1日目 最後の1ヶ月と出会い(3)

鈴虫の鳴き声が響く夜だった。結論から言うと若い子の体力は恐ろしい。あれから街中を走り続け、僕の暮らしているマンションに着いた頃には僕は虫の息だった。

「はぁ、ははっ凄い顔してまたよね、あの人たち」

「ごほっ、はぁ…え?」

「こう眉間に皺寄せて、真っ赤な顔で歯ぎしりして。極めつけはあの足の遅さだよ。どんなに運動が苦手な高校生でも振り切れると思う」

マンションの前で少女は大笑いしていた。初めてあった時と雰囲気は正反対で子供っぽく笑うその姿は朝、稀に見かける学生達の雰囲気に似ている。

「危ないことにならなくてよかった」

「あ、ありがとうございます」

素直にそう言うと少女はきょとんとした顔で僕を見つめた。

「お礼言うことありますかね」

「いや、助けて貰いましたし」

「あぁ、あれは綺麗な歌声を聞かせて貰ったお礼です」

「綺麗、ですか」

言われ慣れないその言葉を復唱すると、少女は初めてあった時と同じように微笑んで大きく頷いた。

「はい。あなたの声は凄く綺麗でした。曲も夜の濃紺に合う気持ちのいいバラード曲で私、数秒息するの忘れちゃいましたもん」

久しぶりだった。こんなに人に褒められるのは。夜の濃紺色なんて僕以外に使う人を初めて見た。心臓の音が聴こえる。嬉しい時に聴こえる音とは少し違う、変に脈打つ音。

「さっきは本当にありがとう。僕は藍京」

「愛嬌?」

「藍色の藍に、京都の京だよ」

「あぁ」

小さく首を傾げて尋ねた彼女に僕は素早く答えた。あいきょうなんて音で僕の苗字を違うものとして覚えて欲しくない。彼女は僕の藍京という苗字を噛み締めるように呟くとまた、桜色の口元をキュッと上げて微笑んだ。

「私は天屋です。天国の天に本屋の屋」

「天屋」

「はい。天屋です」

彼女の声と笑顔には人を馬鹿にさせる成分でも入っているのだろうか。少なくとも今までの僕からは想像も出来ない。僕はこんなナンパ男見たいなことは言わない人間のはずだった。

「お礼がしたい…です」

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あったかいふたりぼっち。 雨上かない @noma-7

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