3.あたらしい先生、埋葬の秘密
3.
Side.K
「……おっきい」
目の前にそびえ立つ門を見上げながら、私は思わずそう言っていた。
大人の人の背丈よりも、その門はぐっと高い。
門の上にも瓦屋根がついていて、とても立派だ。門の向こうには木々が生い茂っており、どんなお家がそこにあるのかわからなかった。
「あの人のお家は、元華族だからね」
これでも昔は別邸だったんだって。
隣に立つ三宅さんが、そう教えてくれた。
別邸ということは、本当のお家があったということで、たぶんこれより大きいのだろう。そう考えたら、くらくらした。
「えらい人なんですよね」
ももさんからも、父からも聞いた。
『ざっくり言ってしまうと、昔ここらの土地を持っていたというか、お世話をしていたというか、そんな感じのことをしていたお家の人だよ。だからというわけでもないけど、ここらの人は何かあっちゃ、まずその人に相談に行くんだ』
『頭のええ人やさかい、どんな問題もたちどころに解決してまうんや。僕も何度か
「えらい人というか……人として、すごい人だよ」
三宅さんはしみじみとした調子で言った。父もそう言っていた。一体どんな人なのだろう。
「でも、とても優しい人だから、安心していいよ。三浦さんもいい人だし」
何一つ心配することはないからね、と言って、三宅さんはそっと私の頭を撫でてくれた。
私は、こくんと一つ、深く肯く。
私と三宅さんがこの家に来たのには、理由がある。
*
Side.C
「どないしよう」
夜の十時。居間で大人五人、がん首揃えて悩んでいた。
机の上には、コトリの算数のワークと理科のワーク。
コトリは、毎日よく勉強している。
国語と社会においては、もう一学期の単元を終え、二学期の範囲へ突入しようとしている(単元名の下に、いつ頃やるかの目安が書かれてあった)。
英語も(今日び、小学生も英語をするのだ)、マルさんや百さんに教わり、小学生用の英語ドリルをぐんぐん進めている。
だがしかし。
「算数と理科は、進みが遅いなあ」
コトリが来て早一ヶ月。
理数ワークの進み具合は、国社に比べて遅い。しおり代わりの付箋は、初めの初めくらいのところに貼られてある。
「意外と小学生の算数って難しいですよね……」
一朗さんが、ワークをめくりながら唸る。
「解けるんだけど……教えられないっていうか……何でって言われたら答えられないというか……」
「とにかくこの公式を覚えて、あてはめていけばいいんだよとしか、言えないからね。教育としては、いけないだろうね」
「私も理数はちょっと……とくいでないですね……」
この家の大人は、揃いも揃って文系ばかり。
コトリに理数を教えてやれる人材が居ないのだ。
「父さんの言うような、『とにかく何も考えずに公式にあてはめろ』みたいに教えるなら、小学生の間はどうにかなりそうだけど……コトリちゃんの将来を考えたら、本当にそれでいいのかな」
一朗さんが眉を顰めて言った。
「これから先、もっともっと難しくなりますよね。コトリちゃんが学校へ行きたくないのなら、せめて教えてあげられる人を用意してあげたいよ」
「かといって家庭教師なんて大仰なものは、あの子は嫌がるんじゃないか」
まったく、百さんの言う通りで。
僕が、コトリの理数の勉強が進んでいないことに偶然気付いてしまったとき、彼女は怯えたような眼で僕を見上げ、「ごめんなさい……」と謝った。
『もっと、もっとがんばりますから……』
と小さな声で言ったのがあまりに哀れで、「いや、わからんとこあったら教えるで。教えられたらやけど」と思わず言ってしまったのだが、それに対しても異常に恐縮した。
もし、お金を払って誰かを雇うことになったら、あの子は卒倒してしまうのではあるまいか。
そもそも。
「……雇う金もありませんわぁ」
僕は頭を振った。
「そのへんは、猫山さんに相談してみたら?」
「ううーん……」
あの正体不明の女か……正直、ごめんこうむりたい。
たまにふらっと現れて、コトリを面談と称して何処かへ連れて行く。
特に何か言われたことは無い。
いつも、あの得体の知れない笑みを浮かべながら「それじゃ、コトリちゃんをよろしくお願いするッスよぉ」と言われるだけだ。
ただ、あの瞳の奥にはいつだってこちらを試すような色がある。
『少しでもコトリに害をなすようなことがあったら、容赦しない』という、厳しい色。
彼女の職務からしたら当たり前のことなのだろうけれども。
僕と彼女の関係は、そんな剣呑な気配をはらんでいるが、コトリとの関係は良好なようだ。
『私と同じくらいの弟さんがいたって言ってました』
そんな話をするくらいには、仲が良くなったらしい。
というか、あの女に弟なるものが存在したことに密かに驚いた。何処かからぬっと生えて来たみたいな得体の知れなさがあるものだから。親兄弟がいるとは驚いた。
『いた?』
『災害で……、って』
コトリの方が痛そうな顔をして言っていたのを思い出す。
