<6> 月の芽生え
元気がないことには気づいていた。けれどあえて、それに触れないほうがいいと考えていたのだ。本当は少し、その理由を知るのが怖かったのかも知れない。
木枯らしの吹きすさぶ季節も過ぎ去り、すっかり寒くなった冬の日のことだった。
遠雷が翡翠と暮らし始めて二年が過ぎた。一ヶ月前の新年の休暇には、遠雷は今年も翡翠について行きカペラで過ごし、変わり映えしないと笑いあった。
アンディエルに戻り、翡翠の大学は短い学期の後、再び長期休みに入った。しかし翡翠は休み気分とはほど遠く、休み明けが締め切りの卒業論文と、トリスネッカー州の州立大学院への入学試験の準備で忙しかった。
毎日遅くまで研究室に残ったり、そうでない日は資料を探しに行ったり、家にいる時も部屋にこもって論文を書いていた。
遠雷と顔を合わせる時間は、授業がある時期と変わらない。それでもたまに家にいる時間が重なり、わずかな言葉を交わす時、翡翠がどこか疲れたような、ふとした拍子に見る表情に影があることに、気づいていた。
二月の半ばになっても一向に晴れない表情に、遠雷はとうとう見かねて声をかけた。その時、翡翠はぎこちない笑顔を浮かべて、
「卒論も試験もあるからね、三月まではちょっとがんばらないと」
こう答えたのだ。だから遠雷は、彼の言うとおりなのだろうと思っていた。
翡翠がどれだけ専攻に打ち込んできたかも、大学院への進学を強く望んでいることも、彼の家族もそのつもりでいることも、遠雷は充分に知っているつもりだった。そのせいで翡翠が疲れているのなら、遠雷だって力になってやりたい気持ちはあったのだ。
顔を合わせなくても食事を作り置きし、タフタの散歩に行く回数を増やした。
ただ、翡翠は疲れているというより、気持ちが追い詰められているのかも知れない、と思い始めたのは、この一週間くらいのことだ。
少し前から始めた食事の作り置きを、翡翠は最初、残さず食べていてくれた。けれど一週間、二週間と経つにつれ、次第にその回数が少なくなった。
わずかに口をつけた後に残している時もあれば、そのままそっくり冷蔵庫に移動されている時もあった。そんな時はたいてい、テーブルに残した遠雷のメモの下にちいさく、ごめん食べられなかった、と翡翠の字で付け足してある。
それを読むのはたいてい、翡翠のいない夜の居間だ。
食べても食べなくても良い、そう思って用意したはずなのに、残された食事を見ると、やはり良い気持ちはしない。
以前なら、少なくとも出会ってから年が明ける前までは、こんなことなかった。
遠雷の作る食事が嫌いになったはずはない。今みたいに頻繁に食事を作り置きすることはなかったけれど、たまに置いておけばきちんと食べてくれていたし、後になって顔を合わせた時に、笑顔と共に礼を言われるのが普通だった。
翡翠は少し痩せ、笑顔を見せることが少なくなった。いつも視線はどこか遠くを彷徨っている。心配はしていたし、何かがおかしいことには気づいていた。けれど、卒論のせいだと、その準備のための忙しさだと、遠雷は自分にそう言い聞かせていた。
目を反らせなくなくなったのは、タフタまで様子が変わってきたからだ。
遠雷の部屋は寝るときでも引き戸を薄く開けてある。翡翠が朝早く出て行く日、遠雷がタフタの朝の散歩を担当する時に、朝寝している遠雷の部屋にいつでもタフタが入って来られるように。タフタの寝床は翡翠の部屋にある。主人が休む時に一緒に部屋に引っ込み、翌朝になると静かに足音を響かせて、遠雷の部屋までやってくるのだ。
