<5> 月の裏側
モスクワの海からの高速列車が、途中から地下に入ったことには気づいていた。
列車の行き先はメンデレエフ。月の裏側、第二の都市だ。
遠雷も翡翠も、メンデレエフの市街地は地下に広がっていると知っていたし、写真ももちろん見たことがある。それでも地上を走る列車から見える景色が、アンディエルなどの自分たちの知っている都市に比べて、ずいぶんと貧弱だと感じていた。
表側と同じように地表を森林が覆っていたのはモスクワの海の周辺だけで、そこから離れるにつれて、だんだんと緑が失われ、褐色の荒野が剥き出しになる。地形は表側に比べて起伏が激しく、地平線の代わりに岩肌の山脈が見えた。
窓の外に広がるその光景を眺めて、翡翠はぽつりと、
「なんだか殺風景だね」と、呟いた。
時刻は午後六時に近づき、大地を照らす西日が刻々と地平線に迫っている。
遠雷は軽く相づちを打ったものの、頭の中では古い記憶を刺激されていた。翡翠越しに眺める夕暮れの景色は、地球にいた時のことを思い出させた。それはあまり良い気分ではなかったので、遠雷は目を閉じる。すると旅先で少し疲れていたのか、まもなくそのまま眠ってしまった。
到着を知らせるアナウンスで目を覚ますと、既にトンネルの終わりに近づいていて、ふたりは他の乗客とともに、旅行鞄を抱えてメンデレエフの中央駅に降りる。
そして改札を抜け、駅の構内から出て、目の前に広がる光景に、遠雷と翡翠は同時に足を止め、言葉を失った。
目の前には闇の中に煌々と輝くメンデレエフの市街地が広がっていた。
建物は地表からぶら下がるようにして、視界の先に連なっている。地表に近いほうの建物は、岩場に穴を掘っただけの、約一万年前にこの地に暮らした月面人の住まいの名残だ。今でも残っているそれに、後世の月面人が下へ下へ建物を継ぎ足し、建物の間に吊り橋状の通路を無数に渡し、生活の場所を増やしていったのだ。表側ではあまりにもありふれた、緑溢れる有機工法の建物は、少なくとも外壁として使われることはない。
表側に比べて発展の進まなかった月の裏側では、点在する都市のすべてがこんな風に、かつての住居跡を利用して地下に広がっている。最も、裏側で都市と呼べるのは、第一の都市ヘルツシュプルングとこのメンデレエフ、そして南極圏の小都市アポロの三箇所にすぎない。
ぶら下がる建物の間をつなぐ吊り橋通路は今も残っているものの、通行路のメインは既に円筒状のチューブパイプに取って変わられている。その中に人が行き交い、車や列車が走り抜ける。半透明のチューブパイプは照明機能も備えていて、建物の中に縦横無尽にはりめぐらされたそれが、市街地を内部から明るく照らしている。
翡翠と遠雷は今、その明かりに浮かび上がるメンデレエフを眺めていた。
普段暮らすアンディエルも、カペラも、コノンも、彼らの知るどの都市とも、目の前に広がる光景はあまりにも違った。
翡翠も遠雷も、もちろん事前に写真で見て知っていた。それでも実際の景色を目の当たりにすると、都市の巨大さと、見慣れなさに圧倒される。
まわりにも同じように足を止める人々がいるから、おそらく初めてこの景色を眺めると、誰でも言葉を失うのだろう。
我に返ったふたりは、思わず顔を見合わせる。先に笑ったのは翡翠の方だった。
翡翠が遠雷に、どこかへ旅行に行かないか、と言い出したのは、八月の終わり頃だった。夏の休暇シーズンはまだ盛りとは言え、今からどこかへ行く計画を立てるつもりか、几帳面な翡翠らしくもない、と遠雷は少し驚いた。けれどよくよく聞けば、彼の提案は今すぐではなく秋の初め、九月の半ばかそれ以降、という話だった。
「別にいいけど、どこに行きたいんだ」
そう答えた時、遠雷はビールを飲んでいた。時刻は午前零時を回ったばかりで、仕事から帰って風呂に入った遠雷がキッチンで飲んでいたところに、部屋にいた翡翠が出てきて声をかけたのだ。
「近場でいいよ」
「ハレーにも行ったし、二週間前にカペラに行って神酒の海も見たし、近場でほかにどこか行きたいところがあるのか?」
「遠雷が乗り気じゃないならいいけど」
「そうは言ってないだろ」
翡翠が話を切り上げようとしたので、遠雷は彼の言葉を遮るように言った。
「どこに行きたいか、はっきり決まってるわけじゃないんだな」
「うーん、そうだね。車の運転ができるところがいいかな。人が少なくて、道が空いてるような」
「他には? 地球の観測ができるところがいいんじゃないか? コノンとか」
翡翠はちょっとだけ戸惑ったような顔をして、
「コノンも悪くないけど、どっちかって言うと…」
と、少し考え込むようなそぶりで続けた。
「地球がそんなに見えなくても良いんだ。少し研究から離れて、気分転換できたらなって」
そんな言葉、なんだか翡翠らしくない。遠雷はそう思ったが、同時に納得した。
夏が終わり新学期が始まれば、翡翠は研究機関に研修生として行くことが決まっていた。それに年の瀬からは卒業論文と、大学院の試験のことも考えなくてはならないだろう。
地球の研究が、翡翠の生活の大部分を占めることになるのだ。
「そうか、だったら月の裏側かな」
遠雷がそう言ったのは、ほろ酔い気分にまかせた冗談だった。だから翡翠が、
「そうだね、それも良いかも」
と、目を輝かせて頷いた時、遠雷は自分で言い出したことなのに、驚いた。
「遠雷は、月の裏側へ行ったことある?」
「ない」
月ではどういうわけか、天体の表面をふたつにわけて、地球が見える面を表側、見えない面を裏側と、考える慣習がある。
裏側には都市部がほとんどなく、人口も月全体の四パーセント程度だ。理由は地球が見えないからではなく、表側に比べて格段に激しく起伏に富んだ地形と、極端に水辺が少ないために都市の発展が進まなかったからだ、と考えられている。
現代ではもちろん裏側だろうが表側だろうが、同じように快適な暮らしができるが、表側での発展の歴史が長いせいか、未だに月の裏側は、月面人には人気がない。
遠雷も翡翠も、月の裏側についての報道を目にすることはあるけれど、自分たちの暮らしとはどこかかけ離れた、別世界のような気がしていた。
「月の裏側なんて、考えたこともなかった。関係ない遠くの場所だって思ってた」
翡翠がこう言った時も、だから遠雷はまだ自分の悪ふざけに彼が合わせているのだと思っていた。けれどそれから二日のうちに、翡翠は本当に月の裏側に行くことを決めてきた。
候補に挙がったのは月の裏側第一の都市ヘルツシュプルングと、第二の都市メンデレエフ。それぞれ遠くない場所に、東の海とモスクワの海がある。表側の海に比べてあまりにもささやかなふたつの海が、裏側の海のほぼすべてだ。日程や到着時間を考えると、西回り便で行けるメンデレエフの方が、アンディエルからはわずかに近い。
翡翠は九月終わりから十月にかけて、モスクワの海からメンデレエフの地下都市を三泊五日でたどる旅程を組んだ。
そして迎えた一日目は移動で終わった。アンディエルとは九時間の時差があって、空港を夜に出発し、モスクワの海空港に到着したのも夜だった。
