Bookworm

麻宇井

BookSeller

 窓の外を見よう。

 そこに空が見えるなら、君はどこかの星の大気圏にいることになる。もしかしたら、僕ら人間がまだ作れていない、非円筒型の大型コロニーかも。

 僕の窓はと言えば……黒布の宙、そこに針で穿った穴たちが見える。

 厚さ三十センチメートルの石英ガラス。その向こうには、無限を標榜する宇宙が広がっている。

 昔、この景色を見るには国が総出で取り組む必要があったらしい。その時代の宇宙という場所は、今で言う海王星系のトリトンみたいな場所だったに違いない。不便極まりなく、生活には潤いを欠き、娯楽ひとつを手に入れるのも数年がかり……定住どころか、一時的に滞在することだって願い下げ。

 しかし、そんな場所を目指し、国家に鞭打ってソリを走らせてきた人々がいたからこそ、僕の生活は保障されている。感謝の念に絶えない。

 ただ、僕の住む家は何ともせせこましく、不都合も多い。この小惑星帯・メインベルト──火星と木星の間を回る石ころの集団──は、住む場所によって快適度に大きな差がある。

 地球に近い……太陽周回軌道半径が小さい石ころが、都会。より木星側にある石ころが、田舎。僕は都会で育ったから、まだ良い方なのだけれど。


 太陽系第三準惑星ヴェスタ。そこが僕の出身地。

 アーシアンにも知っている人はいると思う。あえて説明するなら……まあ普通の、ちょっと大きな石ころ。クレーターがそこかしこに刻まれて、灰色の砂に覆われている、つぶれた芋みたいな星。

 小惑星連合の第一星、首都セレスみたいな丸さも大きさもないけれど、住むにはいいところだと思う。なにしろセレスに軌道が近いせいで、行き来が格段にしやすい。ちょっと遊びに行くにも、子供の小遣い程度で十分。時期が良ければ、低速シャトルでもひと月で到着できた。

 

 今、僕は社のシャトルに乗ってセレスに向かっている。会社──天体間情報輸送、IFトランス社──の業務である、物理証書の運搬のために。

 このご時世、電子的な証明なんてものはアテにならない。量子暗号の技術が完成しないかぎり、旧来の方法で保護されているものの信頼性は無いに等しいと言われている。

 だからこそ、物理的な証明書が再興した。時代は再び印象指輪と封蝋へ逆戻り。

 そして僕の食事になった。

 

 考えてみると、この仕事は昔の領事というものに近いんじゃないだろうか。近頃、シャトルの窓から宇宙を眺めると、そう思うようになった。

 

 きっかけは、この前の長期休暇に地球へ向かったこと。だいたい6ヶ月前だ。

 

 その日は雲ひとつない快晴だった。

 体を押し潰そうとする重力にひいひい言いながら、地球の税関へ進む。

 ヴェスタには重力らしい重力なんてものはなく、シャトルの加速時にもせいぜい0.3Gが数分程度。そこで人生の97%を過ごしている僕にしてみれば、1G環境なんてものは気分が悪くてしかたない。

 内臓もその中身も地面に引かれて、体の中の一か所に留まっている。アーシアンやマーシャンはよくこんな環境に身を置けるものだと常々思っていたけれど、今回の旅行ではそれが補強されたわけだ。

 事前に遠心室で抗重力の訓練を受けてはいたから、その場で頽れて動けなくなる、なんて情けないことにはならなかった。しかし相当みっともない歩き方だったとは思う。


 税関を無事に通過し、宙港の外に出ると、目を焼くような日差しに思わず目を細めた。

 宙港──宇宙から降りてくるための、軌道エレベーターの根元──の近隣に広がる街は、貿易で栄えたという港町よろしく、宇宙生活者とアーシアンが入り交じり、どこの店もごったがえしている。

 宇宙帰りのアーシアンもいれば、僕のように宇宙で育った連中もいる。歩き方で一目瞭然だ。何しろ微小重力環境では脚よりも腕をよく使うもので、脚力にはなかなかお鉢が回ってこない。

 そんな貧弱な足腰を酷使しつつ、地球に来た目的の一つへ向かう。

 

