絶対にできない。
内容、これもまた良かった。
似ている二つの物を繋ぎ合わせる。今までの手法を拡張する。新しい視点を加える。
まさか800年も昔の言語学者に助けられるとは……いやいや。私を、そしてあの二人を助けたのは、目の前にいる店主なのではないだろうか。
「──あの」
「はい?」
本棚の浮かぶバースの中を見上げ、目当ての棚を探している彼女は、声に反応して、その視線を横に立つ私に向けた。
そういえば、顎に添えられた指、綺麗な形だ──。
「この前、お話されてた本なんですけど。『不思議の国のアリス』。あれ、まだ残ってますか?」
「はい。ご覧になりますか?」
「お願いします」
そう言うと、店主は腰に着けていた端末を操作し始めた。ほどなくして、タッチパネルから指が離れ、顔が上に向けられる。
私もつられて上を見上げると、バースの中央にいたスタッフが、こちらにひとつの本棚を押しだすのが見えた。なるほど、適宜自分の近くにある棚を動かして、欲しがる客のところに飛ばしているのか──と感心していると、その棚はうまくワイヤーを通り抜け、こちらにやって来た。
それを受け止めると、店主は戸を開き、本たちの中から一冊を抜き取る。
「これです。えーと、確か1907年版の復刻だったと思います」
手渡された本は、赤い表紙に金で題名が箔押しされた、見るからに質の良い品物だった。
表紙の中心には、主人公だろう少女と、兎のようなもの、そして……グリフォン? らしき生き物が描かれた、緻密な線画が印刷されている。
本を開くと、雰囲気作りのためか、少し古っぽい字体で本文が書かれていた。文章は現代の英語のようだから、少し滑稽な印象を感じる。
内容は確認したいが買わずに読むのも申し訳ないので、適当なところを開いてはつまみ読みしていたら、ひとつ見覚えのある単語があった。
“Cheshire cat is laughing at her──”
シ……ではなく、チェシャ―だったか。チェシャー・キャット。
「もしかして、このお店の名前は……これから?」本を彼女に向ける。
「そうですよ。子供の頃に読んで、ずっと印象に残っていて……私が本屋をやっているのも、その本を読んだから、かもしれませんね」
この本──いや、この(手元にある)本ではないけれど。この本は、目の前に立つ書店の主が、店を構えるきっかけになったというわけだ。
一本の映画、一枚の画像。一人の恩師、それか友人。そういうものが、人生を大きく変えたという話はよく聞く。電子書籍だって、そういうことはあると思う……でも、この紙の本にだって、人生を変える力がある。
この本が描かれてから900年近く経ったのに、まだこうして誰かに影響しているって、きっと凄いことだ。
それに、彼女がこの書店を開き、こうしてセレスを訪ねてくれなければ、先日の二人は助けられなかった。
運命なんて大仰な言葉を使うのは気恥ずかしい。でも、そういうことってあるんだ。案外身近に。
「……本屋さんのお仕事って、楽しいですか?」
「私にとっては最高の仕事です。地球のお店では、お客さんがいないとき、ずっと本を読んでいるんですよ。そんなことができるお仕事は他にありませんしね」
まあ、お客さんがいても読んでいたりするんですが──と、照れたように笑う彼女を見て、何か、私の中のよどみに、新鮮な空気が流れ込んだような気がした。
「これ、ください」
「わかりました。面白く読んでいただけたら、私も嬉しいです」
他にも、彼女に薦められた本を何冊か買って、別れを告げた。
次にここに来るのは半年後だと言う。その時までにこの本たちを読んで、あの人と感想を語り合いたい──。
◇
結局、あの作戦の立案者の名前は、人々に知られずに終わった。褒め称えられたのはセレス防衛隊と、宙港救命部の人たちだけ。私はあくまで管制官であって、人を直接救ったわけじゃないから、当然といえば当然。
それで満足しているかって?
もちろん。大いに満足してる。
いつだって、脇役がいないとお話はうまく回らないんだよ、ワトソン君……いや、これはワトソン君がホームズに言わないといけないか。言う人と聞く人が逆だ。
私は、この仕事をちょっとだけ好きになった。忙しくて、休みはあんまり取れてないけれど……誰かの人生を、少しだけ変えられる。それに気付いたから。
私も、誰かに影響されてここにいる。それが誰だったのか、今では思い出せないけど──たぶん、私たちはそういう役を貰っているんだと思う。
管制官の名前なんて、覚えているヒトは少ない。
でも、名前を覚えていない誰かに言われたことや、されたことで、その後の人生が変わったヒトは沢山いると思う。
私はロゼッタ・レイス。第四準惑星ヒギエア出身。今はこのセレスの宙港で管制官をやってる。
この名前を知る人も、この名前を忘れたヒトも、私に関わったという事実を変えられはしない。
私の人生のあとがきにはこう書こう。私の名前は、多くの偉業を成しとげた人々と共にあり、決して知られることはない。そして──。
『──セレスコントロール、こちらシルチス・トランスポート724便。23番ドックへの着陸を申請。どうぞ』
……いいところだったのに。本を読むときといい、妄想に耽るときといい、タイミングの悪いことばかり起こっているような……。
まあ、とりあえずは仕事をしよう。いつも通りの仕事、いつも通りのアナウンス。
「セレスコントロール了解。手順書はお持ちですか?」
こうして、私はまた、誰かの人生に触れる。
Bookworm 麻宇井 @oxalis
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