その頭をぽんぽんと撫でてやりながら、もしかしたらコトリと亡くなった弟さんを重ねているのかも知れない、と思った。
だから、親身になるし、僕を疑り深く見るのかも知れない、と。
しかし、あの奇妙な女がそんな人間味あふれることを思うだろうかとこれまた失礼ながら思ってしまったわけだけれど。
「いや、それでもあの子は気にするだろうね」
百さんの声で、回想から現実に引き戻された。
そうだ、今はコトリのことだ。
確かに、あの人は親身になってくれるだろうけど、その親切をコトリが受け取れるかはまた別なわけで。
どうしたものか……と再度、頭を抱えたときだった。
「……じゃあさぁ」
いきなり居間に響いた声に、全員がびくっと肩を跳ねさせる。
むくりと起き上がったのは、三宅さんだ。
……そうだった。三宅さんも、この居間に居たのだった。
夕方ふらっとやって来た三宅さんは、そのまま晩ごはんもここで食べて、それからちょっとお酒も呑んで、そして寝てしまったのだ。
三宅さんが酔って寝入ってしまい、朝を迎える……ということは、そう珍しいことでもなかった。
「びっくりした……起きてたんだね」
「うん。ちょっと前からね」
くあ、と三宅さんは欠伸をしたあと、にっこり笑って言った。
「俺に、いい案があるんだけど」
*
Side.K
……私に理数を教えてくれる人が、ここにいる。
私が、理数をあまり得意ではないせいでみんなに迷惑をかけてしまった。きっと、この家の人も迷惑なのだろう。そう思うと、気分が重かった。
「本当に、怖い人じゃないよ?」
三宅さんが、沈んだ顔をしている私に優しく語りかける。
「いえ……みんなに迷惑をかけてるから……その……」
三宅さんだって、このあと用事があるのにわざわざ私をここまで送りに来てくれた。
父が、仕事の打ち合わせで来られないから。
本当に、私はなんてダメなのだろう。
気分はどんどん沈んでいく。
「全然、迷惑なんかじゃないよ?」
三宅さんは、きょとんとした声で言った。おそるおそる三宅さんの方を見上げる。やはり、表情もきょとんとしていた。
「誰も、迷惑なんて感じてないよ。みんな、好きでしてることだからさ」
「でも……三宅さん、このあとにも用事が……」
「うん。あるけど、でもここから近いし。ていうか、俺が単にこの家に来たかっただけなんだよね」
ここお菓子美味しいし、お家も綺麗だし、
きらきらした眼で三宅さんが言った。
いつも三宅さんは、そういう眼をしている。
「それに、コトリちゃんをここに連れて来るまでの流れが、本当に俺、好きでさ」
「?」
「だってね」
三宅さんが何か言おうとしたとき。
カシャン
という音がした。そちらを見ると、ゆっくりと扉が開かれるところだった。
「こんにちは、ようこそおいで下さいました」
中から現れたのは、物語に出て来る執事のようなひとだった。
背は高くすらっとしていて、白っぽい金髪。けれどやわらかな笑みが浮かべられた美しい顔は、たぶん日本人のもの。
何故たぶんなのかというと、そのひともまた、私と同じような跳ね上げ式めがねを着けていたから。
年齢もよくわからない。父と同じくらいだと言われてもなるほどと思うし、三宅さんと同じと言われても納得するし、ももさんと同じだとしても確かにそうかもと感じる。
不思議なひと……と思うと同時に、あいさつなのだからと慌ててサングラス部分を跳ね上げようとしたら。
「ああ、どうぞそのままで。……私と同じで、お外はつらいでしょう」
優しくそう言ってくれた。
私と同じ、ということは、この人も目が悪いのだろうか。
「初めまして。三浦 喜太郎と申します。どうぞよろしくお願い致します」
深々とお辞儀され、私も慌てて頭を下げる。
「不知火 小鳥です。よろしくお願いします」
顔をあげると、三浦さんがにっこりと微笑みかけてくれた。それから、三宅さんを見て。
「お久しぶりですね、三宅さん」
「お久しぶりです、三浦さん。慶之助さんは元気?」
「ええ。今回のお申し出に大喜びでいらっしゃいますよ。私も嬉しく思います」
さあ、中へ。
誘われた空間は、まるで物語の世界のようだった。
林のように木々が立っていて、若い、春の匂いがいっぱいに満ちていた。緑のトンネル、と思った次の瞬間にはそれを抜けて、生け垣が私たちを玄関へと導いた。生垣の向こうは日本風のお庭なのだろうと、枝葉の間からうっすら見える様子でわかった。
広いお庭なのだろうことも、向こうの方に続く生垣を見て思う。
お家も、大きかった。
瓦屋根だけれど、全体的な雰囲気は洋風のお家。
和洋折衷、と最近習った言葉を思い出した。
「どうぞ」
大きな木の扉を、三浦さんが開けてくれる。
三宅さんがすいすい入って行って、私はその後ろをおずおずとついていく。
中は、いつかの童話で見た立派なお屋敷みたいだった。
入ってすぐに、大きな階段。踊り場にはめこまれている大きな窓は、ステンドグラス。
ステンドグラスには、白いお花が描かれてあった。
何のお花だろう?