 熱帯特有のうだるような暑さ。エレベーターは構造上赤道付近にしか作れないのだが、もうちょっとなんとかならないものだろうか。

 そんな欲求の噴出、汗を拭きながら、冷房の効いた建物の中に入る。

 いっそ寒気がするほどに、乾き、冷やされた空気。その店に並べられているのは、平積みされた本、一面の棚に収められた本、それらを統べる店主。

 並べられている──という表現を、ヒトである店主に向けるのは、僕なりの理由がある。

 

 この時から四年ほど前。現在から見れば四年半前に、僕が初めて仕事で地球に降りたとき。僕はこの書店に立ち寄った。

 無駄な質量を嫌う宇宙では、本などという質量情報比の低いメディアは忌避される。地球に来たからには、それを一度拝んでおこうと思ったからだ。

 薄暗い店内、受付代わりの丸机で、その人はハードカバーの本を読んでいた。

 肩甲骨のあたりまである暗い茶色のクセ毛を、深緑のバンダナで無造作に結んだローポニー。今でもよく覚えている……と言うよりも、いつ来ても同じ格好をしている。

 この初対面のときの印象が、店主のイメージを決定したのだった。

 

 店の戸を押し開けると、本棚があった。見上げるほど、おそらく僕の背丈の倍近い高さのそれらが、天井すれすれまで聳えている。

 ここは書店ではなく、何かの書庫ではなかろうか──そう思ったのも一瞬のこと。左右を見れば、右の通路の先に、件のテーブルが置かれた小空間があった。

 

 そこに、彼女はあった。

 人形のようだった。

 

 それがこの店舗の従業員だと気づいたのは、彼女が身に着けていたエプロンに、外で風に吹かれていたバナーと同じマークが描かれていたからだ。それが無ければ、何かそういう置き物だと思いこみすらしたかもしれない。

 一見して言えば、彼女は精緻な彫像だ。ピグマリオンが彫ったガラテアほどではないが、生きている『ように見える』くらいには、精巧に出来ていた。

 後に知ったことだが、オートマトンというものが、そのイメージに近い。僕の両親の家系が連なる国にはお茶汲みをするからくり人形があったらしいが、ヨーロッパでは手紙を書く人形がいた。そういうもの達がオートマトンと呼ばれていたという。

 それの系譜だと言われれば、僕は納得してしまうだろう。

 絶世の──という程ではないにしても、世の基準から言えば整った容姿であると思う。それが本を読んでいるだけの姿が、不思議と、視線を捉えて離さなかった。


「どうも」

「ん」


 一応の客である僕に、驚くほど関心がない。手元の本から視線を外し、眼鏡のレンズ越しにちらとこちらを見ただけで、すぐに読書を再開していた。制服のような前掛けがなければ、彼女も客のように見えたはずだ。


 その日は、文庫本を一冊手に取った。宇宙に登るときは手荷物の重さごとに料金が取られるため、できるだけ小さく、軽いものを選んだ。

 選定には三十分ほど掛けたものの、やはり店主──他に店員が見当たらない──は、身動ぎ一つしていません、というふうな様子だった。

 本を差し出すと、彼女は腰に吊っていた手持ちレジスターにバーコードを読み取らせ、こちらに支払いを求める。その目には、早く払え、早く出て行け──という感情がありありと見て取れた。読書にかける熱意が伝わるが、少々圧迫感もある。


 手首にインプラントされたICをレジスターにかざすと、軽快な音と共に、僕の口座から幾らかが引き落とされた……だろう。

 その不満気な顔とは裏腹に、彼女は鮮やかな手捌きでブックカバーを付ける。ここで気付いたが、彼女の指は、なんとも細く、直線に近い。

 この興味は、僕自身の育ちに由来するものだ。

 手を酷使する小天体での暮らしでは、自然と手指の筋肉や骨が鍛えられる。関節は隆起するものだし、指の血管は目立つものだ──男女問わず。


 なればこそ、その指は異質だった。アーシアンは皆こうなのかとも一瞬思ったが、どうやら一部だけらしい。その瞬間まで、僕はこのような人に遭遇していなかったのだから。

 失礼な言い方だが、僕にとって、彼女は──異邦人だった。

 未知の体現。三世紀ほど前によく作られた映画のエイリアンのように……いや、事実、僕と彼女は異星人(エイリアン)なのだけれど。


 人口二十五億を誇る地球の片隅で、僕はエイリアンに出会った。


 それから、僕は足繁く──宇宙生活者的スケールでは──地球へ向かい、その書店を訪れるようになった。

 半年に一回! 一ヶ月の有給を申請できるのが、地球時間での六ヶ月に一回というわけだ。長すぎる。

 宇宙はとにかく移動に時間がかかる。超特急の民間シャトルでも、メインベルトから地球へは平均して往復一ヶ月。仕事を放り出して行くには長い。半年ごとの長期休暇期間を待つしかない。