飛行中に機体が表側から裏側へと向かうにつれて、地球がだんだん消えていく様子が機内のモニタに流れたが、肉眼ではその瞬間を見ることはできなかった。しかも遠雷はその時、機内でビールを飲んで座席で寝ていたので、あとで翡翠に白い目で見られた。けれど地球に対する思い入れは、自分と翡翠ではまるで違うので許してほしい。
その晩は空港近くの宿に一泊した。辺りには数軒のホテルと飲食店が並んでいるくらいで、その時から月の表側の都市に比べるとなにもないところだな、と遠雷は思っていた。
二日目は朝から山に登った。モスクワの海を円形に囲むモスクワ山脈の中で最も低く、千メートルに満たない高さの山だ。それでも頂上まで行くと視界が開け、モスクワの海を臨み、山脈のまわりに広がる、五千万年前からほぼ手つかずだという原生林を眺めた。
空は快晴で雲はほとんどなく、九月も終わりだというのに日射しは痛いくらい鋭かった。頂上で空を見上げた翡翠は、西の空の地平線の近くにまだ太陽に照らされていない、白っぽい地球が見えないことに、変な感じだ、と呟いた。
表側にいれば昼間でも、その日のような快晴なら地球が見えているはずだった。
それから下山してモスクワの海に別れを告げ、遠雷と翡翠はメンデレエフ行きの高速列車に乗ったのだ。
夕食の店は遠雷が選んだ。
旅行客も多く行き交う繁華街にある店内は、中に入ると薄暗く、壁はごつごつした岩肌が剥き出しになっていて湿り気を帯びている。そこに水槽が埋め込まれ、ホールを囲んでいた。水槽の中はライトアップされていて、泳いでいる魚や、底のほうに貝がいるのが見える。つまり生け簀だ。
硝子の照明の垂れ下がる席に通され、向かい合って座り、店内を眺めた翡翠が、小さく苦笑した。
「どっちかっていうと、カップル向けの店だよね」
「そうかもな。でも、メンデレエフではよくある店構えだって書いてあったぞ」
遠雷はそう言って肩を竦める。
この店の壁が剥き出しの岩肌なのは、かつての住居跡を利用しているからで、生け簀があるのはメンデレエフの町の下には巨大な地底湖があり、そこで採れる魚介類がこの町の名物だからだ。
地底湖で採れる魚も、泥臭くなりがちな淡水魚も、月の裏側ではどう調理されるのか遠雷は興味があった。それを提供する店を調べてみると、ここと同じような店がいくつも見つかったので、この店がとりわけ特別、というわけではないはずだ。
「それでもまあ、色気のない旅行なのは、確かだな」
「おれに言う前に、遠雷が彼女を作らないと」
「仕事が不規則だし、俺は不器用な同居人とでかい犬の世話で手一杯だよ」
わざとらしく顔を顰めた翡翠に、遠雷もおおげさに溜め息を吐いて見せた。
翡翠の友人は多くはないが、少なくもない。そのほとんどは大学の同級生や先輩、後輩で、その半分近くは女性だ。何度も家に連れてきているし、遠雷も会ったことがある。
けれど、一緒に暮らし始めてから翡翠の浮いた話を聞いたことはない。翡翠は話さないだけかも知れないが、少なくとも生活を見る限り、今誰か特定の決まった恋人がいる気配はなかった。
ただ、遠雷はそれについて深くたずねたことはない。翡翠が自分から話さないことを詮索したくなかったし、自分のことを聞かれたくない気持ちも同じくらい強かった。
「あ、そうだタフタ」
遠雷の言葉に、翡翠は自分の端末を取り出して、画面に触れる。
旅行の直前まで同行するか迷ったタフタは、結局、翡翠の友だちのひとりに預けてきた。数時間おきに写真が送られてきて、また新しいものが届いているらしい。
「よかった、今日も散歩行って、ちゃんとごはん食べたって」
翡翠が嬉しそうに笑って、端末から投影された画像を遠雷に向ける。タフタと、タフタに顔を寄せる翡翠の友人が写っていた。
前菜と魚料理のメインを数皿、それに合わせて翡翠は白ワインを、遠雷は日本酒を注文した。どの皿も、煮たり揚げたりの違いはあるが、魚自体は淡泊で臭みはなく、ソースの味も思ったほど濃くない。
遠雷が思い切って給仕に訊ねると、理由は単純だった。地底湖には漁場の他にいくつもの養殖場があり、加工用ではなく直接口に入る魚のほとんどは養殖魚だった。浄水場で水質管理された水の中を泳ぎ、人口餌で育てるという。
表から来る観光客は、沼底の魚を出してるって誤解してるんです、と給仕が苦笑したので、遠雷は肩を竦めてチップを渡した。
その食事の間、なんとなく店内を眺めて渡して、遠雷はメンデレエフでは髪を染めたり、肌の色の一部を変えたりしている人々が、割と多いことに気がついた。そういえば、駅からこの店に来るまで見かけた人々も、老若男女を問わず、彩りが鮮やかだったような気もする。繁華街の大通りでは、全身整形で肌を人工的な色に変え、さらに奇抜な衣装を身に纏った一団が観光客向けにパフォーマンスしているのも見かけて、翡翠が少しだけ驚いていた。メンデレエフでは流行なのかも知れない。
料理もあらかた食べ終わり、ふだん飲まない翡翠もよく飲んだ。飲まないだけで飲めないわけではなく、顔にもほとんど出ないので判りづらいが、デザートにアイスの盛り合わせまで頼んでひとりで嬉々としてたいらげていたので、少し酔ってるのかも知れない、と彼を眺めた遠雷は思った。
三日目の朝、遠雷は翡翠に起こされた。身体を起こすと、部屋のカーテンは既に開け放たれていて、ぼんやりとした朝の光が差し込んでいる。
地下都市でも日射しがあるのか、と寝起きの頭で考えていると、窓のそばに立っていた翡翠が、どこか興奮気味に手招きしている。遠雷はベッドを下りて彼に近づいた。狭いテラスから外を眺めて、彼は目を瞠る。
泊まった宿は、階層からすると地表から数えて下の方、地底湖に近い方だった。部屋から下を覗けば、隣合う建物との隙間から地底湖が見えると言われたが、昨晩チェックインした後では、黒い闇とその上にぽつぽつと浮かぶ照明が見えただけだった。
それが今、地上から差し込む陽射しがいくつもの筋になって、地底湖に注いでいる。
光線は建物の姿を浮かび上がらせ、その下に広がる湖面に反射して鏡のように都市を写し、きらきらと輝いていた。昨晩駅から外へ出た時の、内部から人工的な明かりに照らされたのとはまったく違う、メンデレエフの姿が目の前にあった。
「本当に、湖の上に町があるんだな」
「昨日は実感なかったけどね、これ、高所恐怖症だったらちょっと怖いかもなあ」
手摺りから身を乗り出して下を眺めた翡翠が呟く。巨大な湖面はメンデレエフの最下層から更に二百メートルほど下に広がっている。その昔は町から誤って湖に落ち、命を落とす人も少なくなかった。建物を積み下げる時、セイフティネットの設置が義務づけられた今でも、年に三、四件、そうした事故が起きるという。
「すぐそこにある気がするけどね」
「大きすぎて、遠近感がなくなるな」
遠雷はその場で伸びをして、室内にある時計を見た。時刻はまだ午前七時過ぎ。予定よりも早い。
「せっかく早く起きたんだから、出掛けよう」
