第2話 ミイラみたいだね

 寒い朝の空気を吸い込みながら、カメラを向ける先を探す。冬が近づくにつれて色を失っていく世界は、センスのない僕から被写体を少しずつ奪っていく。少しでも色のあるものを探して、ゆっくりと歩く。彼女と出会ってから始めた写真を撮りながらの散歩は、僕の日常に僅かな色をつけたように思う。


 毎日部屋にこもってパズルをしていた夏頃に比べれば、毎日外に出ている今の方が、よほど健康的だし、日々の中に楽しみを見つけているいい生活だ。吐き出した白い息を眺めながら、初めて彼女と話した時のことを思い出す。それは、今では思い出せないくらいとても暑くて鮮やかなごく普通の夏の日だった。



 朝起きると、すでに家の中に人の気配はなく蝉の鳴き声がうるさく響いていた。昨日引き出しから出してきた千ピースのパズルが散乱している床を慎重に歩きながら、僕は深く呼吸を繰り返す。


 まだ、生きている。


 その事に絶望のような安堵を感じる。その仄暗い感情は、僕の体に、薄暗い散らかった部屋に、充満していく。世界の中に自分が溶け込んで、消えてしまうような恐怖が僕の薬指から心臓に、ゆっくりと登ってくる。冷たい血が流れているような感覚に身震いして、僕はまた息を吐き出した。


 ダイニングテーブルの上には、母が作っておいてくれた朝ごはんとお弁当が仲良く並んで置かれている。朝ごはんの上の曇ったラップからそれが先ほどまで温かかったことが伺える。母の優しさが、痛くて、鼻の奥がツンと痛んだ。冷たい目玉焼きを口の中に放り込みながら、スマホを確認すると一件の通知がきていた。


『お話しないかい』


 昨日登録したばかりのチャットや電話ができるアプリからのそれを開けば、そんなメッセージがきていた。アカウント名は「ワタシ」。なんてふざけた名前だ、と眉を寄せたけれど僕のアカウント名も「ボク」だから似たようなものだと思い直す。


 この人も本名以外に名乗る名前が、見つけられなかったのだろうか。自分以外の何者になったらいいのか、分からなかったのだろうか。僕は勝手に親近感を覚えた。こういう時になんて送るのが正解なのか分からなくて、少し迷う。何度か、書いては消しを繰り返してからようやく短いメッセージを送る事に成功した。


『ぜひ。素敵なお名前ですね』


 謎の疲労感と僅かな期待感が、くすぐったい。


『君も、いいセンスしてるよ』


 意外にもすぐに返事がきて、僕の頬は緩んだ。返ってきた短い言葉になんだか力が抜けて、今度はそれほど迷うことなくメッセージを返した。


『それはどうもありがとうございます』


『猫は好き?』


『突然ですね、残念ながら僕は犬派です』


『ごめんごめん。それは残念』


 残念、と言いながらその人は僕に猫の画像を送ってくる。撮っている最中に猫が動いてしまったのか、ブレている黒猫の写真には不思議な愛嬌があって、僕の頬は自然と緩んだ。


『あなたが撮ったんですか?』


『そうだよ、上手でしょ』


『ええ。とても』


『君、お世辞が上手だね』


『よく言われます』


 猫の写真のお礼にフォルダに入っていた近所の野良犬の写真を送る。もうずいぶん前の写真だけど、それなりに上手く撮れているつもりだ。


『上手だね』


『皮肉ですか?』


『せいかーい。よくわかったね』


『あんまり素直に人のこと褒めなそうだと思ったので』


『その通り。そもそも被写体が猫じゃない時点でいい写真じゃないよ』


『暴論ですね』


『私の好みの話だから暴論でもいいのさ』


『悪いとは思ってないですよ』


『君は、意外と優しいね』


『ええ。人の皮をかぶった優しさの塊ですよ、僕は』


『ミイラみたいだね』


『ちょっと何言ってるかわからないです』


 久しぶりに緩んだ表情筋を元に戻して、久しぶりに私服に着替える。パジャマを脱ぎ捨てると、気怠さが少しマシになった。スマホの音楽アプリを起動して、イヤホンを耳に入れる。流れ出した音楽に合わせて、玄関の扉を開いた。


 イヤホン越しに聞こえる蝉の声はそれほど不快ではくて、肌を焼く太陽の光が僕の感情を逆撫ですることもない。心地の良いただの夏の日だった。メッセージのやり取りを続けながら、あてもなく歩く。


 ほんの少し歩いただけで、汗が体中から吹き出して肌を流れる。夏はこんなに暑かっただろうか。いつのまにか忘れてしまっていた暑さを感じながら、日陰が一つもない農道を進む。鼻をくすぐる草の香りが、僕の中にある夏を加速させていく。


 空の青と稲の緑と雲の白。


 眩しすぎるその配色に、思わず目を細めた。立ち止まった僕を焼き尽くすかのような太陽の光とアスファルトの照り返しが、僕の体温を上げていく。このままここにいたら、どろどろに溶けてしまいそうだ。


 入道雲をバックに元気に空に向かって伸びている稲にスマホを向けて写真に収める。世界の一部をきりとってしまったような、そんな不思議な高揚感が僕の体を満たしていた。

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