二度目の別れ


『……それなのにね、Jrがそのデータを間違えて消しちゃって』

「えー、大変だったね」


 スプーンを口元に運びながら、ハカセと楽しく語らう。

 この習慣ができてから、もうすぐ一年が経とうとしていた。


 「ハカセ」というあだ名の彼女とは、とあるレズビアンのコミュニティで知り合った。そのため、私もハカセもお互いに同性愛者だということは承知であり、気の置けない仲になっている。

 とはいっても、ハカセと私が実際に顔を合わせた回数は非常に少ない。ハカセの仕事は宇宙に浮かぶ人工衛星の中で救難信号をキャッチするというものだから、休暇の時くらいにしか帰ってこない。


 会えない間は映像通信で話をするのが常だったが、いつのまにか夕食の時間に一緒に食べるようになっていった。

 背景が鉄の壁で、パイプとか配線とかごちゃごちゃしているうえに、ミュートにしているインコ型のスピーカーを置いてある密室だが、私はハカセの好きなように飾り付けているその人工衛星内が好きだった。


『慌ててサルベージしたから、何とか再現できたけれど、あれは久しぶりに焦ったね』

「良かったね。私も今日ね……」


 いつも話しているのはお互いの仕事や生活など、ささやかな内容だった。

 今日もハカセはJrという人工衛星内に入っているAIが起こした騒動を後で、今度は私の方がお昼にやってしまったちょっとした失敗について話し出した。ハカセは、けらけら無邪気に笑っている。


『ミネも大変だったじゃないのー』

「ほんとにね、びっくりしちゃった」


 ハカセだけが、私のことを「ミネ」というあだ名で呼んでくれる。

 本名と全くかすっていないこのあだ名は、私が好きなアニメのキャラクターからちなんで付けられた。ハカセはそのキャラクターの有名な名前の方を呼びたがっていたけれど、私は彼女とは全然違う見た目と性格をしているから、苗字呼びで落ち着いたという、変な経緯がある。


「あ、そうだ、今度、新しいアニメ映画の企画書に、『淡色』を推そうとおもってんだけど」

『えっ! ほんとに!』


 私が仕事の話をすると、コップを傾けていたハカセは、驚いて噴き出しそうになっていた。

 嬉しそうなハカセに、笑顔で頷く。以前にハカセから薦められて読んだ小説を、私は気に入って、これをぜひアニメにしたいと思ったくらいだった。


『でも、正直内容は地味じゃない?』


 喜んでいたハカセは、しかし今度は不安そうになる。

 確かに、小説は十代の男女の青春と恋愛がテーマで、二〇一〇年代に書かれた小説だから、当時の時代も強く反映されている。少年少女たちの細やか心理描写が中心のため、ハカセの不安ももっともだった。


「でも、だから余計にアニメで書きたいの。二人の心情を丁寧に描写して、風景や仕草に表せたら、素晴らしい映画になれると思う」


 私の言葉に、ハカセは何も言わずに真剣な顔で聞いてくれた。

 その後、ハカセは深く深く頷いて、しみじみと目を細める。


『そうだね。ミネには自信があるんだから、私のはただの杞憂だよね』

「そんな、自信て言えるほど立派なものじゃないよ」

『正直私ね、ミネと知り合うまでアニメは全然見てなかったけれど、実写やCGとは全然違う魅力があるよ。最近は、タイムマシンで過去に遡って、当時のリアルな風景を使って映画をとる方法もあるけれど、それはちょっと違うかなーって思っちゃう』

「……うん、分かるよ」


 私はハカセに笑い掛けたが、その顔が引き攣っていないかだけが心配だった。

 ハカセのアニメへの愛に嬉しくなるけれど、それ以前に「彼女」の言葉がオーバーラップして、心が痛くなった。


 『追体験』は、自分とハカセのために始めたことなのに、それに苦しめられてどうするんだと、頭の中でその考えを必死に打ち消す。

 それから、ゆっくりとしていた咀嚼を飲み込んで、ハカセには別の話題を振ってみることにした。


「プレゼンのためにいろいろ調べてみたけれど、『淡色』って発表当時に賞を取って、一回映画化されたくらいで、すごく有名ってわけじゃあなかったんだね。ハカセは何で知ったの?」

