第3話 ショートケーキ

 思考の海に沈みつつぶらぶらと適当に歩きながら、家から三番目に遠いコンビニに足を踏み入れる。午前九時少し前のコンビニには、ほとんど人がいなかった。平日の昼間だから当たり前といえば当たり前だが。


 僕はそのことに小さく安堵して、ショートケーキが置かれている棚の前に立つ。ショートケーキにモンブランにプリンアラモードにチョコケーキ。甘いものは見ているだけで心が踊る。僕はひとつ三百円のカップに入ったショートケーキを手に取って、財布を出そうとポケットの中を漁った。


 指先が触れたのは冷たい金属製の家の鍵と、写真を撮りすぎたせいで熱をもったスマホだけ。溜息をつきながら反対のポケットを探っても、裏起毛のふわふわとした生地が指先をくすぐるだけだった。暖かなその感覚にいつもは救われるけれど、今はため息がこぼれるだけだった。


 どうやら大きめの苺が自慢げに置かれているショートケーキを買うための三百円は、家の学習机の上に忘れてきてしまったらしい。一気に体が重くなったような気がする。口から零れた小さなため息をその場に残して、僕は冷たい風が吹き始めたコンビニの外に向かった。


『ショートケーキを買いに来たのに、財布を忘れました』


 彼女とのチャット画面を開いて、そう報告すればすぐ既読がついて、返信ではなく電話がかかってくる。僕は笑いのような柔らかく軽い吐息をこぼしてからその電話をとった。


「君、おっちょこちょいだね」


 開口一番そう言い放った彼女は喉の奥で笑っている。電話の音をから彼女の存在しか伝わってこないことに安堵しながら僕は言葉を返す。


「まったくです」


 平日の真昼間に一人でいる彼女について僕が知っていることは、たった二つ。僕よりも年上であること。女の人であること。ただ、それだけだ。彼女が何かを飲み込む音が聞こえてきて、そのすぐ後に彼女の声が鼓膜をくすぐる。僕の主観がかなり影響しているのかもしれないが、彼女は街中で聞こえてきたら思わずふりかえってしまいそうな綺麗な声をしている。


「私はアールグレイを飲んでるよ」


「美味しいですか?」


「砂糖とミルクのせいで微妙だよ」


 文句を言っているのに全然そうは聞こえない声で、彼女はそう言った。どうやら、僕のお願いを忠実に叶えてくれたらしい。なんだか嬉しくなって、囁きのような笑い声が口の中で踊った。彼女はそれを感じ取ったのか、同じように小さく笑ってから声を発する。


「こんなに甘いものをショートケーキと一緒に飲むなんて、君の血液は砂糖水で出来てそうだね」


「残念でした、ちゃんと校庭の鉄棒の味がします」


「それは残念だ。私、公園の鉄棒の味しか知らない」


「きっとすごく似てるから大丈夫ですよ」


「紅茶とコーヒーくらいかい?」


「ええ」


「適当だねぇ」


「当たり前でしょう?」


 校庭の鉄棒と公園の鉄棒の味なんて、大真面目に考えていたら疲れてしまう。僕の脳みそはそんなに性能が良くないから、そんな無駄なことを考えている余裕はないのだ。彼女はやっぱりかわいている笑いを僕に伝えてから、深く息を吐き出した。


 僕には理解が出来そうもない複雑にいろんな思いが重なり合ったものが滲んでいるように聞こえたその吐息を追求することはできずに、僕は焦ったような心臓を抱えたまま言葉を紡いだ。


「僕の頭はそんなに性能が良くないんですよ」


 彼女はまた深く息を吐き出した。それがどんな感情を表しているのか僕には分からなくて、僕の言葉が正解だったのかすら分からなかった。彼女から言葉が返ってくるのを待つ。その沈黙は、針で心臓を刺されているような嫌な感じがした。


 彼女はいつだって言葉を選んでいるけれど、それに時間をかけることは少ない。間違えてしまったのか、と不安が心を満たして、謝ろうと言葉を発するほんの少し手前で、彼女が息を吸い込む。それが言葉を発する合図だと気がついて、僕は吐息を飲み込んだ。


「自分のことを簡単に卑下するものじゃないよ」


 やわらかく、それでいて有無を言わせない強さをもった声が耳に届いた。違うんだ、そういう事じゃなくて、ただ。そんな言い訳を口にすることは許されないのだと、一瞬で悟った。


「気をつけます」


 いつものようにふざけて返すことも、時間をあけてその言葉を飲み込むことも、出来ないまま僕は言葉を発する。条件反射のように飛び出した言葉は、驚くほど冷たく軽く聞こえた。


 でもそれを訂正するうまい方法を知らない僕は、何も言えないまま彼女が通話を切るまでの音を感じていた。彼女の指が、スマホの画面をタップした音を最後に、彼女と僕の緩やかな繋がりは消滅する。


 画面を見ることすらできずに電話の終了を告げる無機質な音が鼓膜をゆさぶっているのを、どこか遠くに感じながら僕は立ち止まる。今までなんでもなく動いていた足が、鉛のように、溶けたアイスのように、重たく動かないものになってしまう。ぼんやりと見上げた空は滲んでいて、頬を刺す風は酷く冷たかった。

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