私が首を傾げていると、
「……あの花は、グラジオラス。昔の当主が、好きな花だったそうだよ」
左側に伸びた廊下の方から声がした。
そちらを見ると、これまた不思議なひとが立っていた。
白い口布を付けた、着物姿のおじいさん。家の中だけれど杖をついていて、でも、しゃんと背筋を伸ばして立っている。
「お久しぶりです、慶之助さん」
「お久しぶりです、三宅さん。相変わらず元気そうで、何よりだ」
目が三日月型に細められる。口布をしているから顔全体はわからないのに、ちゃんと笑っているなあとわかる笑顔だった。
「そしてそちらが……」
「は、初めまして。不知火 小鳥と言います」
慌てて、かしゃ、とサングラス部分を跳ね上げ、お辞儀する。
「コトリさん、お話は聞いているよ。よう来なすったね」
優しい声は、どこか甘くて、やわらかい感じがした。
「私の名前は、音羽 慶之助。……見ての通り、足が悪くてね。顔半分にも火傷の跡があるもんで、こうして隠させてもらってます。顔を見せぬ無礼をどうか許して欲しい」
「いえ……」
なるほど、そうだったのか。
「こんなとこで立ち話もなんだね。さ、あがっておくれ」
通されたお部屋は、白い壁の洋風のお部屋だった。
真ん中に大きな木のテーブルがあって、そこには白いクロスがかけられてある。大きな窓からは、お庭が見えた。やはり、日本風のお庭だった。池の代わりに白砂がまかれてあり、苔むした燈篭や橋、石がまるで遺跡のように立っている。
「今日のも三浦さんの手作り?」
三宅さんが、アップルパイを頬張りながら尋ねた。
「はい。
「今日のも、この上なく美味しい!」
「ありがとうございます」
「至上だよ、至上」
白いお皿の上にのったアップルパイは、お店で出されるのよりもちょっと大きくて、ぽってりした感じだった。優雅なティーポットやティーセットが並ぶテーブルの上では、少々変わり者のように見える。
けれど、そんなアップルパイが、一番このテーブルの上で堂々としているようにも見えた。
「コトリさん、お口に合いますか?」
「は、はい。美味しいです」
私が、こくこくと頷くと、三浦さんはにっこりと笑ってうなずく。
「それは良かった」
「喜太郎のアップルパイは、そんじょそこらのお店のよりも美味しいからね」
切り分けたアップルパイを、慶之助さんは口布をほんの少しだけ持ち上げてその隙間から食べていた。
「慶之助さんお好みのアップルパイだもんね」
三宅さんが、悪戯っぽく言う。
「その通り。……この大振りでずんぐりした形。パイのサクサク感と下のタルト生地の程好い固さ、りんごは甘すぎず酸味がちゃーんと残ってる。ふふ、最高だよ」
「恐れ入ります」
確かに、慶之助さんの言う通りだった。
パイはサクサクで、中のりんごはしゃきしゃき感を残していて、甘いのだけどちょっと酸味があって、ぱくぱく食べてしまえる。
あと、紅茶がとてもいい匂いで美味しい。
緊張してお砂糖を入れ忘れたけれど、それでも美味しいなと思った。
「それで、三宅さん。この件についてだけど」
「はいはい」
「こちらは、そりゃもう喜んでお受けするよ。コトリさんみたいな若い世代の人とお話出来る機会は、なかなかないからね。ありがたい限りさ。それに、安定も約束されてるなんて、素晴らしいじゃないか。不安定も、素敵だけどね」
「あの……?」
安定って、どういうことだろう?
私は、隣の三宅さんを見上げる。
「実はね、俺は、慶之助さんから定期的にここへ来ていろんなお話をして欲しいってお願いされてるんだけど」
「私は、若いころは実家を飛び出したり、ちょいと年がいっても、ほうぼうほっつき歩いたりしていた人間だからね。基本的には外の世界が好きなのさ。けど、今は何ぶん、こんな足だしね。年もあって、出歩くのが難しくなっちゃって」
「で、俺も慶之助さんたち好きだし、このお家も好きだしで、二つ返事で引き受けたんだけど、ちょっと問題があって」
「問題?」
私が尋ねると、三宅さんは「そう、問題」と言った。
「俺、呼ばれたら、その日約束があっても、そっちに行っちゃうんだよね」
「呼ばれる……? お仕事ですか……?」
「まあ、急な仕事のときもあるけど」
「三宅さんは、土地に呼ばれるお人なんですよ」
三浦さんがそう言って、悪戯っぽく笑う。
「土地に……?」
どういうことなんだろう?