『あー、なんだったっけな……。そうだ、暇しているときに、偶然Jrが電子書籍のデータを持っていたのを読んだんだった。そうだよね、Jr!』

『はい。ハカセの曽祖父が買ったデータを私が引き継いでいました』


 私たちの食事中、人工衛星内のAIのJrはずっと静かにしているけれど、ハカセから何かを尋ねられた時だけ口を開く。


『そうそう。おじいちゃんがこの本を読もうと思ったエピソードがあったよね』

『はい。ハカセの祖父は、初恋の人がこの本を読んでいることを思い出して、読み始めたそうです』

「え、何それ、すごくいい話」


 笑いだしそうになるのを我慢している様子のハカセだが、一方Jrの方は淡々と事実を述べてくる。

 私はその話に、創作者の本能なのか、食いついてしまった。


『いい話かな? 初恋の相手って言っているから、多分叶わなかったと思うけれど』

「でも、叶わなかった恋って、すごい印象的に残っているものじゃない?」

『ああ、そうかもね』


 私の言葉に、ハカセはわずかに目を細めた。笑うのとは少し違う顔つきになる。

 ハカセも、叶わなかった恋のことを思い出しているのかな? 勘だけどそう思った。私も一人、心に浮かんだ相手がいたから。


『……『淡色』の映画化、とても楽しみにしてるよ』

「気が早いよ。まだ会議にも出していないのに」

『もしも公開が決まったら、絶対試写会に行くからね』

「うん。ありがとう」


 最初は茶化しているように聞こえたけれど、ハカセの目は存外真剣で、私もその思いも真正面から受け止めた。

 一か月後、ハカセは人工衛星内で待機する仕事から、地上のメンテナンス勤務へと異動する予定になっていた。自らそう志願した理由ははっきりと話していないけれど、私は勘づいている。


 ハカセは、もっと私と一緒にいたいんだ。いつの日か私に告白をして、うやむやのままで続けてきたこの関係に、きっちりとした名前を付けたいと思っているのだろう。

 私は、このハカセの気持ちがとても嬉しい。その日が待ち遠しくもある。


 だけど、それと同時に過るのは、「彼女」の顔だ。もちろん、「彼女」に未練があるわけではないと断言できる。

 ただ……怖くなってしまう。あと一歩だけ、恋に踏み出す瞬間が。






   ◇






 最後に彼女と会った日は、今でもよく覚えている。

 混じりけ一つない青色に、地球全体が覆われているんじゃないかと錯覚するくらいにいい天気の日だった。太陽もその熱を誇るかのように、さんさんと輝いている。


 私は彼女に誘われて、無料で入れるビーチに来ていた。

 あの夜の出会いから半年が経ち、私たちはよい友人関係を続けていた……傍から見たら。


「あー、危ない、危ない!」


 彼女は入水が禁止されているのに、波打ち際のギリギリまで近づいて、寄せてくる波から逃げるという、なんとも子供っぽい遊びをしていた。

 高い声ではしゃぎながら、太陽よりも眩しい笑顔で駆けている。


 私は流木を生かしたベンチに座りながら、その様子を眺めていた。せっかく彼女と一緒にいるのに、私の気持ちは沈んだままだった。

 初対面の時に芽生えた彼女への愛情は、時が流れるにつれて大きく成長していき、私の心をがんじがらめにしていた。彼女の背中を見ているだけできゅっと痛むその胸を、気付かれないように押さえつける。


 心が苦しいのは、それだけではなかった。

 私はとある惑星上に建てられる予定の支部のスタジオで、作画監督にならないかという打診を受けていた。今よりももっとアニメ制作に深く関われることを考えれば、この栄転も喜ばしいことではあったが、それは端的に言えば、彼女との別れも表していた。