簡単な朝食を済ませて宿を出て、午前中は郷土史博物館へ向かう予定だったが、まだ開いていないので朝の公園を散歩した。地上から光の差し込む場所は明るいが、日の当たらない場所は暗いので、日射しと共に街灯も煌々と輝いているのが、翡翠と遠雷には見慣れない光景だった。
チューブの中を車で移動し、上下の移動は高速エレベーターを使って、地表に近い階層へ上がっていく。郷土史博物館は古い建物を利用していて、メンデレエフとモスクワの海を中心に、月の裏側の発展の歴史が展示してある。
「どうして地球の見える方が『表』で、見えない方が『裏』なんだろうな。まるで地球を基準に考えてるみたいだ」
「場所を区別するのに都合がよかっただけじゃない? 地球から見た月じゃなくて、月を中心として地球に向けられた側と、その反対側ってことだよ。実際に海の面積も地形も全然違うんだし、そう考えるのは理に適ってたんだよ」
館内の展示にも当たり前のように『裏』という表現が使われているが、翡翠の答えだと、誰もそれを疑問には思っていないようだ。球体状の月を半分に分けて考えるというのなら、どちらが『表』でもいいはずなのに。この人口が少なく、反対側に比べて発展の乏しいこちら側が『表』でも、月面人には不都合はないはずなのだ。
「こうは考えられないか? まだ地球に人類がいたころ、月面探査が行われた。地球人が最初に到達したのが地球から距離の近い表側で、先に開発が始まったから『表』と呼ばれるようになった」
「地球人起源説だね。でも変だよ。地球人が月を開発したとしても、月面人になれるわけない。六倍の重力の地球で生活してる人類が月に来たら、ちょっと跳ねただけで飛んでっちゃうよ」
「だから重力を操作して、地球人を月面に安定させる装置を使ってたんだ」
「それもなにかの小説にあったよね。残念ながら、今のところ考古学的にもそんな装置は見つかってないよ。水辺の微生物から進化して、ほ乳類が生まれて類人猿になり、月面人の祖先が誕生したのはその後だよ。月の生命一億年の歴史、学校で習ったでしょう」
「忘れたなあ」
「ほら、ちょうどそこに月面全体の歴史があるよ。フィクションばっかり鵜呑みにしてたら恥ずかしいからね、ちょっと復習して行こう」
出口近くに月の歴史年表がパネルになっている。翡翠が笑いながら近づいた。
博物館から出て、歩いて行ける距離のギャラリーが立ち並ぶアート通りへ移動した。メンデレエフには好んでこの町にアトリエを持つ芸術家が多くいる。月の裏側第一の都市、ヘルツプルシュングも同様だ。表側より人口が少ないにもかかわらず、割合からすると芸術家の数が多い。美術界への影響力は表側にひけをとらず、アートに彩られた町並が多いのも、裏側の都市に共通した特徴だった。
個人経営のギャラリーや小さな美術館をいくつかまわりながら、遠雷は展示品の作者であるアーティストたちに、多色体質が多いことに気がついた。作品の脇に添えられた作家のプロフィールに書いてある。なにげなく翡翠に言うと、
「ふうん、アーティストだから、変わりもの気取ってるのかね」
と、返ってきた。
「気取るために多色体質にはなれないだろ」
「だったらわざわざ公表する必要なくない? 生まれつきの体質なんだったら」
翡翠のどこか嫌味っぽい口調に、遠雷は言わなければ良かった、と思った。多色体質の話題になると、翡翠とは感覚も考え方も違うのを感じる。それで多色体質の話はそれきりにして、軽食を出す店で遅い昼食にした。
ここはちょっとした話題の店で、椅子とテーブル以外は内装の遠近法が歪んでいる。壁や床は傾き、廊下は捻れている。衝立代わりの目隠しに置かれた植え込みは歪な四角形で、その上店内には壁にも天井にも鏡がいくつもあって、歪んだ店の景色を増幅していた。まっすぐなはずの椅子とテーブルに座っていても、身体が傾いているような気分だ。
全国的に展開している人気店なのだが、アンディエルにはない。北西のトリスネッカーまで行けばあるのだが、わざわざそのために行く気もしなかった。メンデレエフにはあるというので、ついでに訪れたのだ。
「なんだか酔いそう」
「よくまっすぐ歩けるな」
きびきびと働く給仕人たちを見つめてから、ふたりは顔を見合わせた。メニューはハンバーガーやピザのような軽食ばかりだ。味は全国どこでも同じ。
「わざわざここで入らなくてもって感じだよね」
フィッシュバーガーにかじりついてから、翡翠が苦笑した。
「でも、わざわざ行かないからなあ」
「そうなんだよね」
山盛りのポテトフライを食べながら、遠雷は店内を見回す。店内は八割ほど客で埋まっていて、ここがカジュアルな店だという理由を差し引いても、やはりアンディエルに比べて独特な髪の色の客が多い気がした。肌も人口皮膚で一部を赤や緑や青や蛍光色にしたり、立体的な絵を描いている若者も見かけた。もっとも、明かな人口皮膚以外は、体質なのか薬品によるものなのかは、通りすがりの遠雷にはわからなかったけれど。
午後三時を過ぎると、辺りがみるみる暗くなってきた。太陽が傾き、地下まで陽射しが届かなくなるのだ。急に宵闇の気配が迫り、そのぶん人口の光が強く輝き始める。
アート通りを離れて、再びチューブの中を車で走った。今夜の目的地は、朝方宿から眺めた地底湖なのだ。その上に浮かぶ水上コテージで、最終日の夜を過ごすことになっていた。標識に従って車を走らせ、下へ下へと向かい、湖面行きの高速エレベーターに乗り込む。そこから下ること二分半。扉が開くとそこは既に、地底湖の上だった。湖面に無数にある中洲のひとつだ。とは言え、遠雷から見るとそれはひとつの島のようで、岸には小舟から中型船まで、ぎっしりと船が並んでいる。
面積が大きく、水嵩によって水没することがない中洲は、地表から垂れ下がる都市と高速エレベーターで繋がっている。地表までは五百メートルほどあり、メンデレエフの町中には届いていた日射しも、ここではぐっと少なくなる。しかし中洲に立ち並ぶ露天と露天の間に張り巡らされた電灯や、湖面に浮かべられた照明器具、そして行き交う船の電飾がぎらぎらと輝いて、地表に近い町中よりも、日射しの届かない地下の方が眩しいくらいだった。
湖上の移動は船の方が都合が良い。遠雷と翡翠はここで借りていた車を乗り捨てた。近くには魚市場があり、ふたりは少しだけ中を見学した。遠雷が見たこともない魚や貝や魚の内臓が売られていて興味が湧いたが、持って帰りたいと言うと翡翠に嫌な顔をされたので、断念した。
湖上に浮かぶ宿泊施設を回る水上バスは、時刻通りに中洲を離れた。
船室があるが、遠雷と翡翠は甲板に作りつけられたベンチに座って、風に吹かれながら地底湖の景色を眺めた。
時刻は午後六時過ぎ、かつては闇が溶けたようであったろう湖面は、今では無数の蓮の花が輝いてさざ波に揺れながら、航路を示している。照明用に開発された有機灯籠だ。蓮に空気を運ぶ蓮根も、水中で淡く光っているのが見える。