 

 そうして勝ち取った休みで、僕は地球へ向かう。兄妹のお使いという側面もあるが、やはりあの店を訪ねることが主目的だ。

 

 驚いたことに、二回目に訪ねた時点ですら、店主は僕のことを覚えていた。曰く、この店を開いて以来の足腰の弱さ、そして手の分厚さ。ベルターかコロニアンの客など滅多に来ない──とのこと。

 ベルターというのは、僕のようにメインベルトに住む人間のこと。およそ15億人。対して、木星系や土星系のスペースコロニーに住み、ヘリウムを採掘している人間、およそ二百万人がコロニアンと呼ばれる。特徴はどちらも彼女の言う通りだ。

 

 確かに、僕はベルターだ──と応じると、なぜか店主は自分の向かいの席を僕に勧めた。目には眩しいほどの輝きがあり、テーブルの上にはメモ帳が。

 どう見ても取材の体制だ。

 

 案の定、店主は宇宙暮らしの生活について根掘り葉掘り聞いてきた。なんでも、最近は宇宙奇譚モノの本を読んでいるらしく、実際の生活と比べてどうなのかということが気になって仕方がなかったとのこと。

 

「前にいらっしゃったときは、すいません。ちょうど小説がいいところだったので──」


 照れたように頬を掻く彼女の問いに答えるのは、不思議と気分の良いものだった。願ってもない会話のきっかけになったからか、単に誰かの要望に応えることが嬉しかったのか……。

 とにかく、二回目の訪問では、彼女の好奇心により、顔見知り程度に親睦を深めることになった。

 話をしているときの店主は、最初の印象とは裏腹に、快活で好奇心に満ちた人柄を感じさせた。しかし帰り際に窓から中を覗くと、あの人形のような後ろ姿が目に入った。

 本当の彼女はどちらなのだろう──悩む僕の手には、あの時『いいところ』だった本の文庫版が握られていた。

 

 帰りのシャトルで、それを読んだ。幸い時間だけはたっぷりあるから、どれだけ長かろうと問題ない。実際かなり長かったが、二週間ほどで読み終えた。

 22世紀末ほどの英語で書かれていた。紙は指を切るために拵えたのかと疑うほど薄く、しかし千切ることはできそうもないハリの強さを持っている。

 22En言語は修めていないが、まあ今の27En言語と大して変わってはいない。偉大なのは世代を跨いで使われたネットワークだ。生の言語の記録を後代に伝えて、言語の変化をほぼ完全に押さえ込んでみせたのだから。

 

 内容はと言えば──難解だった。どうにもこの小説、原作が書かれたのは22世紀どころか20世紀ごろのようだ。宇宙開発はアリの歩みで、未だ空軍なんてものが軍の中核にあったころ。

 そんな時期に書かれては、僕たちとは時代背景が違いすぎる。ベルターにとっては地上の街というのが珍しいし、インフラがパイプラインで提供されているというのもおかしなことだ。

 たかだか不可視のドームに覆われ、外界と隔絶された程度のことは、閉鎖環境維持システムが普及している当代では何の心配もない。むしろ対隕石用防壁として完璧だ。船の出入りができないのは非常に困るが死にはしない。

 

 そんなわけで、話の基礎を読み解くのに数日かかった。そして読み始めると、これがまた不思議と熱中してしまった。伊達に現在まで読み継がれていないというわけだ。

 閉じ込められたことによる住人たちの狂乱。理性的な者、欲に従う者、その間で振り回される者、多種多様な人物達が綾なすドラマ。人智を超えた存在へと祈り、また懇願するさまは……宗教衰退以前に書かれたものだからか、非常に生々しい。

 文庫本4冊分の物語を読み終えたときには、ほうと溜息をついてしまった。息もつかせぬ──とはこういうことかと実感した。

 手の中の本は、なにか異界へと繋がる門のような物なのかもしれない。あれは映像メディアには絶対にない感覚だった。

 