そのタフタが、真夜中に遠雷の部屋を訪れた。散歩が待ちきれない軽快な足取りとは違う、どこか重たい足音で。
最初遠雷はそれを夢の中で聞いた。近づく犬の足音、続いて部屋の戸のわずかな隙間に鼻面を突っ込み、頭を左右に振って扉を開ける気配。部屋に入り、遠雷の寝ているベッドの脇に、寄り添うように丸まる気配。
遠雷は初め、それを夢だと思った。けれど夢うつつに腕を伸ばし、そこにふわふわした毛皮の感触を感じると、いくらか目が覚めた。
タフタがいる。夜中、自分の部屋に。
その日からどことなく、タフタは元気がないようだった。主人である翡翠のそばより、遠雷の近くにいたがった。翡翠とも散歩には行くし、学校にもついていく。食事も今までどおり食べる。なのになんだか行動が変わった。様子がおかしい。
一週間ほどそれが続いて、翡翠と遠雷は近所の行きつけの動物病院にタフタを連れて行った。診断結果は良好で、身体の不調は見つからなかった。けれど相変わらずタフタはどこか元気がなく、翡翠の浮かない顔も晴れない。
この時、暦は二月から三月に変わろうとしていた。卒論の提出は三月の第二週目の月曜日で、集中して論文を仕上げなくてはいけない時期だった
けれど翡翠は、もっと大きな病院でタフタに精密検査を受させる、と断固として言った。この時ばかりは卒論も進学も二の次だ。
検査のために、タフタは病院に一泊した。いなくなると、逆に存在の大きさがよくわかる。タフタのいない家の中で、翡翠は気の毒なくらい思い詰めた表情をしていた。論文にも手の着かない有り様に、遠雷は胸が痛んだ。
この大切な時期に、自分自身より大切にしている犬の調子が悪いなんて。だから心の中だけでこっそりと、タフタにどんな結果が出ても、自分だけは全力で翡翠のことを支えてやろう、と決意したのだ。
翌日、タフタの迎えと検査結果を聞きにいくのに、遠雷も付き合った。
その結果、やはりタフタはなんでもなかった。獣医からそれを聞いた時、翡翠は泣きそうな顔で抱えていたタフタを強く抱きしめた。一晩ぶりに会った主人に、タフタも尻尾を振って寄り添っている。遠雷もほっとした。
「引っ越したり、飼い主さんの生活が変わったとかは、ないですか」
若い獣医は翡翠に視線を向けるとそう聞いた。
遠雷は心当たりがある、と思ったが、当の翡翠はそれより先に、獣医に向かって困った顔で首を振った。
「特にそんなことは、ないんですけど」
「飼い主さんの環境の変化で、元気がなくなることがあるんです。食べ物を変えたりも、していないですよね」
「ずっと同じだし、食欲はあるんです。散歩も行ってます。ただ、元気がないんです」
「犬は飼い主の気持ちに敏感です。タフタちゃんと過ごす時は、なるべく楽しそうにしてあげててください」
一応、餌にまぜる栄養補助食を出しておきます、彼はそう言ってカルテに書き込んだ。
後部座席にタフタを乗せ、翡翠が助手席に乗りこむのを待ってから、遠雷はシートベルトを締めた。タフタの検査結果に異常はないとわかったのに、翡翠は浮かない表情だ。
車を発進させ、動物病院の駐車場から車道へ出ながら、
「なにか食べて行くか?」と、遠雷はたずねた。
時刻は正午を少し過ぎている。
「ううん、このまま研究室に行くよ。データの数字が合ってるか確認したい箇所があって。ごはんは学食で食べるよ」
「なら、このまま学校まで送る」
ありがと、と呟いたきり、翡翠は黙ってしまった。窓の外に視線を向け、ぼんやりと遠くを見つめている。しばらく車を走らせて、遠雷は翡翠の様子が変わらないのを見てとると、小さく溜め息をついた。正直、面倒に思う気持ちがないわけじゃなかった。一方で、翡翠が心配なのも、紛れもない事実だった。
