三年生。そして――

 チカに芽生えた思いを知らない運命は、二人を近づける。


 三年になり、クラス替えの結果、翼の彼女、ミソラと同じクラスになることができた。


 チカは一層絵に夢中になった。授業中ずっと彼女の背中を見つめて、羽の一枚一枚を見るかのようにじっと見つめては手を動かす。

 絵はどんどん上手くなる。比例して、チカの苦悩は増していく。


 なんで絵なんて描いているんだろう。私は何がしたいんだろう。完成したらわかる? 満足するのは、いったいいつなの?


 どんどんと、視野が狭くなっていっていることに、チカは気づけない。それでも手は止めなかった。止められなかった。


 描いていないと、どうにかなりそうだったから。

 それなのに、チカの中の疑問は、彼女の手を止めさせる。

 自身の部屋で描きあげたミソラを見て、乱暴に頭をかきむしった。


 どこまでいっても無駄な気がして、鉛筆を折り、自由帳を机から払いのけたチカは、そのまま一週間、何もできなくなった。


 一週間後、誰もいない放課後の教室で力が入らず帰れないでいると、涙がこぼれた。


 家以外では決して泣かないように張りつめていた、細くもろい糸のような意識が、切れてしまった。


 三年になって一ヶ月。学校に行けば毎日ミソラの姿をずっと見られたのが、逆効果になったのかもしれない。どうしても、目の前の理想を表現できないことが。


 声はもれず、ただ涙を流す。チカは頬を拭わない。その手にはいつの間にか鉛筆があり、白紙にミソラを描き出す。


 何度も見た彼女の横顔。脳裏に焼け付き見なくても描ける翼。

 一心不乱に、頭の中の彼女を映し出す。

 嗚咽が混じる。手が震えて、鉛筆が落ちた。


「なんだよ、これ……」


 芯が折れ、何処かへ飛んでいく。

 手で目を覆い、背中を丸めて、机に突っ伏した。


 そのまま、どんどん暗闇に落ちていってしまいそうな背中に、温もりが触れた。

 驚いて顔を上げると、チカの頭は柔らかな感触に吸収される。


「大丈夫?」


 その声は、ミソラの声だった。

 話したこともないけれど、じっと見つめているうちに、覚えてしまった声。


 チカにとって、天使の声。


 上を向くと、下を向いているミソラの顔が見えた。しかし視線は合わずに、ミソラは違うところを見ていた。


「それ、わたし?」


 視線の先を理解して、チカは頭をぶつけるほど速く、机を全身で隠した。

 もう一度「大丈夫?」と言ってくるミソラに、チカは体制を変えないまま頷いた。


「あなたは見えてるんだ。これ」

「み、見えるの?」

「そりゃあ、自分についてるものだからね」


 思わず体を浮かせてしまい、その隙を突かれ、チカの自由帳は取られてしまう。


 何ページにもわたって、違う角度から、違う表情のミソラが、違う動きの翼が描かれているのを見て、感嘆の声を上げるミソラに、チカは指を動かしながら、取り上げていいか少し迷った。


 迷っているうちにミソラが返してくれて、ぎゅっと胸に抱きしめる。


「綺麗だね」


 その言葉に、思いっきり首を振る。


「違う。もっと、あなたの翼はもっと、きれいなんだ」

「そうなの?」

「そう、もっと、もっと――」


 続く言葉は、息とともに飲み込んだ。


 翼が、チカを覆っていた。


 ミソラがチカを抱きしめた時からずっと覆っていたのに、必死だったチカは、今まで気が付けずにいた。


 透明な翼の内側は、羽の数だけ少しずつずれて見える。ガラスのような質感で、世界をキラキラ輝かせている。


 手を伸ばしてみるが、触れられはしない。ぐるりと見まわして、チカはミソラを見つめる。


「きれいだ」

「ありがとう。わたしもこの眺めは結構お気に入り」


 照れ臭そうに笑うミソラを正面から見るのは初めてで、チカは秘密を一つ知ったような気分になった。


「でもね、外から見た翼は初めて見た。私はそっちも好き」

「こんなの、まだまだ」

「まだまだ綺麗になるの?」

「いや、まあ、そうしたいけど」

「だったらチカちゃん」


 いきなり下の名前で呼ばれたことよりも、ミソラの顔しか見えなくなるくらいに近づかれたことに驚いて、変な声が出てしまう。


 顔を逸らしたいのに、ブラウンの瞳がチカの瞳と結ばれたみたいに、瞬きもできなくなる。


「もっと私を描いてくれる?」


 微笑みに、言葉を失う。


「そして、全部私に見せて」

「あ、えっと」

「それで、私以外にも、見てもらおう」

「いや、それは」

「それが、これからも私を描く条件です」

「ず、ずるい!」

「今まで勝手に描いてたんだから、これからもそうすればいいんじゃない?」


 素っ気なく言いながら、ミソラは二歩三歩後ろに下がって、翼をたたんで、窓の方へと歩いていく。


「そう、だけど」

「でも、高校卒業しても私を描きたいなら、それが条件です」

「別に……」


 条件を出されても、チカはいまいちピンとこなかった。


 彼女のことは描きたい。こんなになってもやめられない。満足するか、気力がなくなるまでは、きっと描き続けてしまう。それがいつ来るかわからないけれど、その日が来るまで――


 いや、いいや。

 チカは頭を抱えた。気が付いてしまった。


 気づかなければよかった。なんてことだ、今のまま、この時の彼女だけを描いていれば、終わりは訪れたかもしれない。なのに、ほんとに、なんてことだ。


 彼女にも、未来がある。未来の姿がある。

 そんなの、わかっちゃったら、描きたくてしかたがない。


 狼狽しているチカには気づかずに、ミソラは窓にたどり着き、くるりと九十度回転して、笑ってみせた。


「ねえ、チカちゃん」


 その顔には邪気はなく、純粋に、嬉しそうに。


「私を、描いてよ」


 チカの全ての悩みが吹き飛ばされる。


 翼を広げて窓の前に立つミソラは、そのまま後ろの青空へと、飛んで行ってしまえそうだ。


 どこまででも、連れて行ってくれそうだ。

 気づけば、首を縦に振っていて、頬には一筋、涙がこぼれた。


 チカはその日、天使を見た。



               了

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その日、天使を見た リリィ有栖川 @alicegawa-Lilly

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