 三回目の訪問では、思い切ってこちらから声をかけた。いつも通り客のいない店内でなら、断られたところで傷を負うのはこちらだけだ、と腹を括って挑んだのだが、結果、あっさりと受け入れられた。

 何かいい本はないだろうか──と切り出すと、店主は今までにない熱意で語り出した。書店を開いているだけあって、やはり書籍には一家言あるらしい。

 右に左にと忙しなく歩き回り、次々に机に積まれていく本たち。その一つ一つの魅力の紹介まで添えられては、この辺りで結構ですとは言いにくい。

 結局、紹介は2、3時間に渡って続けられ、そのうちの大半を購入してしまってた。きっとこの店の良いカモと化していることだろうが、別に気にすることではない。好きで通っているのだから、手荷物の料金が多少高くなっても──家計の許す限りは──買っていこう。

 

 それに、今回は格段の成果もあった。なんと連絡先を交換できたのだ。

 

 店主の紹介がひと段落したころ、彼女も僕の事情──この後宇宙に登らなければならないこと──を思い出したようで、山積みの本の重量に思い至ったか、どうもきまりが悪そうな表情になっていた。帰る時間も近かったので、こう話してみた。

 どれも読んでみたいが、持ち帰れる量が厳しい。帰ってからも電子書籍でなら買える本もあるから、残りのお勧めの本はメモしてくれないだろうか。

 それを聞き、本屋に電子書籍のお勧めを聞くんですか──と口を尖らせる店主。機嫌を損ねたかとも思ったが、直後に悪戯っぽい笑みを浮かべていたので、ちょっとした茶目っ気だと思いたい。

 

 そこで、連絡先を渡すよう要求された。

 薦めたい本がありすぎて、この場で書ききることはできない。それに書き忘れがあっても付け加えられるのは半年後でしょう──三回も来ていれば、パターンも読まれるものだ──から、逐次リストを送ったほうがいい……とのこと。

 そんなわけで、偶然にも連絡先を交換することになった。営業用ではあると思うのだが、本好きと交流が持てるのは素直に嬉しい。

 

 乗り継ぎ地のセレスへ向かうシャトルの中で、早速メッセージが届いた。カード型端末のホロ・ディスプレイを埋め尽くす、膨大としか言いようのない題名の羅列と、それに添えられた推薦文。これを数日の間で書き上げたのかと驚いたことを覚えている。

 『自省録』『生の短さについて』『死に至る病』『方法序説』などの哲学書もあれば、『若きウェルテルの悩み』『地下室の手記』『車輪の下』他多数の物語もある。『ソクラテスの弁明』みたいな伝記書もリストにあったし、『国富論』とかの経済学の本もままあった。

 意外だったのは、リストの下端のほうにひっそりと添えられていた工学書の数々だ。『MPD推進の実用可能性』『時間ベクトルからのエネルギー抽出論』くらいの大学参考書どころか、『空間歪曲体モデリング理論』や『重力子投射回帰についての推測』などの専門論文書まで。

 このイメージは全くなかった──文学部とか、そういうところの出身だろうと思っていた。だからこそ、こういう理学の分野に通じていると知ると……。

 底が知れない。

 

 その時の僕は、あの店主のことを何も知らなかった。

 店の片隅に置かれた机で、何かの本を読んでいる。静謐と言うと大げさだが、静かで落ち着いた雰囲気の人ではある。

 しかし活発な側面もあり、趣味嗜好も多岐に渡る彼の人は……全くもって、推し量ることのできないヒトだった。

 

 

 そこから二年半。六回、僕は件の書店を訪れた。

 九回目の訪問、現在から半年前のそれが、僕にシャトルの窓を眺めて感傷に浸るような趣味をつけてしまった。

 その時は星の位置関係が良く、地球には四日ほど宿泊できた。初日こそ地球の土産物を買いに走ったものの、二日半は例の店に通い、変わらない彼の人を目にした。

 

 あの店を訪れるたびに、持ち帰る本の量は増え、留まる時間も長くなっていく。考えてみれば、宇宙暮らしの仕事は読書に向いていることこの上ないのだから、読書に惹かれるのもやむなしだ。

 質量制限上持っていける数には限りがあるものの、社のシャトルなら移動費は会社持ち。怖いものなしという勢いで本を持ち込み、移動中に読み耽るというのは、すっかり板についた生活習慣となっている。

