言葉はお星様に流されて

ぴよこ

第1話

 口から出ていく見えない言葉は、時に優しく、時に誰かを酷く傷つける、とても危うい刃である。

 いつかどこかで読んだ、題名さえも思い出せない小説の一部分。

 けれどその一文だけが、私の脳裏に焼き付いて離れなかった。


 




 言葉はお星さまに流されて

 





 教室、窓際の一番後ろの席、グラウンドから聞こえる声援。カツカツと黒板に当たるチョークの音。

 真っ白なノート、丸まった消しゴム、芯の出ないシャープペンシル。

 ぱらりとめくった教科書から、いつ入り込んだのか分からない若葉が顔を出し、それはサラサラと風に舞い、ぽとりと床に落ちていった。


 何の変哲もない、日常。

 その中で、私は逸脱しないように息を潜める。目立ってはいけない、喋ってもいけない。

 私はもう、誰も傷つけたくはないから。




 消えてよ、あんたなんか、消えちゃえばいいよ。


 一年前の受験を控えた冬の日に、私はそんな言葉を吐き捨てた。

 他愛もない、とても小さな喧嘩だった。

 同じ志望校を目指していた親友よりも、私の方が少しだけ成績が良くて。

 そんな劣等感、受験のストレスを、彼女はチクチクと私に刺した。

 私はそれが、許せなくて。


 今思えばそんなことで、と冷静な自分がいるのだが、それでも、その時は。

 私も、少しだけ気が立っていた。

 だから、消えて、なんて。

 彼女はきっと、その言葉の刃に侵されたのだろう。


 合格発表のその日、彼女は家で首を吊って死んでしまった。

 志望校に、私だけが合格して。




 つん、と何かが肩に触れて、恐る恐る横を向く。

 お願い、と言いたげに顔の前で両手をぱちり。机の上に置かれた小さなメモには、はみ出しそうなほど大きな、それでいて男の子にしては柔らかな字で『けしごむかして!』の文字。


 古典を担当する教師は、定年間近の典型的な頑固オヤジ。少しでも私語があれば、乱暴にチョークを置いて注意をしてくる。だからいつもはうるさい野球部も、この時間だけは特別だ。

 火曜日の五時間目、誰も一切話そうとはしない静寂の時間。きっといつものように始まって、いつものように終わるのだと思っていたのだが。

 今日は少し、違ったみたいだ。


 にこりと頷くわけでもなく、口をパクパクと動かしてみるでもなく。

 私はただ黙って使い古した消しゴムを彼に手渡した。

 もう一度机の上に置かれたメモには『ありがとう!!』と綴られていて。

 別にそんなの、わざわざ律儀に言わなくたっていいのに。


 授業の終わりを知らせるチャイム、帰り支度をし始める生徒たち。

 無駄に長い帰りの会が始まって、そわそわと時計を確認する電車通学組。つまらなさそうに頬杖をつくギャル。

 よく見る、よくある高校の風景。

 汗でぴたりと額についた前髪を、まだ明るい空から降り落ちた、生温い風が攫っていく。

 今年入ったばかりの担任が、白い歯を光らせてやっと起立を促した。

 それじゃあ、と大きく息を吸い込んで、体育会系らしい腹式呼吸で『さようなら』。


 もちろん私は、そんな言葉を出すことはしなかった。




 掃除のために教室を追い出された私は、都内では割と有名らしい大きな食堂の椅子に腰を下ろした。

 明日の数学の予習でもしようか、と問題集を広げて、筆入れを出した、のだけれど。


 忘れていた。

 消しゴム、まだ返してもらっていない。


 はぁ、とため息をひとつ。

 彼はもう、帰ってしまっただろうか。

 部活はやっていたっけ?

 帰宅部だったら望みは薄い。

 売店はもう、閉まっている。

 ここは潔く家に帰ろう。

 そう思って椅子を引いた途端、ドン、と目の前に黒いリュックが現れて。


 プラプラと揺れる猫のキーホルダーと、目が合った。


「ごめん!返すの忘れてて!!」



 にゃあ?

 声の主は、どこにいる?

 今の声は、君の声じゃなかったね。


 ゆっくりと上を向けば、今度は猫の飼い主と目が合った。

 そう。君はそんな声だったんだ。


 はい、と手渡された角のない消しゴム。

 握りしめたまま走ってきたのだろうか、それはほんのりと熱を持っていた。


「あっ!もしかして予習?俺も一緒にやってってもいい?」


 私の答えを待つ素振りは一切見せず、彼は向かいの席に勢いよく座る。

 ……まぁ、いいか。静かにしていてくれるなら、いたっていなくたって同じだし。




 そう思っていた数分前の私、なんで断らなかったの。

 



 ねぇ、と一方的に話しかけてくる彼は、邪魔者以外の何者でもなく。


 一年の時は何組だった?

