記憶を踏みつけて愛に近づく
夢月七海
二度目の出会い
そうだ。最初に会った日は、こんな鉛色の空だった。
帰りに降り出すんじゃないかって、心配しながら思いながらバスを降りた。
パーティー会場はビル街の中のホテル、海が見えることが売りの十五階。
でも、こんな天気で海を見ても心は晴れないよねと、エレベーターの中で思ったのを思い返す。
辿り着いた会場は、すでに関係各所で賑わっていた。丁度余興もないタイミングだったので、みんなグラスを片手に歓談している。
立食パーティーだったので、後入りして肩身の狭い思いはしなくて済んだけれど、余計にどこの輪に入ればいいのか分からずに悩んでいた。仲の良い同僚は盛り上がっているし、もちろん監督や声優の所へは行けないしで、どうしようとうろうろしていた時に、彼女の姿を見つけた。
……彼女は、一面ガラス張りの壁の前に立っていた。そこから、灰色の海を静かな瞳で眺めている。
あまりこちらから知らない相手へ話しかけるのはしないけれど、彼女の横顔に妙に惹かれるものがあって、私はそっと歩を進めたんだった。
「何か見えますか?」
私の一言目はそうだった。
はっと視線が合った彼女は、急に恥ずかしそうに微笑を浮かべた。
「いえ、何か、ってわけじゃないんです。海が珍しくって」
「そうなんですか」
私も海の方へ眼を向けた。モノトーンの海は、波が立っていて、それを触るとざらざらとしていそうだなとは思ったけれど、それ以上に何か感じるほどではない。
それでも彼女は、内なる興奮を微塵も出さずに、海に魅入っていた。
「私は他惑星出身で、大人になってから初めて地球で海を見たんです」
「ああ、そうでしたか」
納得して、私も深く頷いた。
そして、地球出身で、子供の頃から海の近くに住んでいた私と、彼女がその瞳に写す海とは全く違うものだということに、どうしようもない寂しさを抱いた。
このタイミングになって、私たちはやっと自己紹介をした。
彼女は今回の映画に、フルート奏者として参加していた。楽器の話は色々聞きたかったが、彼女は私の作画助監督という仕事の方に興味を持ってくれた。
「助監督ってことは、描いたりはしないんですか?」
「いえ、うちは小さい会社ですから、私も現役バリバリです」
苦笑しながらそう答える。
実際、我が社が今回くらいの大きな規模で映画を作ったのは初めてで、みんなやり方が分からずに右往左往していた。今回ばかりは、私も中間管理職の仕事を全うして、一度もペンを握らなかったくらいに忙しかった。
「恥ずかしながら、アニメ映画に関わらせていただいたのは初めてなので、すごく新鮮でした」
「手描きのアニメ会社なんて、だいぶ減ってきていますからね。うちも、あれこれ節約して大変で……」
「ええ。こちらもアナログ楽器奏者なんて、正直地味で目立たないですから……あんまり儲からないっていうのも実情ですよ」
お互い、愚痴りあってしんみりしてしまった。
本来ならば、自分の仕事の情熱とかを語り合いたかったと思う。だけど、初対面であるという気兼ねから、無難な話に逃げてしまっている部分があった。
「……だけど、私、フルートの音、大好きですよ。今回初めて、打ち込みではない生のオーケストラにお願いしたサントラですから、素人意見ですけれど」
でも、あの頃と違って、今は素直に彼女へ称賛を贈れた。柔らかな微笑みを返すと、彼女はいつもの癖で、恥ずかしそうに目線を逸らした。
「私も、素人意見で申し訳ないのですが、あんなに美しい絵が生き生きと動いているのを見たときに、すごく感動しました。この作品に、末端でもかかわらせていただけたことが私の誇りです」
にこやかに、彼女があの時には言わなかった気持ちを伝えてくれて、私は息が詰まった。
「……どうしました?」
「いえ、あの、ありがとうございます」
不思議そうにした彼女に、大きく首を振って無理にでも誤魔化した。
今の言葉は、彼女が私と出会った後にネットで投降したものとほぼ変わらなかった。画面で見た時でも跳び上がるくらいに嬉しかったのに、こうして面と向かって言われると、喜びが爆発しそうだ。
その後の会話は、あの時と全く変わらなくて、終始和やかに進んでいた。
私と彼女は年が近かったということもあり、打ち解けるスピードは速かったと思う。そのうちに、冗談を言って笑い合うくらいになっていた。
「あの、ここで会ったのも何かも縁ですし、連絡先を交換しませんか?」
やはり、提案してきたのは彼女の方だった。
私はいいですよ、と微笑みかける。ここまでは当時と変わらない。
近くのテーブルに二人ともグラスを置いて、彼女が腕につけたウォッチを操作し始めた。
これが一番のチャンスだ。私は大きく息を吸う。