 

 さて。うだるような外の暑さに気付きもしない様子の彼女に、今日ばかりは平静を崩してもらうことになるだろう。懐に忍ばせたコレは、ここ一年の仕事全てをかけて用意したものだ。多少なりとも驚いてもらえなければ割に合わない。


「少しいいですか」

「はい──いえ、あと6ページだけ」


 そのとき机にあったのは『風姿花伝』。能の指南書だとか、なんとか……1000年以上前の本だ。もちろん原本であるはずがないが、店主が読んでいるそれも相当に古びて見える。

 この本も、まさかヒトが太陽系全域に広がる未来まで読み継がれるとは思っていなかっただろう──とぼんやり考えていると、それがぱたと音を立てて閉じられた。


「お待たせしました。何か?」

 

 ……頬が熱い。顔で湯を沸かせそうだ。いや、湯を沸かすのは臍だったか? それを言うなら茶だ。

 これほどの緊張も久しい。心臓の脈動の周期も速く、こんなに高鳴ったのは嫁にプロポーズしたとき以来のことだろう。


「受け取ってくれませんか、これ」

 

 懐から取り出しのは、いつかに買っていった本と同じ大きさ、文庫サイズの本だ。


「……ああ、買い取りを──」

「いいえ。あなたに読んで欲しいんです」

 

 店主は、差し出された本をおずおずと受け取ると、しばしその外見を眺めていた。何回も回し、表紙も、裏表紙も、背表紙も、じっくりと見て回る。

 あの細い指が、本の背をなぞる。そこに文字は一つも無く、ただ無地の茶の厚紙があるだけ。

 

「これは、何の本ですか? 表紙も無地じゃ、なんとも」

「僕の本なんです。僕の」

「へえ……ああ、そういう」

 

 表紙を開き、中のページをぱらぱらとやってすぐ、彼女は気付いたようだった。

 

「書かれたんですね」

「はい」

 

 椅子に座ったまま、店主の茶色の瞳がこちらに向けられる。眼鏡の液晶レンズが作動して、その向こう側の世界を波立つように歪ませた。この店で唯一直接日が当たるこの場所で、それは石を舐めるせせらぎのように光った。


「僕の知り合いには本を読む奴がいないんです。それに、あなたほどに読んでいる人も世の中にはそうそう居ないと思って。なので……」

「批評は読者がし得ることではない──なんて言われてますけどね。感想ならお話しできると思います。それでもいいですか?」

「ぜひ」

 

 初めて書いた本の内容は、言うなればスナップショット……日常の一場面を切り出し、淡々と描写するもの。初めは身近なものから書いた方がいいだろうと思ってのことだったが、ものの見事に罠にかかり、その難しさを身をもって知ることになった。

 誰でも知っていることだからこそ、文章で表すのは難しい。どの小説の前にもそう書き添えて欲しいくらいだ。誰か有名な作家がこう言ったらしい、『風呂に入るという行為だけでも、文章にするのは難しい』。まったくそう思う。

 目覚め、朝食に囓るエナジーバーやトーストの一つ。その色形、香り、食感、味、その他諸々……を書き記すだけで丸一日かかった。

 しかし、そこは自由を金に替える宇宙職。時間だけは山ほどあった。

 一年間の仕事の移動時間ほぼ全てを本に費やし、完成した原稿を印刷してもらったのがこれだ。今のところ、この太陽系には2冊しかない。

 

 その片方を預けた彼女は、窓から射し込む日差しが傾き、ついには紅色に変わるまで、それを読み続けていた。明らかに一度読み終わったと思うのだが、もう一度か二度ほど読み返したらしい。

 本棚を見て回り、店の中を何周かしたころに、店主は僕を呼んだ。


「……時間を掛けてしまってすいません。それで、その、私は……もっと、時間が必要だと思うんです」

「それは──」

「ちゃんと考えてからお伝えしたいんです。この場でお答えすることもできますが……言葉を練る時間を下さい。お願いします」


 下げられた頭の横で、バンダナが肩に引っかかっていた。

 そんな、頭を上げてください──などと、しどろもどろに答える僕に再び向けられた視線は、いつになく真摯なものだった。


 それが六ヶ月前のこと。話は最初に戻る。

 やたらとポエミーな文章を頭のなかでこねくり回すようになったのも、いつからか沸き起こった創作への興味も、あの人と出会い、書物に触れるようになったことがきっかけだ。

 家族からは奇異の目で見られることもあったが、どうせ無趣味の人間だったのだ。何か始めるには丁度いい頃合いだったのだろう。

 

