【家忠日記】を忠実に読む限り、家康は少なくとも本能寺の変が起きる事を事前に知っていた様です。変の後の逃げ足の速さは光速並みです↓
https://kakuyomu.jp/works/16816452220369554184/episodes/16816452220369610730
戦国時代の主要な武将の中では最もバランスの取れた名将でしょうね。今年の大河ドラマ、紫式部なんか取り上げるのなら、彼を取り上げた方が良いと思います。
主要な合戦では負けたことがなく、外交、内政とも破綻させず、善政を敷いています。徳川が江戸に移った時、北条の年貢が徳川よりも軽かった為、問題になったみたいですね。
戦術的には非常に慎重で事前準備をしっかり行い、無理な戦はしないタイプで、孫子に忠実ですが、戦略面ではダメダメな武将というイメージです。本人はおそらく天下の覇権など狙っておらず、武田の所領拡大意外には興味がなかったと思います。最後の戦いも遠江と三河の制圧が目的ですしね…。
https://kakuyomu.jp/works/1177354054922399527/episodes/1177354054935604661
作者からの返信
甲州金に限りがあり、確実に勝ち続けてギリギリ存続できるレベルの経営状態だったようですね。今川領(海)にせよ上杉領(海・佐渡金山・貿易港)にせよジリ貧を脱するには避けて通れず突き進んで行かれた御方ですね。
治水工事(信玄堤)などの内政面が光ります。
かなり過大評価されている武将のひとりで、第一次上田合戦は一次資料を見る限り圧勝した訳ではないし、第二次上田合戦は単なるにらみ合いで、まともな合戦はしていません。関ケ原の時も時世を見誤っています。
作者からの返信
昌幸的に天正壬午の乱以来の家康嫌いでしょうから鼻っから東軍は選択しないでしょう.ね..(保険的に信幸「信之」が東軍へ)第二次上田合戦は昌幸側は秀忠軍足止めが目的で秀忠は上田の壱辺りの街道を抑えて家康の万が一の敗走の際の支援の為抑えていたという説を聞いたことがあります。(出典忘れてしまいました)
信長の人事を見ると結構恣意的で、身内に非常に甘い事がわかります。秀吉とかやらかしても許していますし、特に初期から仕えている家臣には甘々な面があります。光秀だけに辛く当たっていたと言うのは、きちんとした資料には殆ど出て来ません。この人の人事の最大の問題は、結構気まぐれで、同じ様なミスに対し、その時々で処罰が重かったり、軽かったりする点です。これが部下の疑心暗鬼を招いたと思いますが、この時代の他の戦国武将に比べて極端に残虐だった訳ではなく、世界史的視点でみれば、非常な善政を敷いた君主なのです。信長が残虐だったというのは、徳川幕府が誘導した面が強い気がします。
作者からの返信
織田家一門衆(連枝衆)を機内等の身近に配置して有力家臣団は無限的遠征ぽい雰囲気が感じられます。
実弟・信勝以外の身内処断は信長は確かに聞かないですね。
義龍には信長はかなり苦戦しています。彼が長生きしたら、歴史は全く変わっていたでしょう。こういう所は信長の運の強さを感じます。
史実のこの人は、信長直属の官僚で、秀吉の目付(監視役)だった様です。黒田官兵衛と違って、実戦指揮で活躍したという記録は一次資料では見つかりません。
記録から見る限り、脳卒中か脳梗塞で体が不自由になり、それでもエッチは可能だった様で、その時期、沢山子供を作っています。結局それが血管に負担をかけて、最後は再発でなくなったみたいですね。
編集済
桶狭間での敗戦は、義元が驕っていたと言うより、信長の戦術眼の勝利だったと思います。雪斎が居ても多分勝てなかったのではないかと。信長の馬回りがあそこまで精強だとは雪斎も把握はしていなかったでしょうし。
今川軍、最後の最後は旗本同士の力比べで負けた感じです。
信虎は信玄よりも信繁を買っており、信玄を廃嫡して、信繁に家督を譲るつもりだったという逸話もありますが、伝説が多いので、実際にどういう人物だったのかは良くわからないひとでもあります。
私もNo2の存在について考えてみました↓
https://kakuyomu.jp/works/1177354054894930177/episodes/1177354054921899381
秀吉の場合は、この秀長と蜂須賀正勝ですね。
享年49。奇しくも、信長と同い年。
手取川の合戦を受け、織田方も相当に彼を警戒したでしょう。
短命が惜しまれます。
家康の家庭教師兼、今川の謀臣。
その活躍ぶりには、痺れますね。
初回から渋いですね。秀長、大好きです。
本能寺の変の時、毛利戦線と京都の中間──姫路にいたのが秀長だとか。
信長死すの一報も、中国大返しも、彼の功績やもしれません。
作者からの返信
秀長の才能を評価していたのは兄の秀吉だけではもちろんなかったでしょうから、補佐能力のエキスパートな才能の持ち主だったのかもしれませんね。
編集済
武田信繁=豊臣秀長ですね。
武田信繁の死後は武田信玄も豊臣秀吉と同じ事(身内の粛清)をしているので一族の纏め役は重要です。
当主の代わりは何とでもなりますが纏め役の代わりは簡単には見つかりません。
作者からの返信
纏め役のこの二人はその後の兄や家に与える影響がおっしゃるとおりです。
豊臣秀長
武田信繁
の二人の存在が、歴史的に大きな影響をもたらしたのかもしれません。
豊臣秀長は豊臣政権の潤滑油的存在で有り秀吉を制する事が出来た人物の一人だと思います(もう一人は竹中半兵衛)。
私の中では秀長が死んだ後の秀吉は哀れな小者に落ちぶれましたね。
作者からの返信
秀吉が孤独になりすぎたからかもしれませんね。
どら焼きパンケーキ中佐 さま
マニアックなチョイスで読むのが楽しいです。
個人的な意見なので参考程度にですが、各話のタイトルに武将の名前を書いていただけると、興味のあるところから読めるのに、と思いました。
執筆、頑張ってください。
作者からの返信
ザンブンさん、コメントありがとうございます‼️
ご意見を参考に各武将名を表記しました♪
より閲覧しやすくなりました‼️
ありがとうございました‼️
どら焼きパンケーキです
編集済
厳選!この武将が歴史の分岐点ランキング19位【石田三成《イシダミツナリ》】 への応援コメント
秀吉の死に伴い、無謀で戦果のない朝鮮出兵はすぐに中止が決まり、日本軍は撤退しますが、この時の恩賞を巡って、政権内では大きな対立が起こりました。関ケ原までの2年間は、朝鮮に出兵した側と、国内に残留した側で、政権内の対立が激化します。理由は至極簡単。朝鮮に出兵した側は、公儀(豊臣政権)の命令に従い、莫大な戦費を自前で費やして朝鮮に出兵したのです。正当な恩賞を貰えなければ、疲弊した領国が立ちゆかない…、だからそれをよこせ!。一方、公儀側にしてみれば、戦果が上がらず、新たに得た領土もないのだから、無い袖は振れない…。この対立は非常に深刻で根深く、思い悩んだ石田三成は、家康さんを担いでいる朝鮮出兵大名共をどこかに集めて纏めて屠り、その所領を没収して、不満を持つ大名に恩賞として与える…という解決策を思いつき、実行した訳です。只者ではありませんね。結果として西軍に参加した大名の所領が没収されて恩賞として与えられ、この問題は解決しています。もって瞑すべし…。