太陽の光がわずかにしか届かない地底都市は、そのぶん表側より人工照明が発達し、至る所に取り付けられている。望んで地下へ降りていった月面人も、光なくしては生きられないのだ。とは言え、地底湖は今朝方ホテルから真下に眺めて感じたのとは、ずいぶんと違う光景だった。
点在するあちこちの中洲には、船客相手の露天がひしめき、それを見るための小さな観光船が何艘も中洲のまわりを囲んでいる。果物や肉や日用品を乗せた小舟が集まっているのは水上市だ。観光客もいるが、露天の商人たちのための市だと言う。その脇を近くの養殖場や漁場へ向かう商業船が往来している。
さらにその隙間を縫うように、遠雷と翡翠の乗っているのと同じ型の水上バスがひっきりなしに往復している。ふたりの乗る船の航路からは見えないが、巨大な地底湖の中には船上生活者たちの集落もあり、メンデレエフの人口の二割は湖の上で暮らしているという。
中洲の露天は昨晩は見なかったはずだが、調べてみると、夜の間は店を畳んでいるので、暗闇で見分けがつかなくなっていただけのようだ。
湖面はちょっとした船の渋滞が起こっており、他の船を急かす声や、言い合いのような声も聞こえてくる。上から眺めて想像していたのとは違って、湖上はなんとも生活感と活気に溢れていた。
翡翠を置いて、遠雷は船尾の方へ移動する。小さな喫煙所があって、そこで煙草を吸った。暗がりと見慣れぬ喧噪の中、風を感じながら煙草を吸うのは悪くない気分だった。
半分ほど吸ったところで、喫煙所に中年の夫婦が現れた。遠雷は軽く会釈する。やや小太りの体型がよく似た夫婦は煙草に火を点けると、遠雷を見て一度目を反らした。
しかし妻の方が、またすぐに目を向け、今度は軽く笑顔を向ける。
「あなたも観光?」
「そうです」遠雷は頷いた。
「ひとりで?」
「いえ、連れがいます。煙草を吸いに来ただけで」
「どこから来たの? 表側よね?」
「ええ、アンディエルです」
「あら、あたしたちはブリアルドスよ」
そう言って彼女は夫の腕を軽く叩いた。遠雷はその言葉に、わずかに動揺する。その州は身分証にある出生地だ。この身体の見知らぬ故郷。遠雷は一瞬迷ってから言った。
「へえ、俺の生まれた場所です。ただ、生まれてすぐ引っ越したんで、ブリアルドスのことは覚えてないんですけど。海岸地方で、いいところだって聞きますよ」
「あら、そうだったの。そうよ、家の目の前が雲の海だし、一年中温かいところよ」
彼女はそう言って煙草の煙を吐き出す。夫が耳元でなにか囁き、彼らは頭上を見あげた。遠雷もつられて、天を仰ぐ。
地表から垂れ下がる建物に夜の明かりが灯り、煌々と輝いている。
「素晴らしい光景ね」
彼女が頭上を眺めて言った。
「近いうちに、こっちに移住したいと思ってるの。下見に来たのよ」
「メンデレエフに?」
「ブリアルドスとは全然違うからね。ずっと同じ土地にいたから、老後はまったく違うところで暮らしてみたいと思ったんだ」
初めて夫のほうが遠雷に口を開いた。妻が笑って言い添える。
「十年前に初めてこっちに旅行した時にね、この人、芸術家気取りで、この町の虜になったの」
「お二人みたいに仲が良さそうな夫婦なら、どこで暮らしてもきっと素敵ですよ」
短くなった煙草を消しながら、遠雷はそう世辞を言った。照れ笑いした夫婦に会釈して、遠雷は翡翠のところへ戻る。その後夫婦は、湖面に浮かぶ豪華なリゾートホテルの前で下りた。それに気づいた遠雷は、良い旅を、と翡翠と共に彼らを見送った。
最初の中洲を出発してから三十分が経ち、次の船着き場を知らせる汽笛が鳴った。
遠雷と翡翠は荷物を持って、タラップを下りる。桟橋のまわりはわずかに観光用のボートが浮かぶだけで、中洲の露天や水上市の喧噪からは既に離れていた。気温は地表近くにいた時よりもひんやりと冷たく、空気は湿り気を帯びていて、静かだ。
目の前には蓮の葉ホテルのプレートと、桟橋で繋がった半円型の建物が見える。一緒に下りた他の客とともにその建物へ向かい、翡翠と遠雷はチェックインを済ませた。
再び桟橋を歩いて湖面を進むと、渡された鍵の番号のついた部屋が見つかった。
受付の建物と同じように、地底湖に浮かんだ半球型のコテージ。それが、翡翠が最終日のために選んだ宿だった。
ドアを開けると同時に、部屋の明かりがついた。照明は天井ではなく、壁際の床に埋め込まれていて、室内を下から上に向かって照らすように設置されている。半球型の天井から壁にかけては硝子を含んだ透明な素材でできていて、ブラインドで覆われていない今は、見上げると地底都市の夜景が見える。
「こうやって見上げてると、落ちてきそうだね。少し怖いよ」
「落ちてくるより、建物の最下層が湖面に届く方が先だろ」
遠雷はそう言って笑った。それはメンデレエフの住人を表すのによく使われるジョークだ。彼らは地表からぶらさがる建物を、いかに速く地底湖に到達させるか競っていると言われていて、事実このままペースで建て増しが進めば、二十年以内にはその先端が湖面に届くという予測だ。
コテージに荷物を置いて、遠雷と翡翠は再び外へ出た。時刻はまだ夕方だが、既に深夜と変わらない湖面を見て回った。安価な移動はタクシー代わりのモーターボートで、一台にひとり漕ぎ手がつく。水上市を眺めたり、中洲に並ぶ屋台で食事をしたりしている間に、遠雷は煙草屋の看板を掲げている天幕の並んだ中洲があるのを見つけた。
漕ぎ手に聞くと、水煙草を飲ませる露天だと言われ、遠雷は興味をそそられた。アンディエルには水煙草の吸える店も、道具を売る店もない。
良い機会なので、ぜひ行きたい。日が暮れてだいぶ経ち、夜の気配が濃厚に漂う湖面で翡翠に切り出すと、彼は一瞬だけ顔を顰めた後、
「いいよ、付き合うよ。遠雷には俺の行きたいところにいろいろ付き合ってもらったし」と、頷いた。翡翠は煙草を吸わないので、コテージに戻るなり、どこか他の場所を見に行くなり好きにしていい、と言いかけると憮然とされたので、彼らはそのままボートの針路を変更し、煙草屋の看板が並ぶ中洲に降りた。
並んだ天幕に近づくと、色々な香りの入り交じった強い匂いが鼻につく。露天と違い、どこも入り口の垂れ布が下がっている。少し迷ったが、どの店を選べばいいのかもよくわからない。遠雷は店構えが良さそうな一軒の垂れ幕をめくった。途端に濃い匂いが鼻につき、同時に頭上で小さな鈴の音が響いた。顔を上げると、垂れ幕から支柱の一本へ、鈴を結んであった。
「いらっしゃい」
丸眼鏡の中年の男が現れて言った。髭を蓄え、髪を長く伸ばしていて、何本にも編んでいる。遠雷が突っ立ったまま狭い店内へ視線を向けると、
「好きなところに」と、店の奥を示した。
天幕の中はかなり暗く、仄かに煙が漂っている。どこかで換気扇の回る静かな音が聞こえた。客席は天井から放射線状に垂れた織り柄の布で仕切られていた。十席ほどのうち、半分くらいに客がいる。既に客のいる席には床に置いた角灯に明かりが灯っているので、それとわかった。