 今、僕はセレスに向かっている。物理証書を顧客から受け取りに行く仕事が入っていた。ヴェスタの社員はこういう場合によく使われる。

 これが終われば、また長期休暇に入る。

 半年間、チャットでも、メールでも巧妙に避けられていた、あの本についての意見を聞きに行く予定だ。それを待たずに書き始めた小説もあるが、場合によってはこちらも見てもらいたい。

 

 セレス地表に着陸したシャトルは、その床ごとジャッキダウンされ、地下の格納庫へと運ばれる。気密が確保されたのち、庫内に空気が充填される。

 乗り降りに宇宙服を着る必要のない、このような大型の港は、小惑星帯連合の中でも数えるほどしかない。さすがに首都を抱える星だけあって設備が充実している。

 

 遊びで来たなら地下のセレス都市部に降りていくところだが、今回は仕事だ。忙しいビジネスパーソンらしく、港の中の会議室で事を済ませることになっている。

 今までに数十回はこなした業務だ。会議室の机で待機し、契約を必要としている顧客が訪れるのを待つ。一回の仕事では200枚ほどの書類を捌くことになるが、今回も規模は変わらないらしい。

 これがイダやジュノーの勤務なら……と思うこともあるが、あんな外縁に送られては地球へ向かう便の選択肢が減る。断固としてお断りだ。

 

 次々と部屋にやってくる人々。証書が必要な契約というのは大きな額が絡む商売が多く、うちの会社を使う人間には身なりの良い者が多い。天然絹のシャツなど、一体幾らするのやら……。

 

 だからこそ、その服は目立っていた。

 

 書類を整理している視界の端に、大して華美でもない、チェック柄のロングスカートが写った。新しい客だ。

 前述の通り、着る場所を間違えているのではないかと思うような服──あの客はなぜイブニングドレスを低重力下で着ようと思ったのか、今でも謎だ──ばかり目に入る仕事柄から、これは珍しいこともあるものだと視線を上げた。

 明るい茶色の瞳があった。

 いつもの前掛けは置いてきたのか、シルエットには曲線が多い。形状記憶繊維のスカートと、無駄な体の動きを抑えるベルト締めシャツ。手首にはインプラントのそれと同じ機能を持たせたICチップ付きブレスレット。

 そんな一般的な宇宙生活者の服装と、相変わらずのじゃじゃ馬っぷりを発揮しているクセ毛。

 

「お久しぶりですね」

「どうも……」


 まず思ったことは『ありえない』。そうだろう、僕が地球に通い詰めた四年間、彼女が屋外に出たところすら見たことがなかったのだ。まさかこのメインベルトで、あの四方八方に跳ねる長髪を見るとは考えもしなかった。

 呆然としていた僕に、店主──店の外でも、こう呼んでいいのだろうか──が戸惑いの表情を見せたあと、おもむろに声を上げる。


「……あの、証書の受付を」

「あ、ええ──はい」

 

 差し出された書類に目を通すと、大型バース──宇宙船が入港するための場所の中でも、中で大人数が作業できるほどに広い格納庫──の使用申込書であった。これはセレスの港湾事務局に届け出るものだが、例外的にうちの会社にも仕事が回ってくる場合がある。

 その格納庫の中で、一般人を呼び込んでのマーケットを開催するときだ。

 気密的安全などの確保にコストがかかるうえ、万が一事故が発生したときの保険などの申し込みもあることから、物理証書での証明が必要とされているのだ。

 案の定、届け出書類には『繫留所内商店設置』の欄にチェックが入っている。

 

 担当者としてサインと印鑑を押し、書類金庫に仕舞う。これは後に本社へ送られ、何かトラブルが起こったときには引っ張りだされることになるだろう。

 さて、顧客は──つまり店主は──それを見届けるやいなや、すぐに部屋を出て行ってしまった。いや普通のことなのだが。一言あってもよいのではないか。

 ともかく、こうなっては仕方がない。危うく行き違いになりかけたことに冷や汗をかきつつ、シフトに入っていたセレス側の職員を早めに呼び出し、一時の仕事場を出る。

 