「……連絡先の交換の前に、一つ聞いてほしいことがあるんですが、」
「はい? なんでしょうか?」
こちらを向いた彼女は、不思議そうに眼を瞬かせた。丁度三回、それが彼女の癖だった。
私が突然切り出した言葉に、彼女が困惑を滲ました時に、私はわずかに、本当にわずかな隙ができてしまい、言葉が完全に詰まった。
「ううん。なんでもない」
「……そうですか」
急に砕けた口調になった私に、彼女はますます困っているようで、また瞬きを三回する。
だけど私は、この瞬間を「巻き戻す」つもりにはなれなかった。
「……終了してください」
シャンデリアの輝く天井を見上げて、私はため息と共にそう呟いた。
『かしこまりました』
降ってきたのは、余所余所しさを感じるくらいに事務的な機械音声だ。
そうして、電気のつまみを絞るように周りは真っ黒になって、彼女の姿すら見えなくなった。
◇
「お疲れ様です。最初の『追体験』はいかがでしたか?」
VRルームを出て、すぐ隣の診療室に入り、初老の女医さんと向き合って話をする。
女医さんは、精神科が初めての私の緊張を解きほぐしてくれようと、いつもにこやかに優しく話しかけてくれる。
「緊張しましたが、殆ど違和感なく入り込めました」
「分かりました。では、この先もモードはこのままで」
「お願いします」
女医さんは頷きながら、手元のノートタイプ端末のカルテに何かを書いていた。
目線を落とした彼女の白目部分に、何か機械の繋ぎ目のようなものがうっすらと見えた。恐らく、義眼なのだろう。
私が今受けている『追体験』と呼ばれる治療法は、VR空間に自分の記憶の中にある風景を生み出して、そこに「現在」の自分が入るというものだった。自分の心残りやトラウマになっている場面をもう一度体験することで、ああしておけば良かったという後悔を和らげるのが狙いになっている。
そのVR空間の再現度は高く、記憶の中の人物の言動も、医療行為として認められているネット利用の分析によって再現されていて、「現在」の自分が何といっても対応できる。それに加えて、場面を「一時停止」「巻き戻し」「強制終了」することも可能なので、自分のペースで過去と向き合えることが特徴だった。
私はこの女医さんと相談して、自分の心残りを取り除こうと、彼女と初めて出会ったあの日を『追体験』することに決めた。
そうしていざVR空間に入ってみると、自分でも忘れていたような細かな事象と対面することも多くて、驚いた部分があった。人は一度見たものは、記憶のどこかに残っているとは事前の説明で聞いていたけれど、パーティー参加者の服装もすべて覚えているなんて思わなかった。
「では、最初の『追体験』の成果について教えてください」
「成果、ですか……」
女医さんがにこにこしながら尋ねた一方で、私は申し訳なくなって思わず俯いてしまっていた。
事前に立てていた、今回の『追体験』で目標は、正直に話せば達成できていなかったからだった。
「すみません。決めた通りには言えませんでした」
「謝る必要はありませんよ。過去と向き合うのは大変な労力が必要ですから」
私の謝罪を、女医さんは間髪入れずに否定した。
ずっと笑みの形をしていた女医さんの眼が、今は真っ直ぐに私を射抜いていた。
「後悔を無くす方法は人それぞれです。ただ一つ断言できるのは、焦って解決しようとすれば、より苦しくなるということだけです。あなたのペースでいいんですから」
「はい。ありがとうございます」
女医さんの言葉は力強くも温かく、私にどこまでも付き合おうという覚悟も読み取れた。
だけど、その有難さにすがりたくても、私にはタイムリミットがあった。そのため、女医さんの「次の来院では同じ場面でやりますか?」という提案に、私は首を横に振った。
「いいえ、そのまま続けます」
「……分かりました」
女医さんは、ほんの少しだけ何か言いたそうに口を開けたけれど、私の望みを優先してくれた。
それから、次の診断についての話をした。その間も、私はずっと他のことを考えていた。
私には、友達以上恋人未満の相手がいる。しかし、その前に犯してしまった「失敗」によって、相手の好意を受け止めて、一歩踏み出すことができないままでいる。
これからの自分のためにも、まずは彼女に対する思いを整理しなければならない。
当初の予定では、彼女と出会った時に遡り、自分が同性愛者だと告白しようと思っていた。
……それも上手くいかなかったけれど、次回はいよいよ私の後悔の本題、彼女との別れの日の記憶に入っていくことになっていた。
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