擦り切れた絨毯の上を歩き、遠雷と翡翠は空いた一席に座った。椅子はなく、細かい刺繍飾りがついた座布団が積み重なっているのを取って座る。脇に立ててあった折りたたみ式のテーブルを広げると、店主の男がやってきて、メニューを表示させたタブレット端末を渡された。
店のことを少し聞くと、愛想はないがわかりやすく説明してくれた。先ほどより間近で見ると、店主の左頬には白と金で植物模様が描かれている。刺青か人口皮膚で描いた模様だ。頬から耳の下、首筋を通って、その先は服に隠れて見えないが、鎖骨の辺りまで伸びている。
遠雷と翡翠は端末のディスプレイの前で顔を付き合わせて、道具と煙草の味を選んだ。銘柄を見ても詳しく知らないので、遠雷は適当に辛口のものを選ぶ。それに加えて、酒と魚の薫製を注文する。遠雷は味の濃いソリッドギアを選んだ。
まもなく道具一式と煙草が運ばれてきた。
やってみたいと手を出した翡翠が、と言っても遠雷も水煙管の扱いは翡翠と同じくらい初心者だが、たどたどしい手つきで蓋を開け、煙草を詰めて火を点けた。蓋をして煙が立ち上るのを翡翠がじっと眺めている。遠雷はソリッドギアに口をつける。
「そろそろいいのかな」
翡翠が首を傾げたので、遠雷は吸い口のひとつを渡した。翡翠はおそるおそると言った仕草で、口をつけた。
「煙い…」
白い煙を吐き出しながら、翡翠が言った。
「そりゃそうだろ」
遠雷は笑って、自分の吸い口から煙草を吸った。いつもとは違う繊細な煙が広がり、鼻に抜けた。辛口を選んだが、わずかに甘い香りがする。
「高級な味がする」
「そりゃ『一角獣座』より安っぽい味は、そうそうないだろうからねえ」
翡翠が答え、もう一度味を確かめるように煙草を吸った。遠雷も続けて煙草を味わう。わずかに脳天が痺れるような感覚だ。
店の薄暗さと、布で仕切られた空間も心地良かった。狭いのに圧迫感がない。しばらく遠雷は水煙草を吸い、酒を飲み、翡翠ととりとめのない話をした。翡翠は水煙草の方は三、四口で吸うのを止めてしまったが、ノンアルコールのカクテルをおかわりに頼み、試し飲みしていた。
布一枚隔てた隣の席に、途中で誰かが座ったのには気づいていた。店の中には当然、他の客もいる。だから翡翠も遠雷も、気にもしなかった。
それから間もなく、遠雷に近い方の布がわずかに揺れた。彼がその動きに気づいて視線を向けると、次の瞬間布がめくれ上がり、吸っているのとは違う煙草の香りが漂ってきた。煙の中に、細くて華奢な若い男が、中腰になって覗いている。
「お、イケメンだ」
遠雷と目が合うと、彼はにやにや笑いながらそう言った。翡翠が驚いている。遠雷は顔を顰めて見知らぬ男を見た。彼は唇に指を当てている。
「観光客? 男ふたり? カップルか?」
「知らないやつに答える義理はない」
男がふたりの席へ身を乗り出して来たので、遠雷はそれを腕で押しとどめながら、冷ややかに言った。男はめげずに続ける。
「観光地の話してただろ、もっと面白い穴場スポットを教えるよ」
「観光地では突然声をかけてくる知らないやつに気をつけろと、ガイドサイトで注意を読んだ」
遠雷がさらに腕に力を入れて押し返すと、男は「痛たたたた」と呻いた。大袈裟な、と遠雷は思ったが、腕を離してやる。こちら側に半分身体を突っ込んで、今は頭を振っている男に目を向けた。年頃は遠雷と同じくらいで、体つきは翡翠と同じように華奢だ。
「珍しい髪の色だな、あんた、多色か?」
遠雷の髪に視線を向けて、男が突然そう言った。翡翠がぎょっとしたような視線を向ける。
「違う。色は変えてるけど」
「そうか、なら多色に興味ないか? 多色のショーをやるんだ」
薄く笑ってそう言った彼に、翡翠は顔を顰めている。だが遠雷は、彼の言葉にわずかに心動かされた。
「ショーって?」
「治療してない多色のヤツが、自分の色の変わるところを見せるんだ。女が多いよ。でも、男がいいなら男もいるよ」
彼は秘密を打ち明けるように声をひそめて言った。
「多色体質は病気じゃないだろ」
「でも、多色を病気として扱うのが好きだろ。そうじゃない連中は」
「なら、病気を見せ物にしてるってことか?」
「見せ物じゃない。見たい奴らに見せてやってるだけだ。多色を見に来たんじゃないのか」
遠雷の顔の険しさに、男は少しだけ当てが外れた表情を浮かべて、中腰の体勢のまま肩を竦めた。
「煙草を吸いに来ただけだ、遠慮しとくよ」
遠雷が言うと、男が軽く舌打ちした。そして仕切り布の奥へ引っ込もうとする。遠雷はその腕を掴んだ。
「なに?」
「煙草屋で客引きを?」
「興味ないんだろ」
「客引きには興味がある」
「多色の話してたから、それ目当てかと思ったんだ」
言われれば今朝訪れたアート街の話をしていた時に、そんなことを言ったかも知れない。ただ遠雷は軽く酔っていたし、深い考えがあって話題にしたわけではなかった。
隣の客席を隔てるのは布一枚だけだ。大声で、と言うより声をひそめて話していたつもりだが、盗み聞きするなと言う方が無理だろう。
「目当てじゃないけど、メンデレエフには多色体質が多いような気がして」
「観光客なんだよな。どっから来たんだ」
遠雷が会話を続ける気になったのに気を良くしたのか、男は再び体勢を直して笑った。
「裏側から」
「裏側? ここが裏だろ?」
「こっちから見たら、表が裏になるんじゃないのか?」
「え? どっちだ? あれ、裏から来たって、からかってるのか?」
混乱したように首を傾げた男に、翡翠が顔を背けて笑った。どうでもいいか、と男が言って、遠雷に向き直る。
「あんたの言うとおり、多色、多いよ。人数もだけど、隠してないヤツが多いっていうのが、表と違うとこかもな」
「さっきから…」と、ここまで黙っていた翡翠が口を開いた。
「『多色』って言い方、よくないですよ。わかってて言ってるんだろうけど」
若い男が初めてちゃんと、翡翠に視線を向けた。
「なんで? 差別だから? 俺も多色で、当事者だから別にいいだろ。自虐ネタみたいなもんだ」
遠雷と翡翠は同時に男に視線を向けた。この短時間では身体の変化を知ることはできないので、彼の言葉が嘘か本当か、ふたりにはわからない。男がまた不敵に笑って、自分の腕を軽く叩く。
「日中は肌の色が濃くなるんだな。今は白くなってるとこだ」
「ってことは、ショーってつまり、自分が出演するってことか?」
遠雷は思わず聞いた。男は目を見開く。
「違うよ、俺じゃないよ。皮膚はあんまり人気ないんだ。結局、黒と白とその中間だろ?人工皮膚の色に負ける。髪の色はもっとカラフルだしわかりやすく目立つから、メインはそっち」
「やっぱり見せ物じゃないか」
遠雷が呆れたように笑うと、男はわずかに顔を顰め、翡翠に目を向けた。
「あんたはどうだ? 多色に興味あるだろ? 差別だとかって顔しかめる奴ほど、心の中では俺たちを笑い者にしてるんだ」
「興味なんてない」
翡翠は険しい顔で首を振った。
「本音で楽しめよ。旅行中なんだろ? 誰もあんたが多色のショーに行ったなんて気づかないよ」
間近でそれを聞いていた遠雷は、少し深く水煙草を吸い込むと、遠慮無く男の顔に煙を吹き付けた。男がむせる。