 磁力靴の固い靴音を鳴らしながら、港の中を過去最速で歩く。申請書にあったバースへは徒歩30分ほどで到着した。

 少しは港湾管理組合にも顔が知られていることもあり、袖の下のものを掴ませる必要もなく、そのバースの中に入ることができた。

 そこに接岸していた──伝統的表現──のは、大型の部類に入る貨物船だ。その昔の大型トレーラーのような位置づけにある(ただし何倍も大きい)それは、コンテナを開放して中身を吐き出している最中であった。

 そこで二十人ほどの人間が荷卸しに勤しんでいる最中に、見慣れた例の姿があった。

 

 綺麗な姿勢のままで宙に浮かび、本を読んでいる人影。店主はここでも自分を失うことがないらしい。

 僕の近くに飛んできた若いのに声を掛けて呼び出してもらうと、彼女は手近な壁を蹴ってこちらに寄ってきた。脚力のあるアーシアンはよくああいう移動方法を使うが、僕のようなベルターから言わせてもらえば苦笑いものだ。これで何人の惑星暮らしが床を舐めたか、記録に残していれば図書館が埋まるだろう。

 現に彼女は勢いをつけすぎ、体の回転のコントロールを失って突っ込んできた。

 (余計な箇所に触れないよう細心の注意を払ってから)抱き留め、その場に下ろしてやると、彼女はあの困ったような表情をしながら礼を言ってきた。

 

「お仕事は終わったんですか?」

「まあなんとか……それより、なんであなたがベルトに居るんですか。こんな──」

 

 バースを見渡す。コンテナから下ろされている荷物は、同じ大きさの箱が山ほど。既に開かれ、その中身を露わにしているものもある。

 全て、本だ。

 

「──あれ全部……」

「ええ。地球から持って来たんですよ」

 

 玩具を買いに連れられて行く子供のように、いかにも愉快そうな笑いを浮かべながら、店主は胸を張って告げる。やはりここでも店を出すらしい。なら店主と呼んでいいだろう。

 

「あなたはずっと地球に……というか、あのお店にいるものだと」

「いえ? ずっと定期的に宇宙に遠征してましたよ。八ヶ月半ごとに。まあ月のコロニーくらいが限度でしたけど」

 

 毎年二回も通っておいて、それに気付けないはずが……ああ。なるほど。

 計算しよう。僕が彼女の店を訪れるのは六ヶ月ごと。移動も含めれば六ヶ月半ごとというわけだ。そして彼女が宇宙に行く周期は八ヶ月半だと言う。

 二倍すれば、13周期と17周期。これが被るわけがない。ある種のセミが、この周期で成熟することによって交雑を避けているのと同じだ。

 

「でも、こんなに遠くまで行商に来たのは初めてですよ。なんだか地球系の外って怖くて。知り合いも居ませんでしたし……でも、優秀な調査官さんができましたから」

「……なるほど」

「ベルターの皆さんも、直に本に触れてもらえれば、誰かはきっと好きになってくれるはずです。ここには地球より少し少ないだけの人が住んでいるんですから、相当な人数になりますよ」

 

 商売人としての一面もまた、彼女の性質の一つなのだろう。僕はこのメインベルトに本を売り込むことができるかの試金石だったということだ。

 しかし、それを知っても嫌な気分はしない。

 むしろ、胸の奥に熱いものがこみ上げている。

 彼女の商売がうまくいけば、このメインベルトで物理本が大規模に流通するようになるかもしれない。書籍界での晴天の霹靂だ。その一端を担ったと言えるならば──これほど嬉しいこともないだろう。


「それで、これ。お礼です」

 

 にわかに店主が差し出したのは、あの茶色の表紙だった。紙の角は丸まり、表紙には開き癖がついている。かなり読み込んでくれたのだろう、色とりどりの付箋やメモらしきものが挟まれていた。


「……どうでしたか?」

 

 受け取ったそれを手の中で眺めつつ、尋ねる。半年も待った言葉を。

 それに応えて、彼女は口を開く。

 

 

 

 僕が一読者としてこの後の本の趨勢を見守ったか、創作者として渦中に飛び込んだかは……語るべき人が、語ってくれるだろう。

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