「何かね、いきなりどうしようもなくその土地に行きたくなるの。行きたくて行きたくて、居ても立っても居られなくなって、そこへ出かけちゃうんだよ」
三宅さんが真面目な顔で言った。
「それが、土地に呼ばれるということ?」
「たまにいらっしゃいますね、三宅さんのような方は」
三浦さんは、何でも無いことのように言い、
「そういう人を引き留めては、その土地の神様にも悪いからね」
慶之助さんも、さも当然というように頷いた。
もしかしたらよくある話なのだろうかと、とりあえず私もうなずいておいた。
「でも、そういうことが何回も続くときがあって、あまりに続くと、わかってもらっているとは言え、悪いなあと思うんだ」
「寂しいことは寂しいけど、仕方のないことさ。気にしちゃいないよ」
「それでもね。……そこへ、今回のコトリちゃんの話だよ」
「私の?」
そう、と三宅さんはにっこり笑うと言った。
「コトリちゃんは、よほどのことがない限り、『この日がお勉強の日ですよ』って約束したら、その日に来るでしょ?」
その通りだから、こくんと一つ首を縦に振る。
「それが、慶之助さんや三浦さんにとってありがたいんだよ。もちろん、俺にとってもね。コトリちゃんが、ちゃんとここに定期的に来てくれて、慶之助さんたちとお話してくれる代わりに、お勉強を見てもらうっていう、これはいわば契約なんだよ」
そこまで言って、「あ」と三宅さんは慌てて言い足した。
「定期的って言ったけど、あくまでコトリちゃんが来たいときでいいからね。慶之助さんたちもそう言ってるし。学校や塾みたいに曜日決めてとか、そんなんじゃないから」
「そうそう。無理はしなくていいよ。もし今日話してみて、来たくないなあと思ったら、それを素直に三宅さんに言ってくれてかまわないからね」
「いえ、あの……大丈夫です」
私は、今度は首を横へ振る。
たぶん、私が学校へ行きたくないということを聞いているから、気にしてくれたのだとわかった。
けれど私が学校へ行きたくない理由は、定期的な外出が嫌だというわけではなかったから。
「それなら、良かった」
三宅さんが、にっこり微笑んだ。
*
それから、私は週に一回ほど慶之助さんのお家を訪問することになった。
最初は、そうは言っても迷惑なんじゃないかとおそろしかったけれど、「お互い、交換し合うものがある。これは立派な契約だよ。気にしなくて良い」と慶之助さんに言われ、そんなものだろうかと今は落ち着いている。
また、私の話なんか面白いだろうか、と不安に思ったが(これは今でも思っている)、「あの家の人たちの暮らしや、あのまちの暮らしがこうしてわかることが楽しいんだ。今の子が、どんな本を読んでいるかも興味深いしね」と言われ、これもそんなものかと納得した。
もちろん、いつ「もう来なくていい」と言われてもいいように毎回、門を開ける度に「今日が最後かも知れない」と自分に言い聞かせることは忘れない。
「……というのが、劣性遺伝ということになります」
「なるほど」
ノートに書かれた関係図を見て、私はうなずいた。
これは、本当はいま習うことじゃない。けれど、「話のついでに」と三浦さんが話してくれたのだ。
三浦さんの授業をはたで聞いていた慶之助さんが(慶之助さんは、いつも私と三浦さんの勉強をそばで聞いていて、ときおり、参加してくれる)、
「そういえば、遺伝のことはまだ小学校ではやらないのだっけ?」
と言ったところから始まった。
今やっているのは、植物の種子についてで、遺伝のことでは無かった。
「何か、マメの遺伝についてやったような記憶があるんだけどね。しわがあるとか、ないとか」
「それは確か、中学校で習うはずですね」
「遺伝……?」
私が首を傾げるのを見て、三浦さんは「ふむ」と少し考えてから。
「ちょうど良いです。ついでにお教えしましょうか。私のこの髪色や、眼についてもおはなし出来ますし」
そう言って、カシャ、とサングラス部分を跳ね上げた。
初めて見た三浦さんの眼の色は、灰色をしていた。綺麗な、透き通るようなグレー。
「とても、きれいです」
「ふふ。ありがとうございます。……この髪や眼は、生まれつきなんです。でも私の両親はこの色をしていない。よくいる一般的な日本人の髪色と眼をしています。では何故、私だけがこの色なのか」
そうして説明してくれたのが、優性遺伝と劣性遺伝のお話だった。
現れにくい資質が、現れてしまうこともあるということ。
そうすると、親に現れなかったものが子どもに出て来ることも普通にあり得るということ。
「じゃあ、私だけが光に弱い眼を持っていても、おかしくない……?」
「ええ。普通にありえますよ。見たところ、コトリさんのおめめは、少しだけ色素が薄く感じられます。だから、光に弱いのかも知れません」
至って普通です、と三浦さんは言った。
「……よかった」
私は、ちょっとだけホッと胸をなでおろした。
おかあさんが、ずっと『そんなはずない、おかしい』と言っていたから。『絶対に気のせいだ』と、『あんたの心根が弱っちいからだ』とずっと言い続けていたから。
普通にありえるのだと知って、少しだけ安心できた。
「すごいなあ。理科って、知ったら安心する勉強なんですね」
そう言うと、三浦さんは笑みを深めた。ぱちん、とサングラス部分を下げながら。
「そうですね。……というよりどの分野でも、知識を深めることには、そういう側面があると思います」
「どの分野でも……?」
「ええ」
三浦さんはうなずく。
「国語は、おのれの感情を読みとくのに一番手ごろに感じますし、読解力をみがけばみがくほど、理解できる話が増えます。これは、働く上でもっとも大事なことです。そして、英語は、言わずもがなこちらの言葉の通じる相手が増えますし、外国に行くとき強みになります。社会は、それこそすべての時間、土地、文化、政治、経済の仕組みや流れを知ることが出来ます。それらを物に出来れば、ある程度の未来予測すら可能だと思いますね」