「翡翠」
前を向いたまま名前を呼ぶと、翡翠が振り返った。
「なにか心配ごとがあるのか? 卒論以外に」
「別に…」
翡翠はそう答えて首を振ったが、声に力はなかったし、遠雷から視線を反らしたのも、なにかごまかしているように見えた。
「院の試験のことは?」
「そりゃ緊張はするよ。でも別に、心配ってわけじゃ…」
遠雷は一瞬だけ翡翠を見て、すぐに顔を戻して言った。
「最近ずっと顔色が悪いし、食欲もないだろ? 卒論と試験の準備にのめりこみすぎて、どこか具合が悪いのかも知れない。診てもらわなきゃならないのは、翡翠のほうかも知れない」
「大丈夫だよ。ちゃんと寝てるし、学校では食事してるから」
「それにしても…」
「心配かけてごめん」
遠雷の言葉を遮るように翡翠は言って、口を噤んだ。遠雷はこの話をそれきりにしたくなかったので、横目で翡翠を見ると、なるべく明るい調子で言った。
「卒論も試験も終わったら、またどこかに遠出するか? もう一度ハレーに行ってもいいよな。タフタも連れていけるし、今度はプトレマイオス湖まで行ってもいい。ハーシェルの丘ってとこからの眺めがいいんだろ? 日帰りじゃなく一泊すれば、タフタもたくさん遊べる」
自分の名を呼ばれて、後部座席でタフタが小さく吠える。翡翠は腕を伸ばすと、座席の間からタフタを撫でた。
「そうだね、ハレーだったら近いし、日帰りできる場所に一泊するのもいいね」
翡翠はそう答えたが、その声も、表情も、ちっとも乗り気なようには見えなかった。むしろ苦しそうに歪むのを、必死で押さえているようにも見えた。
「別に無理に行こうとは言わないけど」
「違うよ、良い思いつきだと思うよ。ただ…」
それきり、言葉が続かない。遠雷はしばらく待ったが、翡翠が黙ったままなので、自分から言った。
「ただ? 言えないことか?」
遠雷の言葉に、翡翠は唇を噛むと眉間に皺を寄せ、両手を膝の上で組んで力を入れた。その様子に、遠雷も眉を顰める。
「どうしたんだ」
「遠雷、おれ」
翡翠は遠雷から目をそらしたまま、握った拳に強く力を入れた。
「…留年しようかと、思ってて」
遠雷は目を瞠った。驚いて急ブレーキを踏むところだった。翡翠の言葉はそのくらい予想外で、遠雷をひどく動揺させた。路肩に車を停めると、遠雷は改めて翡翠と向き合った。
「どうして。なに言ってるんだ」
「車、出してよ。学校に行きたいんだ」
「待てよ、大事なことだろ」
翡翠は遠雷から目を反らす。
「少し前から考えてたんだ。言わなかったけど」
「理由は? ずっとトリスネッカーの大学院に進みたいって言ってたじゃないか」
思わず強い口調で、遠雷はたずねた。翡翠は目を合わせようとしない。その顔をじっと見つめても、彼がどうしてそんなことを言い出したのか、見当もつかなかった。
「おれの問題だよ。遠雷には関係ない」
「関係ないって。じゃあ、卒論はどうするんだ。これからそのために学校に行くんだろ」
「そうだけど…」
そう言ったきり、翡翠は黙ってしまう。ふたりの間に張りつめた緊張感に気づいたのか、タフタが頭を上げた。遠雷は深く溜め息をつき、ふたたび車を発進させる。
「理由を教えてくれ。そうじゃないと、翡翠が血迷ったとしか思えない」
語気荒くそう言ったが、翡翠は遠雷を一瞥しただけで、やはり何も言わなかった。
間もなく大学の敷地が見えてきた。翡翠の学部に近い方まで車を回す。停車させると、シートベルトを外した翡翠がもう一度タフタを撫でて、そのまま降りようとした。遠雷はその肩を掴んで引き戻す。