 この前の模試の結果はどうだった?

 家はどの辺なの?


 次から次へと投げかけられる質問攻めに、私はただただ黙認を貫いた。そのうち諦めて帰るだろう、と。

 そんな考えさえも、甘かったのだけれど。

 
 私がどう足掻いても答えようとしないことがわかったのか、彼もようやく口を閉じると、次はにこにことこちらを見続けた。

 そんな視線に耐えていれば、気がつけば日は沈み始めて、中庭の木が切なそうに葉を揺らしていた。


 そろそろ、帰ろう。

 教科書をぱたりと閉じて、椅子から腰を浮かす。

 そんな私と同時に、彼も席を立つ。

 一緒に帰ろうよ、とまたも笑顔を向けられたけれど、見なかったふりをする。

 

 話しかけないでほしい、構わないでほしい、興味を持たないでほしい。


 友達なんて、もう、いらないから。

 



 けれどその日を境に、彼は毎日毎日飽きもせずに放課後食堂に来ては私に話しかけるようになった。

 いや、正しくは、大きな声でつらつらと独り言を発するだけ。


 最初は無視し続けていたけれど、彼は案外話が上手くて、よく聞いているとその話にはしっかり起承転結が組み込まれているのだ。

 次第に、私は彼の話に耳を傾けるようになった。

 予想もできないような話のオチに、つい笑ってしまうことさえあった。


 固く閉ざされて錆びてしまった、言葉の扉。

 それを、彼の言葉が優しくこじ開けようとしていた。

 



 心臓が、聞いたこともない音でキュッ、と鳴いた。


 生まれて初めて、恋をした瞬間だった。




 どうして彼はそんなに私に話しかけてくるのか、理由はよくわからなかった。

 もしかしたらただ面白がられてるのかもしれない、質の悪い罰ゲームかもしれない。でもそれでも構わない、と。

 そう思ってしまう自分がいることに、戸惑いを隠せなかった。

 
 私は未だに彼へ一言も話すことはしていないけれど、積もり募った恋心は今にも爆発寸前で、心臓は日に日に大きく波打った。

 苦しくって、仕方がなかった。


 例え叶わなくても構わない、そう思って、私は彼へ想いを伝えようと決心した。


 


 いつもの放課後、広い食堂で二人きり。

 彼の話が、終わった頃。


 今しかない、と。

 



『好き』


 たった、それだけの言葉だった。

 二文字の、私の特別な言葉。

 けれどそれは声にならず、コロリと机の上に落ちたのだ。


 小さな、お星さまの形の、金平糖の姿になって。


 


 何が起きたのだろう、と。

 意味がわからずその二つの星を呆然と見つめた。


 


『好き』


 ポロン、コロン。




『好き』


 コロン、ポロン。


 


 溢れ出す星型のそれ、音にならない自身の声。


 私の言葉は、人を傷つけてしまうから?


 だからきっと、そんな言葉は消えてしまえ、と。

 そう、言われたのだと思った。


 


 心臓は、キュッ、と。

 聞いたこともない音で、泣いていた。


 頬を滑る涙は、水飴のように甘かった。


 


 言葉に嫌われた、私。

 それからは、ノートに書いた文字さえも苦いだけのチョコレートに変わり、どろどろと溶けていった。


 気持ち悪い、身体。

 不気味な私。


 言葉だけではなくて、彼に嫌われてもおかしくないはずなのに。

 なのに、彼は変わらず私の元へやって来て、毎日違う話をしてくれた。


 想いは募るだけ募って、ぐらぐらに揺れて。




 息が詰まって、死にそうだ。

 



 遅くなった帰り道、まんまるのお月さまは、大好きな星を探していた。


「綺麗だね、月」


 ふと、隣で彼が呟いた。

 意図的か、はたまた無意識か。たぶん後者だと、わかってはいたけれど、止められなかった。



 
 空に星が、足りないよ。


 だから、言葉を捨てて、伝えるしか、できない、から。




 背伸びをして、彼の額にキスをした。

 そしてゆっくりと唇を離して、最後の望みをかけて──


 


 す、き。


 


 零れた星を、彼は拾い、口に含む。


 私の言葉が、ガリッと音を立てて彼の中へ消えていく。




「俺も、好き」




 そっと、彼の手が私の頬に触れる。

 彼の大きなぬくもりがお星様を溶かして、私に涙をもたらした。


「……しょっぱい」

 
 ふ、と笑う彼の顔が、月の光で淡く照らされる。


 一番星は、やっと姿を現した。




「大好き」




 言葉は、時に人を傷つける。


 それでも、人は言いたくて、伝えたくて、仕方がないんだ。

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