すらすらと、学ぶ意味を教えてくれる三浦さんに、私は、ほう、と息を吐いた。
すごい。
誰も教えてくれなくて、でもとても知りたかったことが、今あっさりと目の前にやってきてびっくりしている。
「理系科目は、この世界を形作るその根幹と言ってもいい。計算が一つでも狂えば、社会を動かすシステムは動かない。自然の仕組みをときあかさなければ、生まれて来なかった薬も、技術もある。……他の科目も、すべて同様。知れば知るほど、この世界や自分を助けることになります」
もちろん、知らなくたって生きてはいけますけどね。
三浦さんが、肩をすくめた。
「でも、知っていた方が、いざというときに自分を助ける杖がたくさんあるという安心につながると、私は思っていますよ」
ふふ、と慶之助さんが笑う。
「その通りだね。けど、知っておくだけじゃ駄目さ。その杖は使うもんなんだって常に頭に入れておかないとね」
慶之助さんは私を見ると言った。
「これから『こんなの絶対使うわけない』って思うような知識も学ばなくちゃいけなくなるだろうけどさ。何しろ、実生活に真っ直ぐつながっている知識なんてのは、けっこう少ないもんだから。でもね、真っ直ぐじゃなくても、やっぱりつながってるもんはつながってるんだ。……いつか使うかも知れない。使うときが来たらすぐに使えるようにしようって心構えで学んでいると、いざってときにぽんっと飛び出してくれる知恵に化けるよ。頭のひきだしで、ずっと眠りこけているだけの腐った宝にはならないよ」
私はうなずき、一生懸命、頭のメモに記す。
そうか。そんな風に、学ぶのか。
「コトリさんは、将来の夢は決まっているのですか?」
「!」
三浦さんの質問に、私は「どうしよう」と悩む。
決まっていないからではなくて。
「えっと……」
誰にも、言ったことは無い。
お母さんにも、……父にも。
だって、言ったらきっと怒られる。
けど、この二人に嘘は吐きたくなかった。
「言いたくなければ、言わなくていいんだよ」
「ええ。大事なことを秘密にするのは当たり前ですしね」
私の迷いを察して、慶之助さんと三浦さんが先回りしてそう言ってくれる。
それに身を任せてもいいような気がした。
でも。
それも何か違うような気がした。
「違うんです。あの……」
私は、ぎゅうっと手を握り締める。
「……葬儀屋、さん」
はっきり言いたかったけれど、声はおどろくくらい小さくなってしまった。
聞き直されたら、もう言えないかも知れない。
のどがカラカラだ。
さっき紅茶を飲んだのにな。
『そういうことすんの、やめろって言ったでしょ!』
頬が熱くなる。びりびりと痛いような気がする。
違う、これは、記憶。だから痛くない。
怖くて二人の顔が見られずに、じっと自分のノートだけを見ていた。
と。
「……ふむ。葬儀屋、ですか」
三浦さんが言った。いつも通りの、普通の口調だった。
「誰かの最期を飾る仕事か。その年で、なかなか深いところをついてきたもんだね」
慶之助さんの口調も、普段通りのものだった。
そろそろと視線を上げる。
二人は、嫌そうな顔をしていなかった。
本当に? 私は、じっと二人を見た。
まだ、心臓はドキドキ鳴って油断するなと言っている。
「私は昔、少しの間ですが葬儀屋で湯灌師をしていました。何かお話できることもあるかと」
「!」
私は、目を丸くした。
「葬儀屋さん……だったんですか?」
「ええ。この方に拾われる前は、いろいろな職業を転々としておりまして。その中のひとつですね」
「喜太郎の職業遍歴はなかなか面白いんだ。今度聞いてごらん」
慶之助さんは、ふふふと楽しそうに笑う。
……お二人にとって、『葬儀屋さん』は、怒るものでは無いようだ。
ひとまず、ホッとする。
「ちなみに、なぜ葬儀屋なのでしょう?」
三浦さんが小首を傾げた。私は一瞬、言うのをためらったが、
「……よく、亡くなってる動物を、埋葬するんです」
話すことにした。
ホッとしたのが、原因かも知れない。
「道の端とか、車道で、轢かれたり、巣から落ちたりして、亡くなっているのを見かけたらですけど……だから、その……」
「……なぜ、その子たちを埋葬してやるんだい?」
ドキ、とした。
その質問は、上手く答えられる自信が無いから。父に言ったあのときでさえ、言うか迷ったもので、上手く伝えられたかは今でも自信が無い。父がわかってくれたかもわからない。ただ、父がそんな私を否定しなかったことだけは確かで、それがとても嬉しかった。
「生きてるときは、みんな、かわいがったり、きれいだって言うのに、死んだら、そっぽを向くから」
慶之助さんは、じっと私を見ている。三浦さんも。
私は、変なことを言っていないだろうか。
「だから……」
「どうして、そっぽを向かれている子を見ると、かまいたくなるんだい?」
静かに、優しく、慶之助さんがそう聞いた。私も慶之助さんを見た。慶之助さんの深い色をした眼が、私をじっと見つめている。心の底まで、のぞくみたいに。
私は、きゅ、と心臓が縮んだ気がした。
それ、は。
どう言えば伝わるだろう。……ちがう。
どう言えば、気持ち悪がられないで、嫌われないで、伝えられるだろう。
一生懸命考えようとしたのに、頭がぐるぐるする前に、
「──似てる、から」
答えが、つるりと口から飛び出した。勝手に。ひとりでに。
私は、びっくりした。
「誰に?」
「わたしに……」
最後まで、きちんと答えてしまった。
言葉にしないで、ぐぅっと心の底にしまいこんでいたものが、ぽんと出て来てしまった。
ごおごおと、焦りが心の中で暴れる。
大丈夫? 嫌われない?