「黙ったままか? 俺には関係ないから」
翡翠は一瞬、悲しそうな顔で遠雷を見上げ、それから俯いた。その態度に、遠雷は苛立つ。
「ここのところずっと元気がなさそうだったのに、俺は心配してたのに、それも無視か。俺には関係ないから」
翡翠はさらに深く項垂れた。遠雷は肩を掴んでいた腕を離す。それでも翡翠はしばらく黙っていたが、やがて両手を拳に強く握り、
「わかったよ」と、諦めたように言った。
「でも今、車の中で話したくない。夜にしてよ。遠雷が帰って来るの、待ってるから」
「わかった。十一時半には帰るから」
「うん」
翡翠は頷き、もう一度タフタを振り返ってから車を降りた。彼はその間一度も、遠雷を見なかった。
庭の車庫に車を停めて外に出ると、カーテン越しに居間の明かりがうっすら洩れているのが見えた。約束どおり翡翠はちゃんと家にいる。それがわかって、遠雷はわずかに緊張した。空を見上げると、雲の間に細い三日地球が見える。今夜は雲が多く、その淡い輝きは頼りない。せめて地球がもう少し大きく見える晩なら、翡翠を元気づけられたかも知れないのに、と遠雷は思いながら、鍵を開けて玄関の戸を開いた。
翡翠は居間のソファに座っていた。足元にはタフタが寝そべっている。遠雷が姿を見せると、おかえり、と言って笑ったが、その笑顔は弱々しかった。
手を洗ったり着替えたりする間、翡翠と顔を合わせるのにこんなに緊張するのは初めてかも知れない、と遠雷は感じた。それでも彼は居間に戻り、翡翠に近づく。
「メシは」
「友だちと食べて来たよ」
遠雷は頷いて、翡翠の腰掛けているのとは反対側に座った。
「で、朝の話の続きをしてもいいのか?」
「前置きがないなあ…」
翡翠は困ったように言って、片手を額に当てた。足元のタフタに視線を向け、しばらくそのまま指先で額を触っている。どう切り出すか迷っているように見えたのと、昼間、強い口調で翡翠を責めたのを少し後悔していたので、遠雷は黙って彼が口を開くのを待った。
「遠雷は…」
やがてぽつりと、翡翠が呟く。
「どうするの、これから」
「これからって?」
かろうじて聞き取れた翡翠の言葉を、遠雷はすぐに理解できない。翡翠は昼間の車内と同じように、遠雷から顔を背けると、膝の上で両手を拳に握り、吐き出すように言った。
「おれが大学を卒業して、トリスネッカーに行ったら、遠雷はどうするの」
「ああ、そういうことか…」
背けた翡翠の横顔を眺めなら、遠雷は思わず息を吐いた。
翡翠が大学院に合格すれば、彼はアンディエルを離れてトリスネッカーへ行く。トリスネッカーでもまた、タフタのために広い保存家屋に住むなら同居人が必要かも知れないが、それが遠雷である必要はない。なにより遠雷は、この町で仕事に就いている。
終わるのだ、この生活は。
「どうするかなあ…」
背もたれに深く背を預けて、溜め息のように遠雷はそう言った。翡翠との生活が終わることを、これまで真剣に考えたことがなかった。
「どうするって…」
翡翠が戸惑ったように言い、やっと遠雷に視線を向ける。
「翡翠が卒業した後に俺がどうするかってことと、ここのとこ翡翠が浮かない顔をしてることに、関係があるのか?」
翡翠の顔がさっと赤くなる。彼は再び、遠雷から視線を反らした。
それからしばらく黙っていた。遠雷はじっと、また彼が口を開くのを待った。やがて翡翠は、膝の上で両の拳をぎゅっと握り、いつもとは違うどこか暗い声で、
「遠雷、気持ち悪いと思われるかもしれないけど」
