最終話 僕と美波さんの10年と、これからの話

 ~とある居酒屋~


「「「「「かんぱーい!」」」」」


 座席に座った一同がビールジョッキを掲げ、祝杯を上げる。

 訂正、一名だけは烏龍茶を入れたグラスを掲げている。


「ぷはぁ~……まさかミュー達が一番乗りなんて、当時は思わなかったわよ、ほんと」


 ビールで喉を潤したあと、しみじみと呟いたのは佐伯だ。

 今日の彼女はきっちりとスーツを着込み、黒い髪をボブカットで揃えている。

 高校時代の佐伯はウェーブのかかった栗色の長い髪を揺らして自信満々に立ち振る舞っていたが、今はより真面目で硬そうな雰囲気をまとっている。司法書士として働いてきたその帰りだからか、まだ少し仕事モードを引きずっているようだ。


「希海の言う通りですね。みゅーちゃんが次郎さんとお付き合いして、その末に赤ちゃんを授かるなんて……あの頃の自分が聞いたらどんな顔をするでしょう」


 佐伯に同調し、柔らかく微笑んでいるのは僕の隣に座る美波さんだ。

 今日の美波さんはワンピースを着て、艶のある黒髪をシュシュでまとめている。

 高校時代とさほど変わった箇所はないが、しかし年を経るごとに彼女の美人度は跳ね上がっている。色香を漂わす美貌にますます磨きがかかり、彼女の微笑みは道行く男どもの目を奪う。

 その度に嬉しいやら心配やらでやきもきする僕だった。


「まったくよ。あたしはあんた達が真っ先にゴールインすると思ってたわ」

「ええ、私自身もそう思っていました」


 美波さんがニコリと笑う。

 僕は気まずさを誤魔化すためにビールを一気飲みする。

 そのとき佐伯と目が合った。奴は目だけでニヤリと笑う。おのれ、こっちの事情を知りながらわざと振りやがったな……!


「まーそう言うなってお二人さんよ! 遅いか早いかの違いで、結論は一緒だって」


 豪快に言ってのけたのは次郎だ。

 高校時代は体育会系男子という見た目だった彼も、今やちょっとだけ痩せてメガネを掛けているせいかほんのりインテリの雰囲気が漂う。といっても口を開くと当時のままの次郎が飛び出してくるのだが。