「しつこい客引きはこの店のサービスか?」
「待てよ、違う。店長に知られたら出禁になる」
「じゃあ、止めろ。自分が出るわけでもないショーに、なんで客引きするんだ」
冷たい口調で遠雷は言った。
「知り合いがたくさん働いてる」
「多色体質の友だちは、やっぱり多色体質が多いのか? 友だちのために客引きを? 水煙草屋で声をかけるのは、あんまり効率が良いとは思えないけどな」
からかうように言うと、男は少しだけ顔をしかめた。遠雷が見る限り、彼は気分が割と顔に出るタイプのようだ。
「馬鹿にしてるのかよ」
「どうしてこんなことをしてるのか、聞いただけだろ」
「俺の身の上話を聞くつもりなのか?」
男は片眉を上げて、意外そうに言った。
「言ったろ、客引きには興味がある。そいつが多色体質ならなおさら」
「俺のことを聞きたいなら、ショーより高いよ」
「酒の一杯くらいなら。金塊積み上げろと言われたら、諦めるが」
そう言いながら遠雷が注文用のタブレットを差し出すと、男は中腰のまま這い進んで、遠雷たちの席に侵入してきた。三人になった途端に、急に狭苦しくなる。
「遠雷」
翡翠がたしなめるように言った。
「遠雷? 遠雷って言ったか? かっこいい名前だな」
注文し終えたらしい男が顔を上げて、タブレットを遠雷に差し出した。遠雷もいくつか追加の注文を入れる。
「そりゃどうも。あんたの名前は?」
「俺? 俺はリフ」
「ずっとメンデレエフに?」
「違うよ。来たのは五年前だ。生まれも育ちも表側、ヒギヌス」
遠雷と翡翠は顔を見合わせた。ヒギヌスはアンディエルの真北の州だ。ふたりとも訪れたことはないが、意外なほど距離が近く、知った土地の名前が突然出たことに驚いた。
その時リフの注文した酒と翡翠のおかわり、そして次の煙草が運ばれきたので、灰皿を取り替えて再び煙管に火を入れたり、話はしばらく中断した。
「で、ヒギヌスからどうしてここに?」
リフに吸い口をひとつ差し出して、自分も新しい煙草を吸いながら遠雷が聞くと、
「さあ、理由を聞かれると困るけど…」
と、彼は薄笑いを消して、わずかに首を傾げる。
「こっちの方が住み心地が良かったからかな」
「それは多色体質のせいか? それとは別の理由で?」
「遠雷だっけ、あんた、初対面の人間にけっこう無神経に聞くな」
煙を吐いて苦笑したリフは遠雷を指さしてから、グラスを呷った。
「初対面の人間の席に、無神経に入り込んできた奴と話すには、これくらいでちょうどいいかと思って」
遠雷も表情を変えずにそう答えた。翡翠が隣で笑う。リフは肩を竦めた。
「理由はまあ、半々ってとこかな。いやもっと、いろいろあるけど」
リフはそう言って黙る。遠雷は続きを待ったが、話しだす気配はなかった。彼はもう一度煙草を吸って煙を吐き出すと、吸い口の先で中身が半分になったリフのグラスを指した。
「一杯分だとそれだけか? 期待はずれだ。もう少し面白い話が聞けるかと思ったのに」
「面白い話なんてねーよ」
「多色体質のショーは面白いんだろ? おまえの話だって、聞けば面白いかも」
「それは…」
わざと意地悪な笑みを浮かべた遠雷を、リフは一瞬だけ鋭い目つきで睨んだ。けれどすぐに視線を反らし、グラスの中身を呷る。テーブルに置いたグラスを遠雷の方へ押しやり、
「もう一杯、同じの」と、言った。
「ここ、煙草屋だぜ」
遠雷が笑いながら注文すると、翡翠は呆れたような目を向ける。新しいグラスが運ばれて来ると、リフはそれに口をつけてから、薄暗い店の入り口の方へ視線を向けて、口を開いた。
「…子どもの頃は自分のこと病気だと思ってた。大人になったら治ると思ってた。小さい頃はいじめられてさ。『地球人』とか言われて。汚染が伝染するとか。家族の誰ひとり多色じゃないんだから、伝染するわけねーだろって。俺は正真正銘の月面人だってのに」
遠雷はもう一度素早く翡翠と視線を交わす。翡翠が言った。
「地球人は肌の色が変わったりしないですよ。髪の色も眼の色も、変わる地球人なんていませんよ」
「それほんとか? 六歳の俺に教えてやりたいよ」
「翡翠は地球の専門家なんだ」
「専門家? 高校生じゃないのか」
「高校の時から、地球環境学を学んでますけど」
翡翠のむっとした表情に、リフは笑った。そしてまた酒を口に含み、自分にむかって手のひらを広げた。
「これは生まれつきの体質で、治らないって知った時ショックだったよ。親も多色についてよく知らなくてさ。中学に入るタイミングで『治療』することになったんだ。『治療』だぜ。ほらな、病人扱いだろ」
彼はそう言って翡翠を見た。翡翠は言葉に詰まっている。
「午後二時の色に固定して、しばらく『治って』ほっとしたよ。学区を変えて学校に通って、誰も俺が多色だって知らないし、気づかなかった。普通に接してもらえて、嬉しかったよ。だけど、色が変わらなくなって気づいたんだ。肌の色が変わらない自分が、自分じゃないみたいだった。嫌で嫌でたまらなかったけど、生まれた時から俺の身体は一日の間に色が変わってて、そんな自分の皮膚に馴染んでたんだな。自分が自分でなくなったみたいで、怖くなった。元に戻したくなったけど」
そこまで言った時、彼は少しだけ言いよどむ。
「元に戻す勇気もなかった。元に戻したら、また気味悪がられるって」
翡翠は黙っていた。リフがまたグラスに口をつける。遠雷はわずかに顔を顰めた。
「ペースが速くないか」
「大丈夫だよ」
リフは笑ったが、酔いが回っているような口ぶりだった。彼はグラスの中の氷を振って続けた。
「それから六年間、普通に暮らしたんだけど、しばらくすれば慣れると思ったけど、一色の自分にずっと慣れなかった。これは俺の皮膚じゃない。一部だけだ。他の色はどこいった? 俺が消したんだ。今思うと、生まれたままの自分を殺してしまったんだな。それがわかったのは、ずっと後のことだけど」
彼はそう言ってからテーブルに頬杖をついた。そしてどこか胡乱な目で、遠雷でも翡翠でもない別の場所を見つめる。もしかしたら場所ではなく、過去の自分を。
「元に戻りたい、って思ったんだ。二十四時間だけでいいから。もう一度だけ、自分の本当の色を取り戻してみたいと思ったんだ」
「…それで?」
リフは少し言葉を探すように口ごもる。酒をもう一口含んで、ためらいがちに続けた。
「夏休みにな。六年ぶりに色が元に戻って…、身体は成長してたから、十八の自分の皮膚の色が変わるのは初めてだったけど…」
リフはそう言って、目を閉じる。
「変な話、ひどくほっとしたよ。俺は俺のままだったって。俺は死んでなかったって」
遠雷は自分でも気づかず、目を細める。翡翠が首を傾げた。
「今は色を固定してないんでしょう?」
「ああ。一度元に戻したら、また一色に固定するのが嫌になったんだ。俺の本当の色は一色じゃないのに、なんで一色でいなくちゃならないんだ? おかしいよな。なんか変だ。そう思って『治療』を止めたんだ」