そう言った。顔を上げず、俯いたままだ。
「トリスネッカーには行きたい。でも」
と、彼は一度言葉を切り、息を吸って、それから意を決したように続けた。
「遠雷と、このまま暮らしたい」
「翡翠?」
翡翠が顔を上げた。遠雷は彼を覗き込む。怒ったように顔を顰め、唇を引き結んでいる。彼はまっすぐ遠雷を見つめていたが、とうとう堪えきれなくなったかのように、目をそらし、そして拳を強く握ったまま、消え入るような声で言った。
「おれ、遠雷のことが好きなんだ。離れたくない」
翡翠はまるで大きな罪を告白したかのように、苦しそうに長い溜め息をついた。遠雷から必死で背け、その肩がわずかに震えている。
それを眺めて、遠雷は年明けからの翡翠の元気がなかったことを思い起こした。翡翠が勉強していたこと、進学をためらったこと、その理由。
すべてがひとつに繋がってやっと、遠雷は言った。
「…翡翠、それで留年を? 俺と一緒にいるために、留年するって、そういうことか?」
顔を背けたまま、翡翠は黙って頷いた。
遠雷は軽く息を吐き、両手で前髪を掻き上げた。そして手のひらを後頭部に当てたまま、天井を見上げる。翡翠には悪いが、なんだかひどく笑い出したい気分だった。
「バカなことを」
思わずそう言うと、翡翠の身体が強張ったのがわかる。
「わかってるよ、遠雷にそんな気ないって」
「翡翠、違う」
頭を振って、彼は身を乗り出した。
「なあ、頼む、こっちを向いてくれ。大事なことだ。ちゃんと話そう」
そう言うと翡翠が溜め息を吐くのが聞こえた。そしてゆっくりと彼が振り向く。遠雷と視線は合わせないが、その表情は暗く、諦めきっていた。
「なあ、翡翠」
遠雷は笑いを堪えながら言った。翡翠がこんなに深刻に悩んでいるのに、気分が良かった。けれど遠雷は、なるべくいつもと変わらない口調で続けた。
「それならおれが、トリスネッカーに行くよ」
翡翠はすぐに反応しなかった。耳にすると覚悟していた言葉とは、あまりにもかけ離れていたからかも知れない。睨むように細められた翡翠の目が、ゆっくり見開かれる。
「おれがトリスネッカーに行けば、それで全部解決だろ? タフタまで調子が悪くなるくらい、そんなことで悩んでたなんて、馬鹿馬鹿しいだろ」
「…気持ち悪くないの」
まだ頭がついていかない呆然とした表情で、翡翠が呟く。
「気持ち悪いと思ってる相手と、二年も一緒に暮らせないだろ」
「それとは違うよ…」
弱々しい言葉を打ち消すように、遠雷は軽く笑って首を振る。
「なあ翡翠、俺のことを気にして、留年するだの大学院を諦めるだの、馬鹿なこと言うなよ。ずっと言ってたじゃないか。研究者になるって」
「そうだけど、遠雷…、そうだけど…」
翡翠はそう呟きながら、再び顔を伏せる。
「だけど、それと同じくらい、遠雷と離れたくないんだ」
彼が俯いているのをいいことに、遠雷はとうとう、天井を見上げて声を上げずに笑った。いい気分だ。月に来てから、初めてだと思えるくらいに。けれどすぐにそれを理性で押しとどめ、遠雷は頭を戻す。
「だから俺が、トリスネッカーに行くよ」
「そんなのだめだよ、遠雷」
翡翠が顔を上げる。今にも泣き出しそうで、必死だ。
「今の仕事、すごく頑張ってるじゃん。免許だってここで取ったし、楽しそうにやってるじゃないか」
「だからずっと、おれに今言ったことを言い出せなかった?」
そう訊ねると、翡翠が言葉に詰まる。翡翠にとっても遠雷の返事は予想外で、混乱しているのがありありとわかった。その顔を見ながら、遠雷は思う。