「ねえ、ちょっと歩かない?」


 さすがに飽きてきたのか、こちらに走ってきた彼女を見て私は立ち上がり、そう提案した。

 彼女もそれに乗り、二人で砂浜を歩く。海のシーズンは過ぎていて、私たちだけが砂浜に影を落としていた。


 ゆっくり、歩きに合わせるかのように話していく。

 彼女はこちらを見ながら頷いていたが、時々視線を海の方へと向けた。


「……海、本当に好きだね」


 私の一言は、呆れよりも羨ましさを持って響いた。彼女がこんな風に眼差しを送る相手を、私は他に知らなかった。

 振り返った彼女は、こちらが泣きたくなるくらいの満面の笑みを浮かべて肯定した。


「うん。大好き。いつまでも眺めていられるよ」

「もう、海のない生活なんて想像もできないだろうね」

「そうかもしれない。でも、それはあなたも一緒でしょ?」


 彼女の問いはあまりに無邪気で、その分鋭く胸に刺さるのが分かった。

 青い海は、きらきらと波を反射さえて、優しい彼女の姿を飾り立てるかのようだった。


「……あのね、実は異動の話が出ていてね」

「えっ、そうなの?」


 私は初めて、彼女に対して、自分が人生の岐路に立たされていることを話した。どちらともその場に立ち止まり、彼女は私の詳しい説明にじっと耳を傾けていた。

 ……ここまでは、記憶と同じ展開だ。問題は、ここから先にある。


「そうなんだ……。異動しようと思っているの?」

「悩んでいるけれど、七対三で、異動に気持ちが動かされているかな」


 私は苦笑交じりでそう言った。ちょっとでもふざけないと、彼女の視線に押し潰されそうだった。

 彼女は、何も言わなかった。けれど、その唇が、「さびしい」という形に動いたような、気がした。


「あの、それとは別に、聞いてほしい話があるんだけど、」


 たったそれだけで、私の感情はあっさりと、爆発してしまった。


「なあに?」

「私、あなたのことが好き」


 私は自分で制御できないまま、そう言い切っていた。

 彼女の瞳が、驚愕して大きく開かれる。続けて、瞬きが三回。三回ずつの瞬きが、何度も繰り返された。


「ごめん、今の話は、忘れて」


 その反応が、彼女の答えだった。臆病風に吹かれた私は、すぐに目を逸らした。


「でも、」


 彼女が言い掛ける。その先の言葉は、このまま追体験しなくても思い出せた。


 ――「あなたのことは、嫌いじゃないよ」


 それは、無理解とかそういうのとは全く違う、私と彼女の間に横たわる深い溝を表していた。

 あの言葉を聞いた瞬間、私は彼女に対してどんな顔をしたのだろうか。『追体験』だけでは分からないことを、ちょっとだけ想像してしまう。


「……止めてください」


 私は、彼女が続ける前に、そう言うことができた。

 彼女の動かしかけていた唇が止まる。波も、背後の道路を走っていた車も、私の記憶の中の全てが、リモコンの一時停止ボタンを押したかのように、動かなくなった。


「私が、『聞いてほしい話がある』という直前まで巻き戻してください」

『かしこまりました』


 前回と同じ機械音声が了承して、世界の時間が巻き戻された。

 彼女の姿は、殆ど変わらなかった。たった一分、二分だけの間に、私たちの関係は崩れて去ってしまったんだ。


「もしも、私が異動しても、友達のままなのだから、大丈夫だよ」

「うん。そうだね」


 彼女は微笑んでくれた。私の友達である彼女は、とても優しい人だったんだと、改めて思う。

 寂しさが消えたわけではないけれど、安堵する気持ちが胸に広がっていくのが分かった。


 『追体験』によって、過去は変わらないから、私たちはこれからも会わずに暮らしていくのだろう。私が引っ越した後に消した、彼女の連絡先が戻ることもない。

 でも、もうこれで十分だった。私たちは「友達」のままさよならを言う。そういう終わり方でもいいんだ。


 私は自分のウォッチで時間を確認した。

 あっと、わざとらしく何かに驚いたふりをする。


「ごめん、そろそろ帰らないと」

「うん。今日は付き合ってもらってありがとうね」

「いいのいいの。……またね」

「またね」


 確か、記憶の中の彼女との別れ方も、今のやり取りと変わらないはずだ。

 私たちは、永遠に来ない再会の約束を交わして、私はそのまま真っ直ぐ、彼女は踵を返して反対側に歩き出した。


 さくさくと灰色の砂の上で自分だけの足音がする。乾ききったそれが、私の靴の形をくっきり残していくのを眺めていた。

 靴から砂粒が、さららと落ちていくのを意識するのと同時に、目の前が滲んだ。


 だめだ、泣いちゃだめだ。さっき笑って別れたのに、泣いたら台無しだ。

 そう思って涙を拭おうとする手が止まった。笑って別れることができたのなら、もう誰も見ていない今こそ、泣いてもいいんじゃないのかな。


 私は、一心不乱に歩く。砂を踏みつけて、自分の足跡が消えてしまわないように。

 青すぎる空も、うねり続ける波も、今の私には怖いもののように感じられた。


 今だからこそ、ハカセに会いたい。映像通信じゃないハカセの気配を感じて、スピーカー越しではないハカセの声が空気を震わせるのを聞きたかった。

 恋が終わったからじゃない。この恋を、心の中に仕舞い込めたからこそ、ハカセの愛に触れたかった。


 ハカセ、私の叶わない恋はこんな話だよ。

 ハカセの恋はどうだったの?


 無様なくらいに涙が溢れたまま、私は空に向かって慟哭した。







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記憶を踏みつけて愛に近づく 夢月七海 @yumetuki-773

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