私の頭は、ぐるぐるする。
「わたしに似てて……」
メリーゴーランドみたいに、思い出がくるくるする。
『小鳥ちゃんはいい子ねぇ、お父さんに似たのかしら』
父方の祖母の声。
『賢いわねぇ、きっといい学校に入るわね。賢い大学で、たくさんおべんきょうするのよねぇ』
『そうだな、小鳥はいい子だ。日本一の大学に入れるよ。がんばれる子だから、がんばろうな』
父方の祖父の声。
二人が私を好きでいてくれたのは、ほんの短い間だけだった。
『おとうさん』とおかあさんが離婚をして、私がおかあさんについていくと決めたとき。
最後のあいさつで二人は、私を見ようともしなかった。
『……賢い子だと思っていたのに』
苦々しげに、祖母は言った。少しも視界に入れたくない、という風だった。
『小鳥は出来る子だからね。いつもがんばってて、えらいね』
二人きりの家族になって、おかあさんはいつもそうやって褒めてくれた。
『大丈夫だよ、私がちゃんと教えてあげるから』
新しく出来た友だちは、とても積極的に仲良くしてくれたし、私を『おしゃれでキャピッとした女子』にしてあげるといつも色々教えてくれた。
けど。
『どうしてがんばれないの? 普通の子らしく出来ないの?』
『何それ、私が悪いの? 違うよね? 小鳥ちゃんのためを思って、私は言ってるんだから』
もう無理だ、がんばれない、それは私の好きなことじゃないと言った私を、みんな蔑む目で見た。
私が悪い。がんばれない、普通の子らしく、ふるまえない私が悪い。
わかっている。けれど。
『はあ……本当に、駄目な子』
手のひらを返されるのは……哀しい。背を向けられるのは、寂しい。
そっぽを向かれた亡骸は、まるで私のようだった。
痛くて、辛くて、寂しくて。
「……かわいそう、だから」
ついに言ってしまった言葉に、私ははらはらした。
父にも、まだ言っていないこと。言わずにおこうと思ったこと。
大丈夫? 嫌われない? 気味悪がられない? 不快にさせていないだろうか?
三浦さんは少し考えてから、
「かわいそうですか……」
かすかに眉をしかめた。
「それは、いけません」
静かに首を横へふる。
「──ッ」
私の心が冷たく凍り、パキッとひび割れた気がした。
と同時に、猛烈に恥ずかしくなる。
胸の中が寒く、頭が熱い。
慶之助さんが、席を立つ。
「勝手に同情するのは……あまりよくありませんね」
ねえ、コトリさん。
三浦さんに呼ばれ、びくりと肩をふるわせた。
「もし、あなたが誰かから『かわいそうに』と言われて親切にされたら……それは、喜ばしいことでしょうか?」
「!」
三浦さんの言葉に、ハッとする。
脳裏でよみがえること。
『コトリちゃん、かわいそう!』
よく友だちには、そう言われた。
『かわいそうだから、たすけてあげるね!』
いつも、いつもいつも、彼女たちはそう言って私に優しくしてくれたけど。私を『普通の可愛い女子』にするために、あれこれと世話を焼いてくれたけど。
「……嬉しく、ない……」
私は、本当は、とてもダメなことだけれど、嬉しくないと思っていた。おかあさんにも、彼女らにも、ダメだと言われたし、薄情だとも言われたけれど。
それでも確かに、私は嬉しくなかった。
「そうでしょう? ……では、自分がされて嫌なことを相手にすることは、いいことでしょうか?」
「よくない……いけないこと、です」
言いながら、私はもっともっと恥ずかしくなって、顔から火が出そうだった。
私は、まるで『助ける』ようなつもりで、あの亡骸たちに自分がされて嫌だったことを押し付けていたのか。
何て、嫌なやつだろう。
だから、だからきっと、おかあさんも私の『埋葬』を嫌がったんだ。
私が、ダメだから。
……ダメだ。本当に私は、なんて嫌な、はずかしい、ダメな人間なんだろう……。
「……コトリさん」
「っ」
慶之助さんが、静かに私を呼んだ。気付けば、慶之助さんは、三浦さんとは反対側の隣の席に座っていた。
「コトリさん。……それだけかい?」
「え?」
「あんたがそっぽを向かれた亡骸を埋葬する理由。本当に、それだけかい?」
こちらを見つめる深い色の瞳に、私を蔑む気配は、無い。
「それは……」
「彼らを埋葬しているとき、何を想うんだい?」