「なぁ孝明? お前だってそろそろって思ってるんだろ?」

「ソ、ソウダネ~?」

「ふーん?」


 美波さんがしたり顔で僕を見つめてくる。笑みが引きつってしまう。


「それで、みゅーちゃんはもう五ヶ月目でしたっけ。安定期に入ったのですよね」

「うん。ようやくつわりも落ち着いたんよぉ」


 苦笑混じりに答えたのは次郎の隣に座る星野だ。

 いや、彼女はもう太郎丸と呼ぶべきか……でもこの集いは同窓会みたいなものだから、昔の呼び方でいいだろう。

 星野は高校時代よりも髪を伸ばし、大人びて落ち着いた女性になっていた。ゆったりとしたワンピース姿だが、そのお腹は膨らんでいる。


「せやから今日はどんどん食べよう思うて! みーちゃんと希海ちゃんにも会えるからすっごく楽しみにしてたんよ!」

「おいおい、少しは加減しとけよユズ。体重増やしすぎるなって看護師さんに注意されてたろ?」

「次郎くんに言われとうないわ。最近また肥えてきてるんとちゃう? 体重いくつやった?」

「ゔっ」

「これ以上増やすならウチとダイエットやからね」

「……藪蛇だった」


 テンションを落とす次郎にころころと笑った星野は「あ、これ美味しいよ」とナスの揚げ浸しを彼によそってあげる。そのやり取りは仲睦まじい夫婦そのものだ。

 微笑ましさと羨ましさを感じていたのは僕だけではないようで、佐伯が露骨にため息を吐く。


「はぁ~……いいなぁ、美波もミューも幸せそうで。あたしだけ独り身じゃん」

「なに言うてんの希海ちゃん。弁護士目指してる年下の子を養ってる言うてたやん」


 「ぶふぉ!」佐伯がビールを吹き出した。僕の顔に全部かかった。「ぐぁああ目が! 目がぁああ!」


「あ、なんかデジャブ。こんなのも昔あったよな?」

「あいさつ運動のときですね。こーくんが堪えきれずに噴いてしまって、私にかかってしまったという」


 「それそれ!」と次郎が膝を打つ。のたうつ僕と佐伯の前でのほほんと思い出話をしないで欲しい。

 美波さんは濡れている僕の顔や首筋をタオルで拭きながら「懐かしいな」と呟く。


「あのときはまだ付き合っていませんでしたね。だから貴重なこーくん成分が嬉しくてお風呂入らなかったっけ」

「……マジで入ってなかったのか。っていうか危ない話になってません?」

「今はもう当たり前になってしまいましたけどね。たくさん愛されてこーくんまみれのまま寝――」

「ストップストップ! もう酔っちゃったのかなぁ!?」


 僕は慌てて美波さんの口を塞ぐ。ちらと横を向くと、星野と次郎は咽る佐伯の介抱をしていて聞いていなかった。セーフ。

 美波さんは口を塞がれた理由がわからないらしくむぐむぐ訴えている。この天然無自覚美女め……。


「はぁ、はぁ……もうっ、なに言い出すのよミュー!? びっくりするじゃない!」

「えー? だってほぼ同棲言うてたやん? 食事とか作ってあげてるんやって」

「ゔっ。し、仕方なくよ、仕方なく。司法試験に一度落ちてるから勉強に根詰めてて、身の回りのこと何もできてないから……し、将来のビジネスパートナーになるかもしれないし恩を打ってんの! 合理的でしょ!?」


 などと佐伯は釈明する。もっともらしい理由に聞こえるが、そんなつもりが微塵もないことは皆もよくわかっているようで、僕を含めて生暖かい眼差しを送っていた。 星野はにこやかな顔でぽんと手を打つ。


「そっか、将来のパートナーさんなんやね。うんうん。てことは近いうちに皆に紹介してくれるんやね?」

「……それ違う意味のパートナーになってない?」

「あ、私も会ってみたいです希海の彼氏さん」

「だから彼氏じゃないって!」

「えーとじゃあ、ヒモ?」

「それも違う!」

「そういう感じの子やなかったよ? ちゃんと希海ちゃんを幸せにしてくれそうやなって、ウチは期待してるんやけどね」

「みゅーちゃんはもう会ったんですか?」

「うん、一度だけ偶然。それでねみーちゃん、その子どことなく昔の才賀君に似てる雰囲気――」

「あー! あー! ミューあんた酔ってるでしょそれ以上はやめろ!」

「えー? ウチ烏龍茶なんやけど?」

「希海、詳しく」


 女子三人がギャーギャーと女子トーク全開になる。

 僕がビールを飲みつつそっと外野に行くと、次郎もビールジョッキを持って隣に来た。


「なんか星野、年々逞しくなってないか?」

「わかるか親友。そういうお前のとこは」

「……同じようなもんだ」


 僕と次郎は無言でビールジョッキを打ち合わせた。


***


 僕が一月二十五日の運命を覆してから、おおよそ十年の月日が経過した。

 この間、美波さんの生徒会メンバーはこうしてときどき五人の集まりを開催している。互いが仕事を初めてからは時間が合わせづらくなってきているが、それでも途切れることなく続いているのは、やっぱりこのメンバーで騒いでいるときが一番居心地が良いからなのだろう。


「それで、実家を継ぐ決心はついたのか?」

「んー? まぁなぁ。ユズがやる気になっちまってるし、親父が俺に自由にやらせてくれるって言うからよ」


 次郎はつまみを口に放り込みながら答える。面倒くさそうな感触はあれど、嫌悪感はほとんどない。昔はあれほど実家を継ぐことに否定的だったのが、前向きに心変わりしているようだ。それも星野のおかげなのだろう。