リフはそう言って、また酒を呷る。運ばれて間もない二杯目も、もう底にわずかに残るだけになっている。
「馬鹿だったよ。気味悪がられた。友だちは気の良い奴ばかりだったから、平気だと思ってたのに。俺の肌の色がちょっと変わるくらいで、だぜ? そりゃ中には気にしない奴もいた。変わらない友だちもいたよ。だけどその嬉しさより、それまでずっと仲良くしてた友だちが、俺を汚いものでも見るような目つきで見るのには、耐えられなかった」
そう言ってリフは、テーブルの上に顔を伏せる。
「ありったけの勇気を出したのに…」
遠雷は翡翠と顔を見合わせた。その間にも、リフは独りごとのように喋り続けている。
「俺が多色体質なのは、俺のせいじゃないよな。生まれつきで、俺にはどうしようもないし、病気でもない。それなのに俺は、そのままの姿じゃ生きられないのか? でももう『治療』は嫌だ。そのまま姿で生きたい。そう思ったら、ヒギヌスにはいられなかった」
「月の裏側を選んだ理由は?」
翡翠が咎めるような視線を向けたが、遠雷は小さく苦笑して肩を竦めて見せただけだ。リフが顔を上げ、テーブルの上に顎を乗せた姿勢で続けた。
「ちょっと調べればわかる。裏側には多色体質の共同体があるんだ。多色体質や人口皮膚や、いろんな色の奴がみんな普通に暮らしてる。月政府は裏側に関心が薄いから、自治が発達してるんだって。そう言われても俺、よくわかんないんだけど」
リフはそう言って笑う。やや呂律が怪しい。遠雷はわずかに顔を顰め、彼の前からグラスを引いた。リフはその手を掴んで、グラスを取り返そうとする。
「そんなに酒、強くないだろ。そろそろ止めとけ」
「大丈夫だよ」
遠雷の腕を掴んだまま、リフはぼんやりと翡翠の方を眺めた。
「あんたたち、カップルじゃないの」
「どうでもいいだろ」
「そうだな、どうでもいいや」
そう言って彼は身体を起こすと、前髪をかき上げて背中の後ろに両手をつき、煙草で煙る天井を見あげた。
「おれ、なんであんたたちにこんな話したんだろ。知り合いでもないのに」
「言いたかったんだろ、酔っ払い」
「違うよ、ショーに誘うつもりだったんだんだけど」
彼はそう言って、首を左右に傾けている。暗がりでよくわからなかったが、顔が赤い。どうしようか、と翡翠を視線を合わせた時、
「リフ? いるのか?」という声とともに、客席の前に人影が現れた。
遠雷と同年代くらいの男が、客席を覗き込む。長く伸ばした赤い髪が揺れた。赤いだけじゃない。この薄暗がりの店内で判るほど艶やかで、上から下へきれいなグラデーションを描いている。遠雷も翡翠も、その髪に一瞬見とれた。
「失礼、知り合いを探してて…」
彼の遠慮がちな言葉に、遠雷は我に返る。目が合うと、遠雷でも感心するくらい整った顔立ちがこっちを向いている。それに背丈も体格も、自分と同じくらいありそうだった。遠雷の脇で、リフが片手を振る。
「ここだよ、遅かったな」
「なにしてんだ。探しただろ」
男がわずかに顔を顰めた。
「飲み過ぎちゃったよ」
その言葉に、彼はわずかに厳しい視線を遠雷に向けた。遠雷は軽く首を振り、リフを指した。
「あがりこんできたのはそっちからだ。飲ませたのは悪いと思うが、要求してきたのもそっちだぞ」
「知り合いじゃないよな」
「隣の席から突然話しかけられた、多色体質のショーを観に来ないかって」
男は苦い顔でテーブルに突っ伏したリフを見た。
「それで、ショーの見物に?」
「断ったよ。そんな趣味ないし、それを観るためにここへ来たわけじゃない。ただ、多色体質には興味がないわけじゃない。だからこいつの話を聞かせてもらってた。奢れというから奢ったのに、酔いつぶれたな」
「またか。悪かったな。代わりに謝るよ。ほらリフ、起きろよ」
男は赤い髪を揺らして、テーブルに伏せたリフの腕を取る。リフは意味にならない言葉を呟き、彼の手を借りて立ち上がった。遠雷がそれを手伝うと、間近に彼を見て男が言った。
「その髪の色、あなたも多色?」
「いいや、これは遺伝子操作で色を変えた。あんたの髪の色は? 珍しいな」
「へえ、そんな色になるんだ。僕は多色だけど、薬品使って地毛より発色を良くしてる」
「だとしても、すごく良い色だ」
「そりゃどうも。リフに変なことを言われなかったか? 弱いくせに、飲むと知らない相手に絡むんだ」
「いや、面白かった」
「彼も多色だって聞いた? 多色の話された?」
「聞いたよ」
遠雷はそう言って、立ち上がり、赤い髪の男に笑って見せる。
「でも俺は地球人だから、地球人と多色体質はなんの関係もないって言ってやった」
リフを支えた男は一瞬怪訝な顔になって、翡翠を見る。
「こっちもちょっと酔ってるんです。いつものことです」
彼は遠雷に視線を戻すと困ったように目尻を下げて、
「変な奴」と言った。
「あんたの連れほどじゃないと思うが」
「まったくだ、煙草を吸いにきたのに」
赤い髪の男は苦笑した。それから会釈すると、リフに声をかけながら、連れだって店を出て行く。ふたりの姿が消えると、翡翠が大きく溜め息を吐いた。
「悪かったな」
「人懐こいのはいいけどさ、変な奴を引き留めないでよ」
「でもちょっと楽しくなかったか」
翡翠は困ったように笑って、グラスの底の氷が溶けてすっかり薄くなった酒を飲み干す。
「うん、そうだね」
「リフって呼ばれてたな。本名かな」
「たぶん葉だよ。けっこうある名前だよ」
言われて遠雷は目を見開く。
「そうか。ってことはもしかして、この店の関係者か?」
「違うと思うよ。そう言う意味じゃないよ」
遠雷の誤解に気づいて、翡翠が笑った。
コテージへ帰るボートの中で、翡翠は口数少なく、湖を眺めていた。夕方まで湖上をにぎわせていた観光船や物売り船は姿を消し、暗い湖面に点々と水路を示す蓮型灯籠が浮かんでいるだけだ。ただ翡翠は、目の前に広がる幻想的な光景に見とれているというより、なにかを考え込んでいるようだった。だから遠雷も声をかけずに黙っていた。
コテージに戻りシャワーを浴び、遠雷と翡翠は午前零時を待った。天井から壁面を覆うブラインドはすべて下ろしてある。暗い湖面がすぐそこに見えた。
それがこのコテージを選んだ理由だった。
半円型の蓮の花の形をしたコテージは、毎晩零時に五分間だけ、淡い光の花を咲かせる。客室は湖の上に等間隔に浮かんでいて、自分たちの部屋も他のコテージも、花が開くのを眺めることができるのだ。
「あ、始まる」
ベッドに座っていた翡翠が言った。遠雷も外を見る。淡い光に包まれていた両隣の客室が、層になった光の花びらがゆっくりと開いていく。淡い光に照らされた湖面に、揺れる花びらの動きが映っていた。
「わあ」
翡翠が感嘆の声を上げた。幻想的な光景に、遠雷も思わず顔をほころばせる。中からではわからないが、このコテージも外から見ると光の花弁に包まれているはずだ。
開ききった花弁は、ゆっくりと客室のまわりを回り始める。そして蓮の花が匂い立つように、ドーム型の天井の頂点から虹色の光が吹き上がった。
「きれいだねえ」
