ひじりにて
美智子
万里
万里は、今年奮発して新調したマノロブラニクのショートブーツに酷い傷が付いているのを見つけて大きなため息をついた。
これまでの半生、なぜかいつもついてなかったな...と思い返す。
もちろん楽しい事も良いこともたくさんあったけれど、身の回りの災難は自分を中心にして起こっているのではないかと思うくらいだ。
「もしもですけど。もし、家に帰って、いつもと同じようにクローゼットを開けて。そこに突然知人の死体が入ってたら。どう考えます?」
金曜の深夜、日々の疲れを労いながら楽しげに飲み交わすサラリーマンの一行も、ようやく帰路に着く頃、万里は駅前の雑居ビルの二階にひっそりと構える居酒屋のカウンターに座っていた。
落ち着いた、広くも狭くもない店内は程よい暗さの照明でゆったりとした雰囲気だ。
初めて来たはずなのに、まるで何年も前から馴染みかのような不思議な居心地の良さを感じる。
往年に流行ったロックバンドの名曲が静かに流れていた。たしかに万里の青春時代のキラキラ輝く思い出達を深く彩ってくれている曲だ。
果たして何という名前の曲だっただろうか。
「面白い質問ですね。小説か何かですか?」
カウンターの奥の鉄板で鶏肉を焼く店主は、人懐っこそうな笑顔で爽やかな声だ。
「ああ。ええ、まぁ。で、もし自分の身にそんな事が起こったら、どうします?」
時間は0時半を回る頃だ。
万里は最近借りはじめた小さなアパートの部屋の事を考えていた。
狭い部屋であるが、セキュリティを重視してオートロックで指紋認証玄関ドアの部屋を借りた。
家主以外の人間、ましてや『死体』なんかが、簡単に出入り出来る部屋ではないはずなのだ。
「うーん、そうだなぁ...」
店主が慣れた手付きで手際良く焼く鶏肉はネギとニンニクスライスが乗って香ばしい香りを放つ。
黒いTシャツにエプロンを付けた店主は、よく見ると精悍な顔付きで思っていたよりも若そうだ。
「若鶏のネギ大蒜焼きです」
目の前に盛られた鶏肉が香ばしい香りを放って魅力的に輝いている。
「部屋の中はどうなってるんですか?」
「え?」
「死体は勝手に歩かないし。だからその場で死体になったか、連れて来られたか。部屋に何かしらのダイイングメッセージが残されていそうじゃないですか」
店主はにこにこと人当たりの良さそうな笑顔を見せながら今度は焼きそばを焼いている。
「ああ、部屋自体は全くのいつも通りだったら?」
「普段と違うところゼロ?」
「そう」
万里は、今まさにクローゼットに体育座りで死体が座っている自分の部屋の事を考えた。
一昨日の朝、たしかにクローゼットからスーツを取り出して身支度をして、出て行ってから、部屋の様子には全くといって良いほど違いが無かった。少し寝坊して、飲みかけで置きっぱなしになったマグカップもポケットの中に入っていて玄関に置いたレシートも全くそのまま微動だにしない形で置かれていた。
クローゼットの中の荷物も飛び出すことも乱れることもなく、言ってみれば突然死体だけ湧いてきたかのように、不自然なほど忽然と現れたように、ポツンと座っていた。
「まるで死体だけどこかからタイムスリップしてきたみたいに。」
「面白いですね〜。家主とその死体との関係は?」
「あ、元カレです。しばらく前に付き合っていたどうしようもない元カレ。居なくなってせいせいしたと思ってたのに」
「あはは。まるで自分の元カレみたいにいうんですね。はい、梅酒ロックのおかわりです」
「ありがと」
グラスの中を輝く大きな氷を突きながら、万里はふーっと溜息をついた。
全裸で体を小さく縮めて体育座りをしていた真斗の顔は恐怖で硬直した様な歪んだ顔だった。
あの真斗があんな顔をするなんて。
一体誰の仕業で、なぜ私の家のクローゼットに死体を置いて行ったのか。
真斗の死体と二晩過ごして尚、目の前の現実を受け入れきれず、何度も再確認せずにはいられなかった。
「ミモザです」
「え?」
「あちらの紳士から」
「あら、素敵ね」
シャンパンとオレンジの香りが豊かに広がる。グラスを傾けると綺麗な気泡がゆらゆらと踊る。一口ゆっくり味わう。
シャンパンの炭酸がオレンジの酸味と調和して上品に口に広がる。
「部屋に何の痕跡も無いなら、やっぱり家主が殺して、記憶を失くしたっていうパターンとか」
「え、まさか。それは無いわよ」
「どうして?」
「記憶が無くなるなんてそんなことあり得ないと思う。それに動機が無いわよ」
「そうなんですか?だってどうしようもない男だったんでしょう?」
「まぁ、そうだけど。殺すには全然、動機不十分だと思うの。そんな結末全然しっくり来ないわ」
「うーん、難しいなぁ」
真斗がフラッと居なくなって、万里も初めは混乱したものの、すぐにスッキリと精算出来ていたし、今や何も思い残すことなど無いのだ。自分の胸にしかと訊ねても確かにそのはずなのである。
ミモザをもう一口ゆっくり味わって、贈ってくれた紳士の方を振り返ったその瞬間、頭の中で何かがグラっと揺らめいた。
斜め後ろのテーブル席にいるらしい紳士の姿も、霞んで良く見えない。
「おかしいな...この程度で酔ったのかしら」
体勢を立て直そうとしても、そのまま床と天上がひっくり返る様な感覚で、成す術がない。
「あ、お客さん!大丈夫ですか!」
店主の声が遠くに響く中、万里の視界が遠い暗闇に消えていく。
困ったな。帰ったら真斗の死体をなんとかしなきゃならないのに...
万里は薄らぐ意識の中で考えていた。
ああ、私って本当についてない。
居なくなって心からせいせいしたと思っていたのに、あいつは、真斗は、死体になってまで私を困らせるのね。
ひじりにて 美智子 @miico
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