あなたの名前を呼ぶ

甲池 幸

第1話 呼吸が溶ける

「こんばんは」


 彼女は心底楽しそうな声で、そう言った。僕は小さくため息をついて、窓から太陽が昇ったばかりの空を見上げる。


「おはようございます」


「君は真面目だねぇ」


 彼女は僕の名前を知らない。僕も、彼女の名前を知らない。チャットや電話ができるアプリだけが僕と彼女を緩やかに繋いでいる。


「あなたが不真面目なんでしょう?」


 僕が呆れたような声でそう返せば彼女は、けらけらと楽しそうに笑う。その笑みは本当に楽しんでいるのか疑ってしまうほどに、乾いていた。しばらく笑っていた彼女は、深く深呼吸してから、言葉を紡ぐ。柔らかな声が鼓膜を揺らす感覚が、僕は好きだった。


「今日は猫を見にいくよ」


「それは楽しそうですね」


「思ってないでしょ」


「ええ。全く」


「猫の写真を撮る楽しさが分からないとは。君、人生の半分くらいくらいは損してるよ」


 僕と彼女の共通の趣味は、写真を撮ることだ。といっても、二人ともカメラを持っているわけではないけれど。スマホのカメラで切り取った日常を送り合うのが、僕らの日課だ。


「半分なら目を瞑りますよ」


「私は、君の撮る空の写真が好きだよ」


 彼女との話はいつだって、急にハンドルがきられる。僕には分からなくても彼女の中では繋がっているらしいから、もう指摘することもやめてしまった。直せ、と言われて直るものでもないのだろう。


「褒めても何も出ませんよ」


「君は、ショートケーキくらい出してくれそうだけどね」


 今日の写真はショートケーキにしよう。なんだかくすぐったいような気持ちになりながら、そう思って僕は言葉を返す。


「紅茶は持参してくださいよ」


「アールグレイでいいかい?」


「ええ。砂糖とミルクもお願いします」


 彼女が喉の奥で小さく笑ったのがわかった。


「君、案外子供っぽいよね」


「甘いものが好きなんですよ」


「甘党男子ってことだね。モテるでしょ」


「バレンタインなんか困った事になりますよ」


「一つももらえなくてかい?」


「ははっ、よくわかりましたね」


「それじゃあ、そろそろ私は猫の空き地に行ってくるよ。また明日」


「ええ、また明日」


 朝が来たばかりだというのに、あしたの約束をして彼女の方から電話が切られる。布団から抜け出して、ベランダに出ると太陽が世界を柔らかく照らしていた。その酷く眩しくて暖かい光は、彼女の声を連想させる。彼女と繋がっているアプリを開いて「ワタシ」というなんともふざけた名前の彼女のアカウントにメッセージを送った。


『車に轢かれないように気をつけてくださいね』


『君もね』


 彼女から返ってきたメッセージを読んで「ボク」という名前の僕のアカウントを閉じる。本名以外に名乗る名前を決められずに適当につけた名前が、彼女との縁を繋いでくれたことを思い出して、小さく笑みがこぼれた。


 そのまま朝日を眺めていると、小さなくしゃみが飛び出した。十一月にパジャマのままベランダにいるのは、この体には拷問らしい。僕は名残惜しさを感じながらも、部屋の中に戻った。

 薄暗い部屋の所々に居座っている気だるさと自己嫌悪から、目を逸らして僕は部屋を出る。早起きの母が朝の支度をしているのを横目に、用意されていた朝ごはんを胃に流し込む。他の家族はまだ起きていないようだった。母は僕に一言も話しかけることなく、ただ忙しそうに動いている。僕はなるべく母と視線を合わせないようにしながら、口を動かした。


 気だるさを纏っているパジャマから、私服に着替えると少しだけ背筋が伸びる。ポケットに家の鍵とスマホを入れて、真っ黒いスニーカーに足を突っ込む。


「行ってきます」


 母から言葉がかえってくることは無かった。


 外の空気は相も変わらず冷たかった。十月の初めは、まだ暑い暑いと嘆いていたはずなのに、いつの間にかカイロが欲しくなるくらい寒くなっている。いつからそんな風になったのか思い出せないくらいには、僕にとって季節の移り変わりはどうでもいい事だった。吐息が世界と混ざり合うことを拒むように白くにごって、けれどその抵抗も虚しくあっという間にそれは見えなくなる。


 世界の歯車から抜け出すことは容易じゃない。


 あてもなく農道を歩きながら、稲が刈り取られたあとの田んぼを眺める。トラクターで掘り返された水気のない土が忘れ去られたように、そこにあった。今年の役割を終えたそれらは、僕にはすごく悲しく見える。


 僕の口から吐き出されたため息は、また世界の歯車の一部になっていく。世界をまわすための、材料になっていく。息を吐き出す度に僕の一部が世界の一部になって、吸い込む度に世界の一部が僕の一部になる。


 それは、とても恐ろしいことのように、思えた。

 まるで、呼吸をする度に自分が少しずつ溶けて無くなっていくかのような感覚。そんな妄想的な脅迫に、僕は随分長いこと怯えている。


 見上げた空に猫型の雲が寝そべっていて、不意に彼女のことが頭に浮かんだ。話しているときは楽しいのに、電話がかかってくると苦しいような悲しいような気持ちにさせられる彼女は、僕が世界に完全に溶け込んでしまうのを防いでいる。


 彼女が楽しげな声で笑うたび、僕の心臓は小さく痛む。この写真で、彼女は心から笑ってくれるだろうか。そんなことを思いながら、空の一部を写真という形で切りとって、スマホの中に保存する。


 スマホが一歩、世界に近づく。


 息を吸い込む。


 僕が一歩、世界に近づく。


 息を吐き出す。


 世界が一歩、僕に近づく。

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