第4話 見えなくなっていたもの
手の上を熱いお湯が流れていく。水道の蛇口から流れ出るお湯がかじかんだ指先を温めていくのを感じる。じわじわと血液が流れ出して、痛いようなむず痒いような感覚に襲われながら僕は蛇口を捻った。先ほどまで勢いよく流れていたお湯がピタリと止まる。それは彼女との間で緩やかに、穏やかに、やり取りされていた電波が止まってしまったことと、よく似ていた。
学校やバイト先が同じわけじゃない。
毎日電話をしましょうと約束しているわけじゃない。
僕と彼女との間には連絡を取りたいという意思は存在しても、取らなくてはならないという義務は存在しない。あやふやで、簡単に途切れてしまう糸だということを僕は今日初めて、突きつけられた。そして蜘蛛の糸のように細く頼りないその糸は、もう僕と彼女を繋いではいない。彼女ともう一度糸を繋ぐために僕は何をすべきなのか。何一つ答えが出ない。考えても浮かばない答えを追い求めるほどに、彼女のことを何も知らないのだと思い知る。
胸が痛くて、満足に呼吸ができる気がしなかった。自分が世界に完全に溶け込んでしまったかのように、指先から感覚が消えていく。じわじわと体を侵食していくその感覚は、恐怖を伴って僕の体を支配する。
彼女と連絡を取ることは、僕にとって呼吸をすることと同じだった。僕が世界に溶け込んでいなくて、僕として存在していることの証明だった。
「何してんの?」
声が、耳に届く。世界が僕を取り込む作業が、中断されて僕は僕に戻る。僕の後ろに立っている姉が、鏡に映り込んで怪訝そうな顔で僕を見ていた。
「どうかした?」
鏡越しに目があった姉は、首を傾げて僕に問いかける。
「……なんでもないよ」
鏡越しに笑いかけて、僕は鏡に背を向けて自分の部屋に向かおうと歩き出す。右手と右足が同時に前に出る。ロボットみたいだ、と思ってから今のロボットはもっと性能がいいだろう、と思い直す。ロボットよりもまともに体を動かせない自分がなんだか情けなかった。
「なんでもなくないでしょ」
強い声だった。
姉はこんな声が出せる人だっただろうか。芯のある感情が強く滲んだ声を、はっきりと口の外に発することのできる人だっただろうか。驚きながら振り替えると、声よりももっと強い目をした姉と視線がぶつかる。いつから、姉はこんな人になったのだろう。そういえば、もう随分長いこと姉の目をしっかりと見て会話をしていないかもしれない。長い睫毛に縁取られた焦げ茶色の瞳が、僕を射抜く。
「ここ最近楽しそうにしてたのに、今は死んだ魚みたいな目してるよ。なんかあったの?」
僕は姉の目を見ることをやめてしまっていたというのに、彼女は僕の目を見てくれていたらしい。その温かい優しさが胸に染み込んで僕の涙腺が反応した。
「言葉を間違えてしまったんだ。それですごく大切な人を傷つけたかもしれない。僕にはそれをどうやって挽回したらいいのか、分からないんだ」
姉はふわりと微笑んだ。射抜くように僕を見つめていた目が細められて、ぐっと柔らかな印象になる。僕はその優しさに満ちた目がなんだかくすぐったくて、視線を逸らす。彼女が息を吸って、僕は姉に視線を戻す。目が合って、それから姉は柔らかな声で言葉を紡いだ。
「どうしたらいいかが分からないなら、どうしたいのかを考えたらいいよ。どんな行動が 正解か、なんて動いてみなきゃ分からないものだからさ」
「したいようにしたらいいんだよ」と、優しい声で告げた姉は、また優しく微笑んだ。いつからこんなに優しい人になったのだろう。僕の中にいる姉は、もっと我儘で意地の悪い人だったのに。僕が立ち止まっている間に、姉は大人になってしまったらしかった。
僕は息を吸い込んだ。世界の一部を取り込んで、僕の一部を世界に溶かす。呼吸は僕の心を少しずつ落ち着かせてくれる。
僕が、今したいこと。
彼女の声が聞きたい。
彼女の本当の笑い声が知りたい。
彼女と話がしたい。
何をすべきか考えていた時は、何一つ浮かばなかったのに、したいことを考え出したらあっという間にいろんな答えが浮かんでくる。もう一度、深く息を吸い込んで吐き出す。彼女との電話によく似た深呼吸を繰り返して、僕は棚に置きっぱなしになっていたスマホに手を伸ばした。地獄に落ちた罪人が蜘蛛の糸にすがるように、僕は彼女との通話履歴を眺める。姉は「がんばりなよ」と僕を激励して部屋に戻っていった。
自分が緊張しているのが手に取るようにわかった。指先は小さく震えているし、心臓は痛いほど波打っている。何を話せばいいのかはいまだに分からないままだ。それでも、電話をかけようと思った。きっと彼女は、僕の拙い言葉を拾い上げてくれるし、僕が思考をまとめるのを待ってくれる。
深く息を吸い込む。
世界が一歩、僕に近づく。
深く息を吐き出す。
僕が一歩、世界に近づく。
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