「着物の卸だけじゃなくて若い奴ら向けのイベント出展とか、そっち方面のデザインとかやってみようってユズと話し合ってんだ」

「そっか、二人ともデザイン学科出てるもんな。いいんじゃないか」

「ありがとよ、っていうか俺たちのことは別にいいんだよ。決心ていうなら、お前の方こそどうなんだ。会長ずっと待ってんじゃね?」


 僕は苦笑いしながらビールを飲む。向かいの席では女子三人がスマホを見ながらなにやら騒いでいた。


「お前にあんなことがあったとはいえ、もうすっかり元通りなんだしよ。なにか遠慮することあるか? 仕事だってあるんだし」

「小説家って割と不安定なんだよ」

「売れっ子作家がなに言ってんだか。それに本業はプログラマーだろ。稼ぎで言うならなにも心配ないじゃねぇか」


 確かに次郎の言う通り、稼ぎはあまり心配していない。フリーとはいえ僕はお義父さんの斡旋で仕事を貰っているし、大学時代に書いた小説で新人賞を取ってからもそっち方面の話を継続して頂けている。

 だから、踏ん切りが付かないのは別の方面の問題だ。


「……ま、わからなくもねぇけどな」


 焼き鳥を豪快に食べる次郎は、僕の気持ちを察したのか苦笑いした。


「結婚って、相手の人生も背負うことだからな。簡単には決められないもんだ」

「……お前はどうやって腹をくくったんだ?」

「実はまだくくれてねぇ、かも。色々不安はある。でも、あいつとならやっていけるかもって思ったんだよ」


 そう言って次郎は、向かいの席にいる自分の妻を見つめる。その眼差しはとても穏やかだった。


「もう十年続いてるんだ。いい加減、相性がいいか悪いかくらいはわかるだろ?」

「……そうだな」


 次郎は呆れ気味に笑って、僕の背中をバシンと叩いた。


***


 ひとしきり飲んで騒いだ後はお開きとなった。僕と美波さんは夜の中、手を繋ぎながら帰路をゆっくりと歩く。一緒に住んでいるので帰る方向は同じだ。

 皆と会えてよほど嬉しかったのか美波さんはご機嫌で、繋ぐ手をぶんぶんと振っていた。「んふふ~♪」と終始にこにこしている。


(ほんと、よく笑うようになったな)


 笑わない王女と呼ばれていた十年前、彼女はずっと無表情を貼り付けていた。

 しかし笑顔を取り戻してからは、それまでの悔しさや悲しみを精算するかのようにころころと表情を変えている。時に可愛らしく、時に艶っぽく、時に純真に、僕に様々な笑顔を見せてくれる。

 その度に彼女の愛情を感じ、僕の愛情も深まる。

 だから僕は、彼女の笑顔を絶やさないことだけをずっと考えて過ごしていた。

 苦しめてしまった幾度ものタイムリープの記憶を塗りつぶすために、楽しい日々を贈ろうとしてきた。

 結婚のことは頭の片隅にはあったけど、その傷を癒やすまでは踏み込むまいと決めていた。僕だけ美波さんと卒業や就職時期が違ったから、対等になるまではという気持ちも強かった。

 ……でも、もういいのかもしれない。


「美波さんちょっとふらふらしてるよ。ほらこっち」


 車道に近かったので引っ張り寄せようとしたら、逆に彼女はひょいっと歩道の縁石に乗ってしまう。「ち、ちょっと」


「危ないよ。降りなさい」

「ふふ、いいじゃない。ちゃんと支えてくれるのでしょう?」


 美波さんはニコリと笑う。酔いもあるが、こうなったら言うことを聞かないのだ。

僕は嘆息し、仕方なく彼女が車道に落ちないよう気をつけながら歩く。

 僕よりも高い位置になった彼女の手を取って歩いていると、まるでどこかのお姫様をエスコートしているみたいだった。

 美波さんは縁石を危なげなく歩きながらぽつりと呟く。「――お腹」

 

