第5話 あなたの名前を呼ぶ

 プルルル。プルルル。プルルル。無意識に数えていたコールが五回目に差し掛かったところで僕と彼女の世界が繋がる。緊張で浅くなっていた呼吸が、少し楽になる。彼女は何も言わずに僕の言葉を待っている。会話の始まりが僕、というのはとても珍しいけれど彼女が僕の言葉を待ってくれるのは珍しいことじゃない。僕は息を吸い込んで、まとまらないままの言葉を舌の上で転がすように声に乗せた。


「僕はどうやらあなたと話をしないと死んでしまうらしいです」


「それは責任重大だ」


 彼女は綿毛を吹き飛ばすように柔らかく吐息をこぼして、そのまま世界を溶かすように息を吸った。何かを言葉にしようとしているのがわかって、僕はそれを待った。


「……ごめんね」


 珍しく弱々しい声で、彼女はそう呟いた。雑踏の中にいたら聞き逃してしまうような声でビルの隙間に咲くたんぽぽのような謝罪が告げられる。


「私もね、呼吸と同じくらい君が大切みたいでさ。だから、君が簡単に自分を卑下したのが苦しかったんだよ。君は、誰かが君をバカにしても笑って受け入れてしまいそうだと思ったら、苦しくなったんだよ」


 ああ、大切に思われていたんだな、なんて場違いなことを思って。そんな風に思ってもらえていたことが嬉しくて。僕は笑った。すごく久しぶりにきちんと表情筋が動いた気がする。電話越しの彼女は「なんでわらうのさ」と文句を言っていたけれど、僕の笑いはなかなかおさまってくれなかった。


「ありがとうございます」


 ようやく笑いがおさまって、僕がそう言うと彼女も柔らかく笑った。それは春の日差しのように柔らかく、秋の木漏れ日のように優しかった。いつもの乾いた笑いではなくて、本当に楽しいと思っているのが伝わってくる笑い方だった。


「それから、ごめんなさい」


「うん」


 会話が途切れる。けれどそれは居心地の悪い沈黙ではなかった。彼女の呼吸だけが聞こえる沈黙は、不思議と心が落ち着く。僕は足を動かして、窓の見えるリビングに移動する。太陽が綺麗に輝いているのを見上げながら、言葉を紡いだ。


「あなたの名前が知りたいです」


 月が綺麗ですね、よりも遠回しな愛してるはきっと彼女には伝わらないだろう。


「死んでもいいわ」


 たかを括っていた僕の耳に彼女のからかうような声が届く。思考回路がよく似ている彼女には、遠回りの方が良く伝わってしまうらしい。僕はなんだか恥ずかしいような気持ちになって、それでも嬉しくて笑った。彼女の空気も楽しげに揺れる。


「私の名前はね───」


 彼女が世界の秘密を囁くようなわくわくした声でその名前を教えてくれる。僕は、秘密基地の場所を教えるような慎重さで、彼女の名前を呼んだ。

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あなたの名前を呼ぶ 甲池 幸 @k__n_ike

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