優しい深い声音が、私を包む。
「……お花を」
「うん」
「探すんです。きれいなお花。その辺に咲いているものしか、あげられないけど。きれいなものを探して、おそなえして……」
「うん。それで?」
「私は、きれいなお花をもらえたら、うれしいなって思うから。やわらかい、気持ちの良いお布団で……いい匂いのお花と一緒に眠ることが出来たら、いいなあって思うから、そういうものをあげられたらいいなあって」
「うん」
「……本当に、猫さんや鳥さんがそれを気持ちいいなって思うかはわからないけど、でも少しでも思ってたら」
「もしそうなら?」
「……私が、嬉しい」
そうだね、と言って、慶之助さんが目を細めた。ぽん、と優しく慶之助さんは私の頭に手を乗せる。
「それで、いいんだよ」
「え……」
「そりゃ、かわいそうだからってのも理由のひとつとしてあるんだろ。でも、それだけじゃあない。『あんたがそれをすると嬉しくなるから』っていう立派な理由だってあるじゃないか」
私は、目をしばたたかせた。
「それは……いい理由なんですか?」
「そりゃあ、そうさ。あんたが嬉しくなるから、する。あんたがそうしたいから、する。何かをするときの理由は、本当は、それだけでいいんだよ。埋葬は今度から、そう思ってしなさい」
その方が、彼らにとっても供養になるさ。
ぽん、ぽん、と慶之助さんの手は、相変わらず優しく私の頭を撫でた。
「……コトリさん」
そ、と手袋をはめた手が私の手に重なる。三浦さんの、手。私がそちらを見ると、三浦さんは、かしゃんとサングラス部分を跳ね上げた。
「相手をかわいそうと思ってやることは、先ほども申し上げた通りあまりよろしくはありません。……けれど、もっと良くないのは」
三浦さんのグレーの瞳にも、嫌悪は見られなかった。
「ご自分を『かわいそう』と思うことです」
「自分を……」
三浦さんがうなずく。
「先ほど、コトリさんは『ご自分のようでかわいそう』だとおっしゃいましたね。……ご自分を、『かわいそう』な存在にしてはいけません」
ハッとする。
「……ひがいしゃ意識は、ダメですもんね」
私が悪いのに、そう思うのは最悪なのだ。
「そうじゃありません」
だけど、三浦さんは首を横へふった。私は思わず首をかしげる。
「自分で自分を『かわいそう』な存在に見下すこと自体が、いけないことなのです」
三浦さんが言った。
「もちろん、ひどい目にあったり、自分が嫌だと、好きじゃないと思ったことをされたときに、『ひどい』や『いやだ』、『くるしい』とは、思ってもいいんです。それは、当然の反応です。権利ですら無い、当たり前に起こる身体の反射と、同じことなんです」
「あたりまえの……こと?」
「そうです。それがどんなことであっても、ささいなことであっても、自分が『いやだ』と思うのは、当たり前の、心の反射です」
びっくりした。
「でも、相手は親切でやってくれてて……そのときにそう思うのは、とても『悪いこと』なんじゃ……」
三浦さんは「いいえ」と強く言った。
「例え『善意』であっても、自分が『いやだ』と思ったなら、それは自分にとって『いやなこと』なんです。『それはやめて欲しい、私は好きではないから』と言ってもいいことなんですよ」
「No, thank youというやつだね。ありがとう、でも結構ですっていう」
「そうですね。その伝え方が、一番角が立ちませんからね」
「でも……」
そう伝えても、それでも許されないときは、やっぱり、『受け取れない』私が悪いのではないだろうか。
私の考えを読んだかのように、三浦さんが言った。
「もし、それで相手が怒るのなら、相手はあなたを尊重していません。距離をおけばよいと思います。どちらか一方が、あるいは両方が嫌な思いをするなら、それは距離を置けば、たいてい解決します。それでいいんですよ」
それは。
「逃げても……いいの……?」
「……逃げと表現するのが適切かはさておき、かまわないと思います。野生動物だって、自分の命が危険だと思ったら、たいてい戦うよりはまず逃げることを選びます。その方が、確かですしね」
逃げたら『ダメ』で、人の『親切』を『良い』と思えない私は『ダメ』で……
でも、そうじゃない、こともあるの?