翡翠がベッドに寝ころんで、両隣で吹き上がる光と、その向こうに続く客室から洩れるかすかな光を眺めて言った。
「ロマンチックすぎるな。男ふたりで来るようなとこじゃないな」
遠雷が笑って肩を竦めた。翡翠は一瞬だけ窓の外の光景から遠雷に視線を向け、
「遠雷とでも、見に来られて嬉しいよ」
と、呟いた。遠雷が返事をしようと翡翠を振り返ると、それより先に彼が続ける。
「ねえ、遠雷。多色体質の人は差別されてきた歴史があるでしょう? すべての人が共存できる社会を作ろうっていう運動があって、それにはシンボルカラーがあるんだ。何色か知ってる?」
突然の問いに、遠雷は外に目を向け首を傾げる。淡い虹色と、湖面に浮かぶ白い光。
「知らないなあ。白、とか?」
「惜しいけど、はずれ。実は一色じゃないんだ。虹色なんだよ。今まで自分とは関係ないって思ってたけど、これ見てたら思いだした」
翡翠は窓の外を眺めている。
「七色ってことか? いやでも、虹の色数は観測する地域によって、ばらつきがあるって言うよな」
「うん、だからはっきり六色とか七色ってことじゃなくて、ほら、虹の色って、太陽光を分解した色でしょう。だからプリズムを通すと、虹ができる。シンボルカラーは光がもたらすすべての色ってことだよ。そういうことなんだって、今気づいたよ」
「へえ、それなら確かに、シンボルカラーに相応しいな。虹色なんて、センスも良い」
遠雷は聞いた。翡翠が顔をあげ、一瞬遠雷を見る。視線を戻して、彼は笑った。
「うん、そうだよね」
間もなく五分が経ち、吹き上がる虹色の光も、客室を取り囲む光の花弁もゆっくりと消えていく。それに合わせてコテージの周囲に浮かぶ照明も消え、辺りは闇になった。
最終日は初日と同じく移動だけだ。地底都市を出て、来た時と同じ高速列車に乗り、地底都市からは想像もつかない荒涼とした大地をモスクワの海空港まで走り抜け、予定通りの飛行機に乗った。座席で過ごして数時間、隣り合って座っているが、それぞれ別のモニタに目を向けていた。そのうち翡翠がモニタを指しながら遠雷の肩を叩いた。
「ヴィオレッタだ」
見ていた番組が違うので、遠雷は翡翠の座席の方へ身を乗り出して画面を見る。
乗客用のディスプレイに、なにかの宣伝でヴィオレッタが喋っている。遠雷のイヤホンは番組に合っていないので、何を言っているかまでは聞こえない。翡翠はディスプレイに触れ、指を滑らせた。彼女の顔が拡大され、大写しになる。
左右に菫色のグラデーションの色彩を持つ艶やかな髪、そして最近の彼女は、右眼を菫色からグレーに変えていた。レンズではなく、変化する瞳の色を、ひとつの色に落ち着けたらしい。いわゆる『治療』だ。結果、右眼は紫がかったグレー、左目は濃い菫色。彼女のどこか謎めいた佇まいが、さらに神秘的になった。久しぶりに彼女の姿をちゃんと見た遠雷は、思わず言った。
「きれいだな」
「そうだね」
翡翠が目を細めて呟く。
「でも、多色体質の人が誰でも、ヴィオレッタみたいにきれいなわけじゃないけど」
「そりゃそうだ。多色体質に限らずだろ」
遠雷は笑って言ったが、翡翠はつられず、黙ってモニタの中のヴィオレッタを見つめていた。やがて靴を脱いで膝を引き寄せ、座席の上で揃えた両膝を腕で抱える。
「おれさ、多色体質の人に、偏見があったかも知れない」
「そうか? 月面人の一般的な意見だろ」
「おれが気持ち悪いって言ったら、怒ったくせに」
「気にしてたのか」
翡翠が恨みがましい目を向けたので、遠雷は苦笑する。
「なんだかどっか、おれとあの人たちは、全然違う人間だって考えてたと思う。だけど、それはなんだか違う気がして…」
翡翠はそう言って、再びヴィオレッタに視線を戻す。
モニタの中で、カメラが彼女に近づき、肩から上だけが写る。ヴィオレッタは自分の唇に立てた人差し指を当て、秘密を打ち明ける時のような仕草で、ゆっくりと唇を動かす。
「水煙草屋か? 少し考え方が変わったか」
「煙草屋で会ったあの人ね、嫌な感じだったけど、図星だよ。俺、多色体質の人のこと、笑い者にするのとは違うけど、なんか気持ち悪いと思ってた。そこで止まってた。なんで色が変わると気持ち悪いと思うのか、自分で望んで多色体質として生まれてきたわけじゃないのに、他人から気持ち悪いって思われるのってどうなのか、そういうこと、今まで全然考えたことなかったよ。ただ、差別はダメだからダメだけど、多色体質の人も生まれつきの体質を弁えたらいいのに、って思ってた。でもそれって、ちょっと傲慢かもね」
「さあ、どうだろな。俺にはよくわからないけど」
遠雷は曖昧に肩を竦める。
「うん、リフって人を迎えに来た男の人、きれいだったね。多色体質だからって一括りにして、あの人たちのことを決めつけるのは間違ってたって、思って」
「そうだよな。同じ問題を抱えてたり、同じ病気だったり、共通項があったとしても、同じ人間はひとりもいないもんな」
「そうなんだけど、それだけじゃなくて」
そう言いながら、翡翠は左右に首を傾げる。ヴィオレッタのCMは終わり、次のCMが始まった。
「…今はうまく言えないよ」
「まとまったら、教えてくれ」
「うん、これからはもっとよく考えるよ。今までの印象はすぐには変わらないかもしれないけど、もっとよく考えるし、話すことももっと慎重になるよ」
「そうだな。俺にはその方が良いよ」
「なんで遠雷に関係あるのさ」
「多色体質の話になると、翡翠はいつもそれだけで気持ち悪いって言ってただろ? 俺の知ってる翡翠じゃないみたいだった。今みたいに、ひとりひとりを違う人間だって、ちゃんと考えようとする翡翠のほうが、俺の知ってる翡翠に近くて安心するよ」
「…なんだかすごく立派な人間だって言われてるみたいだけど」
「そんなことないだろ。旅行に誘う相手が俺しかいない、人間関係の貧弱な奴なんだから」
「それは遠雷だって同じじゃん」
翡翠が顔を大袈裟に顔を顰めて、遠雷の肩を小突く。遠雷は笑って、自分の毛布を引き上げた。
「タフタを置いて、地球の裏側まで来たかいがあったな」
「うん、そうだね。別世界だったね。知ってるつもりだったのに」
そう言って翡翠は遠雷を振り向く。
「でもさ、遠雷は表よりむしろ、メンデレエフみたいな月の裏側のほうが住みやすそうじゃない?」
「どうだろうな、面白いとは思ったけど」
遠雷の脳裏に、あの荒涼とした地上の光景が浮かぶ。彼は軽く頭を振った。
「でも、アンディエルに帰るよ。アンディエルも悪くないし、タフタも迎えに行かないとな」
「うん」
翡翠は頷いて嬉しそうに笑った。
「そうだね」
それから十五分も経たないうちに、到着が近づき機体の高度が低くなるというアナウンスが流れる。機内の明かりが落ち、飛行機が高度を落とす体勢に入った。
翡翠がそっと窓の覆いを持ち上げると、アンディエルの夜の輝きが近づいてくるのが見えた。その上空には、少し欠けた地球が浮かんでいる。
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