「結構大きかったですね。歩くのも座るのも大変そうでした」

「そうだね。胃も圧迫されるって言うし」

「つわりもきつかったって、言ってましたね。でもそんなことが気にならないくらい、みゅーちゃんは幸せそうでした……家族が増えるって、どんな感じなんだろう」


 独白するような美波さんの声に何も答えられず、僕らはしばし無言で歩く。

 自宅付近まで近づいた。川を渡る橋の途中、彼女は不意に立ち止まる。


「――羨ましいって言ったら、どうします?」


 美波さんに手を引っ張られ、僕は振り返る。

 

「いま、私がなにを考えているか、わかりますか?」


 試すような口ぶりには、微かな期待と怯えが混ざっていた。

 二人きりのときこんなことを言われたことはなかった。さっきの飲み会のように僕を焦らせる言動をすることはあったが、それは場を盛り上げる冗談みたいなもので、今までそんな素振りを一切見せなかった。

 だから僕は、美波さんも笑顔を取り戻した毎日を愛でるあまり、具体的な将来までは本気で考えてはいないのだろうと思っていた。

 でも、僕にはもう心を読む力はない。

 本当のところはわからない。

 人はこうして言葉にしてもらうことで、初めて伝わり、理解できる。

 普通の人間になった僕らの、初歩的なミスなのだと気づく。


「わかる、と思う」


 僕は羽織るジャケットのポケットに手を入れて、キョロキョロと周囲を見回す。今だけは誰の気配もない。

 ましてや、監視の目なんてものは、ありえない。

 美波さんがクスリと笑う。


『もう組織には見張られていませんよ?』


 ……そんな声が聞こえた気がしたが、気の所為なのだろう。

 だから僕は、いま、伝えるべき言葉を選ぶ。


「十年前に約束したこと、覚えてる?」

「十年前、ですか?」


 小首を傾げた美波さんはそっと左手の薬指を触っていた。高校生の資金で購入した小さな指輪を、彼女は今も大事に嵌めてくれている。

 確かに、目覚めてそれをつけてあげることが、僕と彼女の約束だった。

 でもそれは、だ。


「将来、もっといいものをあげるって言ったでしょ。それは僕から君に約束したことだから」


 ポケットから小さな箱を取り出す。それを彼女の目の前にかざし、蓋を開ける。

 月の光を受けて、淡く輝く指輪が台座に嵌っている。

 目を丸くした美波さんは、何回も瞬きをして僕に問う。


「こ、これ、いつの間に……もしかして、持ち歩いていたのですか?」

「うん。結構前から用意はしてたんだけど、切り出せなくて」


 湧いてきた恥ずかしさと情けなさを、咳払いで引っ込める。

 そして、僕は決心した。

  

「美波さん。僕と、結婚してください」


 過去の傷を癒やすため、今までの分を取り戻すために、笑顔の日々を作り続けた。

 でもそれは僕の言い訳で、単に逃げていただけなのだろう。

 結局僕は十年前から変わっていない。ヘタレのままだ。

 でも、君が寄り添ってくれたから。

 過去ではなく、未来を見据えてくれたから。

 僕の一生をかけて、幸せにしていきたい。


 驚き顔だった美波さんは、口を押さえて涙ぐむ。

 その左手を取り、薬指に指輪を通す。

 十年前にあげた指輪と、今あげた指輪が二つ重なり、綺麗に光っていた。

 瞳を潤ませていた彼女は、僕に笑いかける。


「はい……喜んで……!」


 涙を流し満面の笑みを浮かべる美波さんは、誰よりも素敵で、美しい。


 そして王女でなくなった彼女と、普通の男に戻った僕との物語は、これからも続いていくのだ。


 

『笑わない王女の心を読んだら、なぜか僕にべた惚れしてました』 完。

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笑わない王女の心を読んだら、なぜか僕にべた惚れしてました 伊乙志紀(いとしき) @iotu_shiki

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