生きさせてくれ、と。
頭の中には、愛しい女の影が浮かび上がる。
もうはっきりとは思い出せない、ぼんやりとした面影が。
一緒に行こうと約束したのに、自分はひとりで月へ来てしまった。自分だけが新しい身体と新しい生活を手に入れてしまった。自分だけが望みが叶え、約束を果たせずにいることを、遠雷は今でも後ろめたく思っている。
もう、彼女の姿をはっきりと思い出すこともできないのに、罪悪感が消えない。
でも、その一方でこう思うのだ。
もう充分に待った。充分に詫びた。
だから、生きさせてくれ。
共に過ごした過去ではなく、再び巡り会うのを待ち続ける未来ではなく、ひとりきり、お前の許しを得ることなく、おまえのいない今を。
翡翠が戸惑った視線を向けている。もう、そんな顔は止めて欲しかった。自分の選択ひとつで解決できることに、翡翠が思い悩む必要なんてないのだ。
「飲食店の数は大学院の数よりずっと多い。アンディエルで働けるなら、トリスネッカーでだって働けるだろ」
「そんなに簡単に決めないでよ。よく考えて」
「翡翠と一緒に暮らすことだって、深く考えて決めたわけじゃない」
遠雷は笑って言った。
「役割分担すればいい。深刻に考えるのは翡翠、軽く考えるのは俺。これからもな」
「そんな…」
翡翠は泣き出しそうな顔になり、頭を抱えて俯いた。足元のタフタが顔を上げ、主人の顔に鼻を寄せ、匂いを嗅いでいる。
「遠雷がそんなこと言うなんて思わなかった。どうしたらいいか、わかんないよ」
「決まってるだろ。卒論を仕上げて、院の試験を受けるんだ」
翡翠は腕を伸ばしてタフタを撫でてから、ゆっくりと顔を上げた。
「…酔ってないよね」
「今日は飲んでない」
「明日が怖いよ。今の話、全部気が変わったって言われるんじゃないかって」
「今夜の地球を見たか?」
遠雷は腕を組み、翡翠のほうへ身体を向ける。
「ううん、雲に隠れてて、見えなかった」
「三日地球だった。家に入る時、雲が割れて見えたんだ」
「うん、そのはずだね」
「月から地球までの距離は?」
「約三十八万四千四百キロ」
「翡翠はそんなに遠く離れた地球の研究をしてる。それに比べりゃトリスネッカーに行くくらい、どうってことないだろ。アンディエルの斜め上だ。飛行機でたった二時間の距離じゃないか。もしも嫌になったら戻ってくることだってできる」
「遠雷…」
「俺を見てただろ? コノンで働いて、アンディエルで店に勤めて、ちゃんと調理師免許を取った。それを祝ってくれたじゃないか。なのに翡翠の方は、目標に進むのを止めようとしてる。あれだけ研究者になるって言ってたのに、それを迷ってる。俺のせいにするなよ。俺を翡翠の邪魔をする、悪者にするなよ」
「…そんな言い方、遠雷は本当に性格が悪いよ」
「知らなかったのか、二年も一緒に暮らしてたのに」
「知ってたけど…」
翡翠はまだ迷っているようだ。遠雷はそれを笑い飛ばすように言った。
「翡翠が望むなら、月の裏側で暮らしたって良い。あそこもなかなか、住み心地が良さそうだ」
「それじゃあ、地球が見えないよ」
翡翠はそう言いながらやっと、小さく笑った。その笑顔を、遠雷は久々に見たと思った。
と、同時に翡翠の目から一筋の涙がこぼれて、タフタの上に落ちた。主人が泣いているのに気づいたタフタは顔を上げると鼻面を寄せ、生温かい舌で、翡翠の頬を舐めた。
<了>
◆月世界手帖 挿絵 @fairgroundbee
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