「話を戻します。……そんな風に、『いやだ』と思うことが起きて、『つらい』『くるしい』『いたい』と思うのは、当然の反応です。そんな風に思ってしまうようなことが起こったことを『なんてツイてない、かわいそうだ』と、そのときに思うこと自体はいいんです。そのときは、ご自分を『つらかった、かわいそうだったね』と慰めてもいいと思います」
「……」
「でも、それで終わりにしましょう。ずっと、後生大事に『自分は、かわいそうな人間なのだ』という想いを持ち続けなくてもいいんです」
三浦さんが、ぎゅっと手に力を込めた。
「いいんですよ、コトリさん」
「……!」
色々なことが、ひっくり返った気がする。
たった数分で。信じられない。まだ、全然信じられない。
けれど、三浦さんの『いいんですよ』は、そのすべてに「大丈夫」とうなずいてもらったようだった。
「はい」
「良いお返事ですね。……それでは、元湯灌師から埋葬時の注意事項でもお教えしましょう。消毒や、感染予防についてです」
「そうだねえ、そのへんは気を付けとかないとだ」
「あ……父や、おくさんから、アルコール除菌剤とか、ゴム手袋とか、色々もらいました……今も鞄に入ってます」
「なるほど。いつもおっきい鞄を持っていると思ったら、そういうことだったんだね」
「素晴らしい。ですが、それで充分か確認しましょうか」
「お、お願いします」
『気持ち悪い』
色んな人に嫌がられたことが、ここでは嫌がられない。馬鹿にされない。許される。
こんなことって、本当にあるんだろうか。
私は、三浦さんの説明を聞きながら、ぼんやりと思っていた。
*
「コートーリちゃん!」
「三宅さん?」
「どうも! 近くまで来たから、迎えに来たよ!」
慶之助さんのお家を出て駅に向かう道の途中で、三宅さんと会った。
「今日もお勉強、楽しかった?」
「……はい」
今日は、いつも以上にいっぱい学んだ気がする。
色々なことがひっくり返って、今でも頭の片隅がふわふわしている。
「ふふ、コトリちゃん、いい顔してるね。本当に、いいことを学んだんだね」
「そう……でしょうか」
笑っているのだろうか。笑いすぎちゃだめだ、と顔に力を入れようとするけれど、何となく力が入らなかった。
「あの……」
「ん? なあに?」
「三宅さん、慶之助さんのお家の近くに来たということは……慶之助さんたちに会いに来たんじゃ」
あの、私、一人で帰るの平気ですから。
私が言うと、三宅さんが「ちがうちがう」と笑って手を振った。
「ここに来たのは、たまたま。今日は、あのお宅に呼ばれてる感じはしないから」
「えっと」
「あ、もちろん、それはコトリちゃんがいたせいとかじゃないからね?」
三宅さんは言った。
「俺は、前にも言ったけど、コトリちゃんがあのお家に行ってくれて助かってるんだ。逆に俺も心置きなく、罪悪感ゼロで、慶之助さんたちに会えるしね。それと、これも前言ったように、俺、コトリちゃんがあの家に通うようになった流れが、本当に好きなんだ」
「そういえば……」
確かに言っていたような気がする。
「どうしてですか?」
「あ、そっか。理由は、まだ言ってなかったっけ?」
三宅さんが、ごめんごめんと言った。
「百さんや蝶さんたち、あのお家の大人たちがさ、がん首そろえて一生懸命、君の勉強のことを考えてるんだ。『自分たちは、理数が得意でないからなあ』って、うんうん頭を抱えてさ」
さあ、と風が吹く。緑と水の匂い。ここは川が近いから、水の匂いがよくする。
「でもね、実は小学生の……特に算数なんかは、ぶっちゃけそのへんのことよくわかんなくても教えようと思えば教えられるんだよ。『とりあえず、このときはこうして計算すればいいからー』って。コトリちゃんの小学校にも、そういう先生いなかった?」
いた。何でそうなるのか、質問したくてもできない空気で。
そして私が面倒だと自分でも思うのが、一つ納得いかないと『とりあえずこうやればいい』ということはわかっても、上手く解けなくなることがある、ということ。
そんなのは、普通は怒られることなのに、三浦さんや慶之助さんは怒らずに、質問を聞いてくれて、疑問に答えてくれる。
「でも、あのお家の大人たちは、それを良しとしなかった。……何でかわかる?」
わからなかったので、素直に首を横へとふった。
すると、三宅さんは楽しげにふふふと笑って言う。
「未来のコトリちゃんが、困らないため」
「!」
「『今はどうにかなっても、コトリちゃんの将来のためにはならない』。そう言って、みんな悩んでたんだ。『例え今誤魔化せても、この先、絶対に回らなくなるから、どうしたらいいか考えないと』って」
将来。私は、目を丸くした。
「あの人たちはね、コトリちゃんがこの先もずっと一緒にいて、もしそのときも学校へ行かない選択肢を取っても大丈夫なように……学校へ行かなくてもお勉強が出来るようにって、ずっと考えていたんだよ」
「この先も……」
一年先、二年先のことまで。
その未来も、一緒に過ごすことを、考えてくれていた。
「……大人の世界ってさ。新しく知り合っても、『どうせ一年後には一緒にいないかもな』とか『そんなずっとは一緒にいないだろうな』みたいな考えがどっか当たり前になっちゃうんだよね。いや、本当は、どんな年齢のどんな出逢いでも、いつ離れ離れになっちゃうかわからないから、それはそれでその瞬間を大事にしなきゃなんだけど、まあそれはいったん脇に置いといて」
三宅さんは、そろえた手で脇に物をどかすジェスチャーをする。
「子どものころみたいに。当たり前に、今そばにいる人が、この先もそばにいるって考えでお話を進めていくのって、なんだか素敵だと思ったんだ」
一年先、その先までも私といることを考えていてくれたということに、私の胸は、ぽっぽぽっぽと温かくなった。
……いつ追い出されてもいいように、と私が考えているときに、父やももさんたちは、私のいる未来の話をしてくれていたのだ。
どう表していいかわからない。胸の奥からせりあげてくる温かさ。泣きたいような、苦しいような、けれどまったく嫌じゃない、辛くない気持ち。
「ね、何か、いいでしょ?」
何故か、三宅さんが得意げに言った。
私は、そっと自分の胸に手を当てながら、
「……はい」
と、何とか一言だけ、言った。
それでも、まだわからないと不安な気持ちはあるけれど。
今日は、たくさん、今まで見たことのなかったきらきらしたものがそこにあると、見付けた気が、した。
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